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自然の仕組み

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2017年 09月 08日

41.生命自覚証の理

私達は、この大自然の中に、大自然の力と働きによって活かされ生きています。これは、事実であります。大自然によって活かされ生きているのですから、大自然のルールによって活かされ生きていると言ってもよいでしょう。同じことであります。ですから、大自然のルールに逆らった生き方を致しますと、そこに問題が起きてまいります。


例えば、大自然のルールと言えば、生きとし生きるものを、より良く活かそうとしております。ところが、お互いに戦争で戦争の悲劇を作ったりしています。原水爆とか、ミサイルだとか、通常兵器もそうであります。

大自然の全てを行って下さっておられます「生命の大親」であります「大親神大生命は生命というものをより良く活かそうとしておられるのに、そのルールに違反したのでありますから、そこに生きる事に不安を感じるはずであります。

いろんな国が、武器をもって騒げば騒ぐほど、お互いに生きる事に不安になってきます。つまり、大自然のルール違反をしたならば、大自然のルールによって活かされているのでありますから、違反すると不安になるのであります。


例えば、違反して生きていた場合、不安になるという事は、自動車を運転するのには、自動車を運転する免許証が必要ですが、無免許で運転したら違反になります。無免許で運転している時は、安心して運転は出来ません。車を運転している時は、不安であります。これがストレスと成るのであります。

ですから、現代人がストレスが溜まっていると言う事は、大自然のルール違反をしている事になります。なんとなくわからないけれどもルール違反をしているのであります。

では、大自然のルールという事は、何かと言いますと、大自然から活かされ生きているのでありますから、大自然というのは「生命の大親」であります「大親神大生命であるという事がいえます。では「生命の大親」であります「大親神大生命というのは、何が、誰が大親なのかということであります。

そうすると私達は、肉体的存在ではなくて、私達の本質は、いのちと言う、生命そのものであります。生命と言うのが私達ですと、大親で在ると言いますと何であるかと言いますと、今度は、大自然の大生命ということになります。

つまり、大自然の中に活かされ生きている以上は「生命の大親」であります「大親神大生命のお力お働きを頂いて活かされ生きておる事になります。

ですから、一番最初に私達が、ルールとして目ざめなければならない事は、私達は、生命の子であり、私達にとっては「生命の大親」であります「大親神大生命がいて下さいますよということであります。いわゆる造り主がいるということです。

大自然という「大親であります大生命或いはこの事を「生命の大親」と申し上げております生命の大親」であります「大親神大生命」の意味を言っているわけであります。人間ではありませんので「生命の親」であります「大親神大生命と言っているわけであります。


何故ならば、人の大親だけではないのであります。植物も虫一匹にしても、やはり生命の子供であります。ここは生命の世界であります。

まずルール第一条と言いますと、自分の親が判り、自分は生命の子供であるという自覚をもつことが第一番であります。
赤ちゃんも最初に認識するのは自分の親であります。子供から親を離してしまうと、全て情緒不安定になってしまいます。ということは、親の存在というのは、大変大きいのであります。

例えば、子供が海水浴場や動物園で迷子になったら、皆、泣いています。己の存在価値がなくなるのであります。全体が親であり、子供は部分であります。いわゆる「親子の原理」であります。

更に、例えば、時計があったとします。時計の部品の一つのネジだけが、ポンと落ちたら、時計の価値がなくなります。つまり、時計全体という親の所にちゃんと役にたってこそ部分としての時計のネジの価値があります。ネジだけだったらとっておきません。ネジ一つだったら、価値はありません。

同じように考えてみますと、人類の「生命の大親の大自然という「生命の大親」であります「大親神大生命を認識しないで生きたら情緒不安に成ります「生命の大親」であります「大親神大生命に繫がってこそ安定します。


しかし、人類は「生命の大親」であります「大親神大生命を認識しておりません。全てのものが大自然の「生命の大親」であります「大親神大生命から生命を与えられ活かされ生きているのであります。生きとし生きる全てのものは、生命の兄弟であります。だから、国と国同士で喧嘩する必要はありません。殺しあう必要は無いはずであります。

皆、生命というものが、お互いの生命を大事にしあって、活かされ生きているのであります。この世界は、生命でもって生命を支えあっている素晴らしい生命の世界であります。
この事を誰も認識しておりません。
いつ、どこで、どのように生まれてくるのか?
いつ、どこで、どんな風な人と出会うのか?
いつ、どこで、どのようにして死ぬのか?
こういう事も、人間の力でやっているわけではありません。誰がやっていて下さっているかと言う事であります。

