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自然の仕組み

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2016年 03月 16日

5.運命を良くするための生命的財産 徳積の理

大親大生命が生命そのものにつけて下さっている運命財産・徳の事が生きて行くのに大変重要なことであります。素晴らしく生きていくのに この事が分かって生きて行くべきであります。
それに己の意識を高めるのには知性・理性・感性を更に高めなければなりません。

大親大生命よりお授け頂いた誠に貴い親理をここに伝えさせて頂きます。
お授けを頂いて、教えて頂かないと何一つ分かりません。

     徳積みの理

徳とは 大親大生命が保証して下さった生命的クレジットカードの如きものであります
大親大生命の生命的保証カードは通用範囲が広く大自然の全ての事柄に通用します
何日何処で誰にでも何にでも通用し自分が願った通りの運命や現象を現す事ができるという
大親大生命の生命的クレジットカードは 永遠普遍に価値あるものなり
徳という形而上的クレジットカードは大変便利なものであるが 便利だからと言って使いすぎると徳の取り過ぎとなり 天の差し引き勘定がなされる

生命的徳の保証カードは 1回使用する毎に自己の天の徳の貯蓄は減っていく
徳の貯金が無くなると 不徳人となる
人間の金を貯金するところは銀行であるが 徳を貯金するところは生命的次元の世界である天の金行なり

〝汝ら心して天に徳を積め〞とキリストも天国への徳積を教えていった
不徳な者がこの地上での金や宝物財産を持つとかえってこれらのものに執着し失う事の不安と増々物質的現世的なものにとりついて霊的観念波動が欲望の奴隷となっていく
やがて消え去っていく物質界の現象に囚われた霊魂となって地上での金や物や権力を持った事がかえって霊的災いの種となりマイナスとなる

凡そ大宇宙 物質現象界の全ては大親大生命が生命の御子らの霊的成長発展の為に創造されたものであります
地上の全ての物事は 他に対して役に立ててこそ真価が発揮される
金も物も肉体も心も 霊的観念波動も 生命力も 役割機能の原則に沿って使用してこそ価値があります

大親大生命の御親意に沿って他の為に役立ててゆくことが徳積なり
大親大生命の親理のお力お働きによって創造された世界に
大親大生命の生命の一部を生命の御子として頂き 親の理によってこの世に活かされ生きているのが全生物の姿であります
この世で得る全てのものは 元来大親大生命より与えられたものであり 徳積とはこの世の物事をどれだけ多く 大親大生命の御親意(みこころ)に沿って役立てる事ができるかということであります
それ故に 金や物や権力を自分のためだけに取り込んで執着していたのでは増々不徳な者となります
金や物や権力など自分のために取り込んで欲望の奴隷となった者は自己の霊的段階を下げて生命的原動力の徳を失い 下位落するものなり
己の魂を売って世俗の快楽を得たというゲーテのファーストと同じことなり
蛸が己の足を食べ目先で食欲を満たすのと同じ事なり
砂漠で喉が渇いたと言って持っている水を全部飲んでしまうのと同じ事なり
一時的満足はあるが 砂漠を渡りきるまでに最も大切な生命を失う事になります
物質文明におぼれている現代の人類は目先で物を得て己れ自しんの徳と自己の霊的段階を下位落させている

地球という自然資源に限りがあると判っていながら増々物質的豊かさのみを追い求め      
人口を増加させていっている
大親大生命の御親意に叶い他にプラスを行った種が自ら徳として帰ってくる
この事が
徳積の原理なり

情けは人の為ならずという諺がある 他の人のために行った善行は結局自分自しんの大いなるプラスとして循環してめぐってくるという事なり だから人のために情けをかけた事は人のためではなく むしろ自分自しんのためなのだという意味なりこれを循環の理法という
この世の全ては循環の理法によって成り立っている
大宇宙もすべてが循環している
他にプラスを与えた行いが種となって 自らにプラスが返ってくる
他のためにプラス行わずして 神仏に願ったとしても絶対にプラスは自分に返ってこない
種を蒔かずして米を生やす神仏などはどこにも居ない
原因なくして結果はない 
これは
大親大生命の絶対的な親理(真理法則)であり 必要不可欠な理法なり
麦を蒔けば麦が生え 柿をまけば柿が生える
全ての事は種通りに増えて 結果として戻ってくる