それは「生命の大親」であります「大親神大生命がやっていて下さっているのであります。大自然の力と働きをもって行っていて下さっておられます。本当の事であります。

だったら、私達が一番最初しなくてはいけない事は、親を認識しなければなりません。動物ですら、先ず親を認識しています。
人間だったら当然、肉体というものを越えた、もっと大きな普遍的な「親」。最大の次元の高い「親」、つまり「生命の大親」であります「大親神大生命を認識するのが当然ではないのでしょうか。

そして「自分は生命の子である」ということから出発するのであります。少なくとも、最低限「生命の大親」であります「大親神大生命に活かされ生きているということを認識しなければなりません。生命を与えられて、生まれさせて貰っています。自分で特定の両親を決めて生まれてきたわけではありません。


こういうことから「生命の大親」であります「大親神大生命に対して「ああ、おかげさまで、私はこの様に、生命の子として生命を与えられ「生命の大親」であります「大親神大生命のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きて有難うございますと。どうか生命ある全てが、生命の兄弟として、どうか、皆、素晴らしく発展しますようにと。

「生命自覚証」という、これくらいの事が行えないならば、生きる喜びと感動はありません。生きている以上は、生きる喜びと感動を持つことが一番大事であります。

映画を見たら「映画を見た。ああ良かったな!」というふうな事だったら、見た甲斐があります。
旅行へ行って「ああ、良かったな!」と言ったら、旅行に行った甲斐があります。同じ様に、この世に生きて「ああ、この世に生きて良かったな!」と言ったら、今日一日生きる価値があります。
夫婦で、共に通って「ああ、お互いに共に通って良かったな!」と言ったら、通った甲斐があります。
仕事として、会社に働いた「ああ、良かった、自分はこういう仕事を持って、こういう会社に働けた」と言ったら「こういう仕事につけた」と言ったら、それは、甲斐があります。「自分は、これだけの良い仕事をさせてもらえた!」と言ったら甲斐があります。

ところが、生きがいを持たないで生きています。
「つまらない所へ勤めているだとか、働いているだとか」「つまらない相手と一緒になっているだとか」「ちっとも面白くないとか」「生きるのは苦しいだとか」皆、否定的な、マイナス、マイナス、ネガティブな意識でばかりで生きているのではないのでしょうか。それで苦しいからお助けくださいと言っています。そして人間が作った仏像に願っています。

大事なのは「生命の大親」であります「大親神大生命より生命を頂いた私達自身のこの生命の方が大事であるということなのであります。

そうすると一番大事なのは、この世の中を生きていくのには、生きていくルールがあります。体の中でも人間の決めたルールではありません。血液が循環して生きていくようにしてあるのも人間の決めたルールではありません「生命の大親」であります「大親神大生命がお決めになったルールであります。心臓が血液を循環させるポンプの役目であることも「生命の大親」であります「大親神大生命がお決めになったことであります。

全て「生命の大親」であります「大親神大生命がお決めになっているルールであります。医学でも医学が人間の肉体を作り出した訳ではありません。そのルールを私達は、知性的に調べていっています。

人間がやっている事ではなく「生命の大親」であります「大親神大生命がおやりになっている事を認識して行っているわけであります。

人間のやっている政治活動、芸術活動、宗教活動ではなく、大自然の造り主であります「生命の大親」であります「大親神大生命がやって下さっている事であります。

宗教宗派を超えて、人間、動物、植物の全ての生命あるものは、大自然の「生命の大親」のお力お働きによって活かされ生きております。

全ての生命は、自分の生命の兄弟であります。全ての生命があって、生命が生命を支えあって、肉体的生存が成り立っております。
生命の子として生命を与えられ「生命の大親」であります大親神大生命のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きている事に真感謝と喜びの真感動をもって、全ての生命あるものが、生命の兄弟として素晴らしく生きていきますようにと、その為の「生命自覚証」でなければなりません。

こういった自らの生命の自覚であります「生命自覚証」の宣誓を行わなければなりません。


これは、第一番目のルールであります。



# by shizennori1 | 2017-09-08 13:25 | 41.生命自覚証の理
2017年 09月 04日

40.創設設定の原理

如何なる存在も、即ち、形而上・形而下の存在を問わず、法則的・物理的存在を問わず、その存在の前提、或いは背後には、その存在を存在させしめる意図の力と働きがあります。


つまり、如何なる存在も現象も、何らかの意志の力と働きによってのみ創設設定されたものであり、その背後あるいは前提には、その如くにさせしめる意思・意図の力と働きがあります。