大親大生命の親理のお力お働きは正確無比なり 循環の理法は絶対なり

行いの種がプラスであれば絶対プラスが返りマイナスならばマイナスが生えてくる
種まかずしてしては何事も生えてこない
日々プラスの種をまいていく徳積を 日々のおつなぎという
日々 親理のお力お働きによって活かされ生きて居ります
生命の御子らの全ての生命を代表してその感謝と喜びを大親大生命にお受け取り頂き
真性地球親化発展の為に役立つ最大の徳積の理が日々のおつなぎなり

この地上の全ては生命の御子らが徳積を行い生命的霊的自己の本質を向上発展させる為の材料なり 金は徳積のための材料なり 物も材料なり
肉体も心も才能も全て徳積を行うための材料なり
自らが自らの自由意思で使用できるものは全て役割機能の原則に沿って役立て徳積を行うための材料なり
真性地球親化発展に役立ってこそ自己の存在価値が高まり増々向上発展する
日々のおつなぎを行って徳を積んでこそ自らの事情身情も見事に親御守護頂ける
徳積を行って事情身情諸々の願い事などの親御守護を頂いた場合は人生の充実感と生存の価値が一段と高まり霊的観念の向上発展と生命力の開発が更になされていく
おつなぎとは親縁をつなぐ理なり

大親大生命と真性なる意識の悟りにより生命の御子として生命的親縁で直結されたものである証明なり


◎この物質現象界で徳の事について表した記述があります
 松下幸之助の遺した言葉として徳行というのがあります
 
 徳行
人間としていちばん尊いものは徳である
だが徳は、教えることも習うこともできない
自分で身につけるしかない

   松下幸之助は、いくら知識やお金や、そのほかいろいろなものがあったとしても、
徳がなければそれらは生きてこないと考えていましたが、次の言葉は、ある青年から、
「徳を高めるにはどうすればいいのですか」と問われて答えたものです。

 それは私のほうが聞きたいな。私自身がいちばんそれを知りたい。むしろ、君から教えて
欲しい。こっちで聞きたいくらいです。
 しかし、徳というものは、漫然としているけれども、何よりこれがいちばんの宝でしょう。
技術も大事だし、学問も大事だけれど、徳を持たずして学問も成り立たないわけです。だから、本当の学者というのは、非常に徳の高い人でしょう。
仮に、高徳の聖といわれるようなお坊さんがいたとするでしょう。その弟子が五人いるとしたら、その五人が五人とも高徳のお坊さんになるというものではないわけです。なかにはお師匠さんに反対する人もあるし、いろいろ出てくる。だから、いかに高徳のお坊さんでも、それを人に教えることはできない。やはり、〝これが人の道だな〞というものを自分で探し求めて、悟るしかないのでしょう。その参考にいろいろ教えを聞くということはいいわけです。いま、きみは参考に聞いているのだと思いますから、参考に話をしてあげられたらいいのですが、私もはっきりいってまだ分からない。今、求道中です。
 〝君が徳が大事である.何とかして徳を高めたい〞ということを考えれば、もうそのことが徳の道にはいっているといえます。しかし技術は教えることも習うこともできるけれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。御釈迦さんでも修行して、いかに艱難辛苦しても、悟れないときは悟れなかったわけです。悟れるときは何の苦労もせずに悟れた。
私が思うには、御釈迦さんは終始一貫、〝悟りをひらきたい。この宇宙というものについての道を知りたい〞という要求だけは強かったわけですね。死にかけて、倒れて気絶するという瞬間でも、それだけは忘れずに求めていたのだとは思います。それで、菩提樹の下でほっと悟りをひらいた。
そんなもんですからね、君がそういうことを考えることはいいと思うし、私に質問していることも、その過程を踏んでいるわけです。だから、そういう心がまえでやっていってください。
私もしっかりやるから。


# by shizennori1 | 2016-03-16 19:36
2016年 02月 12日

4.運命を良くする為の生命的財産(徳)