大宇宙・大自然の全ては「生命の大親」であります大親神大生命の御親意(みこころ)によって創設設定されたものであります

「生命の大親」であります大親神大生命の御親意によって創設設定されざるものはありません


大自然のすべての存在・現象の背後にはすべて「生命の大親」であります大親神大生命の御親意のお力お働きにあります

「生命の大親」であります大親神大生命の貴き御親意のお力お働きによって、大生命の一部を頂いた事により生物には意志の力と働きがあるのであります

この事が悟れていない伝統的過古人は、意志があるのは人間や高等な動物だけだと思い、全生物に生命を与え活かして下さっている偉大なる大自然の大生命の意志、即ち「生命の大親」であります大親神大生命の貴き御親意の存在を全く気付かずにいるのであります


伝統的過古人
「生命の大親」であります大親神大生命の生命の御親愛や親業を全く真実感できないどころか「生命の大親」であります大親神大生命の御存在すら気付いていないのであります

親性意識とは、貴き「生命の大親」であります「大親神大生命の御存在を真実感をもって悟り、大いなる生命の真感動をもって日々の実生活を行い、人生を通るものを言います。


「生命の大親」であります大親神大生命の貴き親理は「生命の大親」であります大親神大生命御自親の貴き御親意によって創設設定された大自然の掟であり、命霊界・物質界(大宇宙)のすべてを親創造する為に親創設設定された「生命の大親」であります大親神大生命御自親の永遠普遍なる絶対の法則であります


この事を今まで人間は、大自然の親理(真理法則)・大自然の摂理・天然自然の理法・道理など色々な言葉をもって表現していました。今日まで人間は、貴き
「生命の大親」であります「大親神大生命の御存在を判らずにいました。それ故に単に大自然の掟としてしか理解することができなかったわけです。

こういうことから、私達は「生命の大親」であります大親神大生命の貴き御親意に沿った「親創設設定の理」による生き方をしなければなりません


物事を始める時には、決してマイナスの創設設定をしてはなりません。例えば、老後に問題が起きた時に間に合うようにと預金をしたとしますと、その目的で行ったことは必ずその理の通りになります。つまり、老後に問題が起きた時に使うための預金として準備しますと老後にその預金を使わなくてはならない事が必ず起きてまいります。
何故ならその様にしたからその様になったわけであります。だから、最初の創設設定が大事になるのであります。

「その様な理で行うとその様な理が働きます」と言う原理・原則があります。この事は、宗教宗派・人種・民族・年齢・性別にかかわらず、必ず働く理法であります。


しかし、理法とは有難いものであります。プラスの、喜びの、生きる味わいとしての創設設定を致しますと、必ずプラスの、喜びの、生きる味わいの素晴らしい結果となります。

この「親創設設定の理」に沿った素晴らしい生き方をすべきであります



# by shizennori1 | 2017-09-04 18:10 | 40.創設設定の原理
2017年 09月 01日

39.価値の段階

39.価値の段階_e0319080_18184472.jpg
私達は、生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。

第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求であります。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階であります。この段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てであります。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからであります。

第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であります。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずであります。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階であります。

しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉は、辞世の句で「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」と詠んだ。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけであります。単なるはかない生き方になるだけです。

我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのであります。

第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求であります。一つの宗教に入り、その中に価値を見いだして心の満足と生存の安らぎを得ることも第三次的欲求であります。

ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。更に、勢力争いや権力闘争に明けくれている宗教人や宗派のより高い地位に着くことが目的で修業に励む僧侶、神官、牧師などの信仰は第二次的欲求であって、決して第三次的欲求とはいえないものであります。

とにかく、第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものであります。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求であります。

第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界があります。

確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのでありますが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすい。

何十年間も山の中にこもり、人目を避け、一般社会から遊離してひとり修業しているインドのヨガの行者などは、この典型といえます。だがこのような段階の者同士の接近は大変危険であります。

同じ生命を持ち、同じ地球に生存しているもの同志が、たがいに唯我独尊的な考えで他の人種や宗教、イデオロギーを否定し合うからであります。これは第三次的欲求の限界であります

現にこの世界は宗教、人種、国家、イデオロギーの相違でこの限界線に来ているのであります

第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態であります。

現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。

何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからであります

第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階であります。


自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります
他に与えて通る段階、を増やしていく段階であります。助け合いの、生命の愛の段階であります。

生命とは、もともと物質界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在であります。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもあります。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展であります。

第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことであります。

この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものであります。

つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が直ちに其の人自身の霊魂の成長段階を示していることになります