生命的財産(徳)のことを、大親大生命の貴き親理のお授けを頂き、教えて頂き、分からせて頂きました。
これより述べさせて頂く生命的財産(徳)のことを是非分かって頂きたいです。しかしこの様な事が分からないで生きても何ら価値がありません。どんなに知識をいくらもって、知ったとしても徳がないと何にもなりません。

大親大生命が生命そのものにつけて下さっている運命財産・徳のことをしっかり悟らなければなりません。徳は目に見えません。
生命そのものについている運命貯金・運命財産であります。このことを悟って生きていかなければなりません。

   お供えの理

お供えは、自らの備えであります 運命環境が増々良くなるための備えであります
大自然に蓄えた運命貯金であります 永遠普遍の無形財産であります 自己の生命的本質となった生命的財産であります
大親大生命が認めて下さった永遠普遍の無形財産であります
大親大生命の親理のお力お働きにより 如何なる現象も変化も可能ならしめる創造的能力の財産であります
この無形なる永遠普遍の生命的財産を徳といいます
徳とは 大親大生命が認めたものであります。大自然の全てに通用するものであります
生命界・霊界・物質現象界のあらゆる事柄に通用するものであります
生命力の増強も 霊的向上発展も 運命の開発も 人生の充実も社会的肉体的向上発展も 全て徳という無形財産によってなされます 徳とは全ての原動力であります

金は人間が認めた社会的財産であり 人間が認めている範囲でしか通用いたしません
人間によって創造された金は 人間がその価値を認めなくなれば もはや金として通用しなくなります。
徳に比べれば金や物が如何に多くあったとしても 自己の運命には通用いたしません

運命環境を良くする力は生命的財産である徳にあります

徳とは大親大生命が自己の生命的本質に与えて下さった永遠普遍の財産であります
徳という生命的財産がなくなると たとえ老後のために社会的財産である金や物を如何に沢山たくわえておいたとしても 老後の運命環境が悪くなり 不慮のマイナスの出来事が次から次と起こり たくわえた金や物を失う結果となり不幸で孤独な生涯をとじる事になります。人間は何日何処でどの様な事故にあうか病気になるか予測できません
あるいは又 どんな素晴らしい出来事にあうかの予測も出来ません
プラス・マイナスの出来事は運・不運であり 運・不運は徳・不徳によるものであります

徳人はたとえマイナスの出来事にあったとしても その事がかえってプラスの結果を生む事になります
災い転じて福となるのが徳人 災いが更に災いの種として増々不幸になるのが不徳人であります
徳人は子孫に美田を残さず 徳という永遠普遍の生命的財産を残す
不徳人は徳を残さず 美田を残す
猫に小判という諺あり
猫に小判の価値は理解できず 不徳人に徳の価値を理解する事はむずかしい
子孫に美田を残しても 徳がなく不運であれば結局全てを失ってしまう結果となります

徳の価値と貴さを理解できるのは徳人なり

徳人は永遠普遍の生命的財産である徳の価値と貴さを理解できるが不徳人には理解できない
それは猫に小判の価値がわからぬのと同じことなり
大親大生命が認めて下さった真性なる生命的財産である徳の価値と貴さを理解し悟ることは人間にはむずかしい
真性を開発した生命の御子であるならば、それは容易であり当然な事として徳積ができる。即ち 真性なる意識と人間的目先の意識の違いであります
真性なる生命の意識は 永遠普遍の生命本来の財産である徳を求める
物質現象界の人間の意識は今生だけの目先の社会的欲求だけを満たそうとする

大親大生命が認めて下さった徳という価値と人間が認めた金という価値の相違を判るのが生命の御子であります
真性を開発した生命の御子は徳積みを行って最高最善の備えを行う
人間は金という社会的第二次段階の価値の備えしか判らない

人間は老後の備えしか考えないが真性を開発した生命の御子は霊的意識に戻った世界の事 更に又 再び肉体を与えられてこの物質現象界に誕生する来生 再来生のこと迄を考慮して永遠普遍に通用する備えを行う

今世 この世に生を受けて誕生した事も 今日まで活かされ生きてきた事も種々な運命や環境が与えられてきた事も 全てが大自然における大親大生命のお力お働きの賜なり

大親大生命の親理のお力お働きを無視して人間考えで老後の備えを行う事は幼稚園の子供が親の愛の力と働きを無視して自分の小遣銭をためて生きてゆこうとするが如きものなり
自分を育ててくれる親の力と働きを無視しては生きてゆけぬ 同様に
大親大生命の大自然のお力お働きを無視しては全生物の全存在はあり得ぬ

今生の老後だけの金銭的物質的備えは自己の本質的備えとはならぬ
しんの本質的備えとは 自己の生命的向上発展と霊的観念の高まりのために
永遠普遍の生命的財産である徳を積むことなり
大自然の全ては 大親大生命の親理のお力お働きによって成立し営まれている

徳とは 大親大生命の親理のお力お働きをどれだけ自由に使用させて頂けるかという分量であります
あるいは どれだけ自分の望みを達成させてもらえるかという分量であります

徳が十分に備蓄されているならばどうしてもこの様な運命になりたいと願えばその様な運命として現れる
良縁を望めば良縁となって現れる 仕事を望めば望んだ仕事が与えられる どうしてもこの病気を治してもらいたいと願えば病気がなおる 一般世間の人間考えではそれを奇跡と呼ぶが それは決して奇跡ではなく「原因結果の理法」にかなった当然の結果なり
誰でも理にかなって行えばできることなり

運が良かった悪かったとか間が良かった悪かったという事は全て徳・不徳の結果である
徳人であれば如何なる人生を通ろうともその人生を味わいある喜びと感謝の生涯とすることができる
人生を充実させ自己の霊的観念の高まりと「生命の法則」に沿った向上発展を行うことができる
不徳な者は如何に恵まれた運命や環境であろうとも不足不満の苦しみの人生を送る結果となる

物質的に多量の消費を行い豊かに恵まれている筈の現代人が生存の喜びや感謝の念を持つ事ができず
むしろ不足や不安感を抱いて暮らしているのは不徳なるが故なり
不徳な者は如何に物や金があろうとも喜びと感謝にあふれた人生を送れない
不徳な者は如何に素晴らしい人間関係や環境が与えられようとも それを素晴らしいものとして受け取ることができず
むしろ不足と不満で通る

徳とは人生を如何に幸せに通れるかを決める本質的要因なり


# by shizennori1 | 2016-02-12 17:13
2016年 02月 08日

3.生命の大親が存在している事実

これから伝えさせて頂く事は、「大親大生命」御自親より貴い貴い親理のお授けてを頂いて、教えて頂いた事を述べさせて頂きます。
この親理は、いつでもどこでも誰にでも何にでも好むと好まざるとにかかわらず知ろうと知るまいと働いている原理原則であります。
このような親理は、人間の意識・観念からは出てきません。何故なら持っていない意識であるからです。どうしても授けて頂かなくては分からないからです。生命そのものは、宗教宗派には全然関係ないからであります。どの人も心臓も動かされて、血液も循環させて頂いて、新陳代謝もして頂いて、よりよく生きていけるようにして頂いているからであります。生命そのものの事です。その上で事実を述べさせて頂きます。

生命の大親」とは、大自然の大いなる生命の営みそのものであります。大自然の大いなる生命の営み即ち、「生命の大親」は生きとし生きる全てのものに生命を与え生命の御子として全てを活かしていて下さっています。
生命の大親」の大いなるお力・お働きなしには、大自然の如何なる生命現象もありえません。
大自然の大いなる生命の営みというのは、大自然が生命活動をしている姿であります。
生命活動を行っているということは、生きているという事実であります。生存の事実を意味していることになります。従って、大自然の生命活動は大自然が生きている事を証明していることになります。 
生命の営みとは生命が活動している姿であり、生存の行為であり、生きていることそのものであります。
霊的生存行為とは霊的に生命活動をしている姿であり、霊的に生きている事で、感性・理性・知性の働きそのものであります。つまり意識そのものの生存行為であります。
肉体的生存行為とは肉体的に生命活動をしている姿であり、肉体的に生きていることであります。
このことから、大自然の大いなる生命の営みということは、大自然の大生命活動の姿であり、「生命の大親」の大生存行為であります。