# by shizennori1 | 2017-09-01 12:18 | 39.価値の段階
2017年 08月 26日

38.食物連鎖の理

この親世界を親創造された「生命の大親」は全ての生命に、生命を与え活かしてくださっています。
他の生命である魚、野菜、果物、肉類も生命を与えられて、生命活動の結果、自分の体を作っています。

例えば、イワシも大きな魚に食べられて他の生命を活かすために役に立っています。生命あるもの同士が、生命の理をもって支えあっています。いわゆるイワシの一生は他の生命を活かすための一生であったということになります。

しかし、現在、人間は金儲けの為に山林を伐採したりして砂漠化しています。人間の我の為に自然破壊をしても何も価値はありません。更に毎日、日本で捨てている食料、レストランでの食べ残しのものすごい量・・・・・今世界の人口の五十、六十億の三分の二は飢えています。飽食の時代の日本人なんかは食べ過ぎています。

自分達だけが勝手に、その様な栄耀栄華して、徳の取りすぎになって運命的にマイナスが働いてきます。 「生命の大親」が「食物連鎖の理」を生命が生命を支えあう素晴らしい生命のシステムとして造って下さっています。

しかし人間は弱肉強食といいマイナスにとらえています。本当はプラスの親世界であります。 イワシ一匹食べられて、他の生命をプラスにしたということで、イワシの魂は、今度は他の生命をプラスにしたことで、もっと高い段階の肉体をもって生まれてきます。要するに生命を呈して他の為に役に立って生きています。これがイワシの徳積となる訳であります。


これに反して人間は何の役に立って生きているのでしょうか。
どういう役に立つ生き方をしているのでしょうか。どういう徳積をしているのでしょうか。 他の事ではなく、商売繁盛、家内安全、どうか合格しますように、病気が治りますようにと全部、自分、自分と他のことは何も考慮しておりません。

これでは、二宮尊徳翁が言われたお風呂の中でお湯をかき寄せるようなものでお湯は逃げていくと、お湯を相手に出していくとお湯は逆に寄ってくるということが全然わかっていません。


他の生物は、体を使って徳積をしているのに、人間も速くこの世界の
「生命の大親の御親意(みこころ)に沿って徳積を行い、助け合う生き方をした一生であることに気が付いて頂きたいと思います



# by shizennori1 | 2017-08-26 18:29 | 38.食物連鎖の理
2017年 08月 19日

37.親目的について

私達が住んでいる世界は、人間が造った世界ではありません。この世界は「生命の大親がお造りになられた親世界であります。私達の運命も環境も全て「生命の大親」が造って下さった親世界であります。

生命の大親」ですから私達が、素晴らしく生きていく為に造られているはずであります。私達が何かを行うのには、全てプラスを求めて行う筈であります。決してマイナスを求めて行うことはありえません。料理を作るのにもおいしさを求めて作ります。旅行に行くのにも楽しさを求めて行きます。何かを行うのも、全てプラスの目的をもってであります。

私達がプラスを求めて生きていくということは、この世の創造主である生命の大親がプラスに生きるように親創造して下さっているからであります。 しかも、いろいろな原則、原理をもって造っていて下さっています
このような原理を知識として、いろいろ認識しても生命の大親のみこころが判らないで、いくら認識したとしても、何にも価値がありません。


例えば、母親が、お腹すいたとしてカレーライスを子供に作ってくれたとします。そのカレーライスの作り方や味がどうだこうだと知ったとしても、母親の作ってくれた気持ちを感じることの方が大変大事であります

どういう気持ちで作ってくれたのか、そこに母親に対する感謝の気持ちが大変大事なことになるわけであります。

同じ事で生命の大親が私達が素晴らしく生きていくように親創造して下さっておられます。
そしてその親創造して下さっている「生命の大親」に対する親感謝をどれだけ感じられるかということであります。親の愛を感じられるものは、大変幸せであります
親がわからないと不安となります。何故なら親がわからないと迷い子ということになるからであります。

私達が生きていくということは、生命の活動であります。この生命が、それぞれの性格、精神を形成していきます。要するに、其の人自身の魂、精神(気持ちの固まり)を造って行きます。


その目的は、何の為であるかということになります。そして何の為に生きるかということです。その目的も「生命の大親」
が造っておられます

その親目的は、生命が素晴らしく成長していくように「生命の法則」として「親の意識」へ成長していくことであります。その為に、この親世界に誕生させて頂いた事になります。決して苦しみの為ではありません



# by shizennori1 | 2017-08-19 20:33 | 37.親目的について