生命の大親とは、「大親大生命」御自親のことであります。
生命ある全てのものに生命を与えて下さっている全生命の大親であります。大自然の全ての営みをしていて下さっている大生命力・大生命エネルギーそのものであります。即ち「大親大生命」という事になります。
大親大生命」とは、一般的に言われている様な天照大御神とか観音菩薩などという神仏としての名前ではなく、全生命の大親の存在そのものを表している意味であります。子供が親に対して「お父さんお母さん」と呼ぶのと同じように実質的な存在を意味しているのであります。
「お父さんお母さん」という言葉は名前というより寧ろ実質的意味する内容が大切なのであります。同様に、「大親大生命」とお呼び申し上げる場合は、単に神仏の名前というよりは寧ろその意味する実質的内容そのものが大切なのであります。この事をしっかり理解して悟っておかねばならないのであります。
大親大生命」とお呼びする時には、「お父さんお母さん」と呼ぶ時と同様に、「生命の大親」御自親の実質的御存在を親実感しなければなりません。
大親大生命」とは、大自然の大生命の事実を意味した言葉であります。

大自然の全ての営みをして下さっている「生命の大親」に対し奉り「大親である大生命」としての親実感と親念をもってお呼び申し上げる事は、生命ある全ての御子らの当然の義務であります。
生命の御子である全生物が生命の大親」を求めるのは生命あるものの当然の在り方であります。
子が親を求める事は「親子の原理」=根源的全体と派生的部分の原理なのであります。

人類は今まで神仏として、自分たちの親(自分たちを守ってくれる何か大いなるもの・自分達を超越した何か大いなる存在)を本質的に求めてきました。この事は、生命あるものが「生命の大親」を求めるという本質的行為でありました。
大親大生命」とは全生命の大親であり、人ではないから敢えて真性なる意味の親という言葉をつけて「大親大生命」とお呼びするのであります。意味をしっかり悟り、意味にそった親実感と親念をもってお呼びすることが大切であります。
人類は今まで「大親大生命」という「生命の大親」の御存在に対する霊的観念、そういう意識をもっていませんでした。
生命の大親」という事に対して、人類は今まで全く零意識で考える事も気付く事もしていませんでした。
大親大生命」とは、人類にとって全く新しい親霊的観念であり、親霊的観念への一大親成長発展なのであります。
人類は今こそ大親大生命」の御存在を悟らねばならない時期に来ているのであります。

大親大生命」とは、人類が今まで信仰してきた「神仏の本質」であります。

大親大生命」とは、永遠普遍なる御存在であります。

大親大生命」とは、絶対に必要不可欠なる御存在であります。

大親大生命」とは、全ての親創造主であります。
  生命界(生命の世界)・霊界(意識の世界)・物質現象界(形ある世界)の全ては、「大親大生命」の大生命力・大生命エネルギーで構成されています。
大親大生命」は全てを親創造された根源的御存在であります。

太陽神は存在していません。いわゆる茶碗神・お絞り如来という物質の神仏は存在しません。大宇宙は物質界なるが故に、大宇宙神とか大銀河神などは存在しません。

大親大生命」は、生命の絶対愛の根源的本質であります。

大親大生命」はを肉体的に親の立場となった生物に親心として与えられます。
全生物は「大親大生命」の大親心の一部を頂いて自分の子供に対する親心の愛情を持ちます。我が子に対する愛は親となった生物が自分で作り出したものではなく、「大親大生命」より与えられたものであります。
故に、「大親大生命」は、生命的絶対愛の根源的本質そのものであります。
全生物は、「大親大生命」の生命的絶対愛の祝福をうけて此の物質現象界に肉体的に誕生させて頂き、「大親大生命」の貴き大生命の営みによって活かされ生きております。
肉体的生存が終わっても「大親大生命」は生命の御子らを霊界において霊的生命活動を行わせて霊的生存をさせて下さっています。生命はもともと永遠普遍なる存在でありますから大親大生命」は生命の御子の私達を肉体的・霊的に永遠普遍に生かして下さっているのであります。
この事が地球歴史四十億年に亙る生まれ変わり出変わりの輪廻転生なのであります。
大親大生命」の永遠普遍なる生命的絶対愛なのであります。

大親大生命」は全ての営みをして下さっている大親の御存在であります。
生命界・霊界・物質現象界の全営み(全現象・全存在)を全ての生命ある御子らの為に絶対愛をもってなさっておられるのであります。
大親心の絶対愛によって全てはなされているのであります。
大親大生命」の貴き大親心の生命的絶対愛を親実感できるよう霊的観念の親成長発展を行っていくのが「生命の法則」であります。

大親大生命」は、最大・最高・最善の御存在であります。
存在の有無を超越した抽象概念として把握することが必要不可欠であります。存在の有無を超えた万有の無の御存在であります。全てが在り、全てが無いという御存在であります。

大親大生命」は、大自然界の全ての全てであります。生命界・霊界・物質現象界の全ての存在の有無を超越した全ての全てであります。


# by shizennori1 | 2016-02-08 20:12
2013年 04月 13日

2.生命が存在している事実

生命があるという事実は、何かが生命を存在させるようにしているはずです。何がそうさせているかというと、この地球に存在している者は、人間が作り出したもの以外は全て自然がそうさせています。海、山、川、全て人間の建設業者が創ったものではありません。
人間が、いろんなものを作るときは、そこに必ず意味をもって作っています。そしてそこに存在させている事になります。では私達をこの地球に生まれさせ存在させているのに意味あって創ってもらっている事実を考えると創り主がいるという事になるはずです。
しかし造り主の事を、人間が、今の宗教宗派のような、神という概念を使うと、これも正確な表現では有りません。何故なら、神というと、仏教とかキリスト教とかイスラム教とか神道とか皆、信仰している神様というのは、その人が拝んでいる人達にしか通用しません。つまり信仰宗教の派閥集団を作って神様が違うと言ってお互いに争っています。中東のアラブ人、イスラエル人のように武力を用い、お互いに争っています。宗教は助け合うことなのに、そのことさえも判っておりません。イスラム教のアラーの神も十字軍でローマ奪還としたキリスト教の天なる父といっても、ただ我欲を満たす為の信仰しかしておりません。このような神様はおりません。
何故かと言うと、以前、東京博物館に行ったとき、人類の事が表現して有りました。この地球ができてから約40億年経っています。人類がこの地球に現れたのは約4,5百万年前に現れたと表示して有りました。約40億年の期間を1年の長さにしてみると地球が1月1日に出来たとして、人間が現れたのは12月31日の午後8時過ぎとのことであると表示してありました。人間が地球上に現れ、宗教宗派を作り神様が違うと争っています。しかしそんな神はいません。何故なら人間が作った神だからです。それ以前はそのような神はいませんでした。恐竜時代もいませんでした。
太陽の周りを地球が回っている事実、人間が食物を食べて胃で消化をするのに胃液が出ることも、新陳代謝も、体内を血液が回っていることも、宗教の力では有りません。犬、猫も人間の神様を知らないで生きています。全く関係有りません。これは誰も否定できない事実であります。
では、いつでもどこでも誰にでも、あてはまる創造主は何かとなると、私達を生かして下さっている
概念は「生命の親」としか表現できません。いわゆる人間のパパ、ママの概念となります。
「生命の親」が全てを創造している事実は誰も否定できない事実であります。

# by shizennori1 | 2013-04-13 11:40
2013年 04月 05日

1.生命は頂いている事実

生命は、生きとし生けるもの全て頂いたもので生命を創りだす事は出来ません。生命は何かをする力と働きです。しかし、自分で心臓を始め、全ての臓器は、自分の意志で動かしてはおりません。
体の新陳代謝も、食物を頂いても、食べた後、胃液が出て消化されている事も、髪の毛1本、爪が伸びる事も、してもらっています。だからストップもかけられません。皆、全てしてもらっております。
この事は誰も否定できません。事実だからです。
それと生命には、今、述べた物理的な肉体と別に精神的な心があります。一人一人皆、性格が違います。どうしてこの様に違いが出てくるのでしょう。生まれて性格が違うのは何故なのか?という疑問が出てきます。この疑問から、事実を確かめていくと段々、その意味が分かってきます。

# by shizennori1 | 2013-04-05 15:12