2017年 09月 08日
私達は、この大自然の中に、大自然の力と働きによって活かされ生きています。これは、事実であります。大自然によって活かされ生きているのですから、大自然のルールによって活かされ生きていると言ってもよいでしょう。同じことであります。ですから、大自然のルールに逆らった生き方を致しますと、そこに問題が起きてまいります。
大自然の全てを行って下さっておられます「生命の大親」であります「大親神大生命」は生命というものをより良く活かそうとしておられるのに、そのルールに違反したのでありますから、そこに生きる事に不安を感じるはずであります。 いろんな国が、武器をもって騒げば騒ぐほど、お互いに生きる事に不安になってきます。つまり、大自然のルール違反をしたならば、大自然のルールによって活かされているのでありますから、違反すると不安になるのであります。
ですから、現代人がストレスが溜まっていると言う事は、大自然のルール違反をしている事になります。なんとなくわからないけれどもルール違反をしているのであります。 では、大自然のルールという事は、何かと言いますと、大自然から活かされ生きているのでありますから、大自然というのは「生命の大親」であります「大親神大生命」であるという事がいえます。では「生命の大親」であります「大親神大生命」というのは、何が、誰が大親なのかということであります。 そうすると私達は、肉体的存在ではなくて、私達の本質は、いのちと言う、生命そのものであります。生命と言うのが私達ですと、大親で在ると言いますと何であるかと言いますと、今度は、大自然の大生命ということになります。 つまり、大自然の中に活かされ生きている以上は「生命の大親」であります「大親神大生命」のお力お働きを頂いて活かされ生きておる事になります。 ですから、一番最初に私達が、ルールとして目ざめなければならない事は、私達は、生命の子であり、私達にとっては「生命の大親」であります「大親神大生命」がいて下さいますよということであります。いわゆる造り主がいるということです。 大自然という「大親であります大生命」或いはこの事を「生命の大親」と申し上げております「生命の大親」であります「大親神大生命」の意味を言っているわけであります。人間ではありませんので「生命の親」であります「大親神大生命」と言っているわけであります。
まずルール第一条と言いますと、自分の親が判り、自分は生命の子供であるという自覚をもつことが第一番であります。 例えば、子供が海水浴場や動物園で迷子になったら、皆、泣いています。己の存在価値がなくなるのであります。全体が親であり、子供は部分であります。いわゆる「親子の原理」であります。 更に、例えば、時計があったとします。時計の部品の一つのネジだけが、ポンと落ちたら、時計の価値がなくなります。つまり、時計全体という親の所にちゃんと役にたってこそ部分としての時計のネジの価値があります。ネジだけだったらとっておきません。ネジ一つだったら、価値はありません。 同じように考えてみますと、人類の「生命の大親」の大自然という「生命の大親」であります「大親神大生命」を認識しないで生きたら情緒不安に成ります「生命の大親」であります「大親神大生命」に繫がってこそ安定します。
皆、生命というものが、お互いの生命を大事にしあって、活かされ生きているのであります。この世界は、生命でもって生命を支えあっている素晴らしい生命の世界であります。 それは「生命の大親」であります「大親神大生命」がやっていて下さっているのであります。大自然の力と働きをもって行っていて下さっておられます。本当の事であります。 だったら、私達が一番最初しなくてはいけない事は、親を認識しなければなりません。動物ですら、先ず親を認識しています。 そして「自分は生命の子である」ということから出発するのであります。少なくとも、最低限「生命の大親」であります「大親神大生命」に活かされ生きているということを認識しなければなりません。生命を与えられて、生まれさせて貰っています。自分で特定の両親を決めて生まれてきたわけではありません。
「生命自覚証」という、これくらいの事が行えないならば、生きる喜びと感動はありません。生きている以上は、生きる喜びと感動を持つことが一番大事であります。 映画を見たら「映画を見た。ああ良かったな!」というふうな事だったら、見た甲斐があります。 ところが、生きがいを持たないで生きています。 大事なのは「生命の大親」であります「大親神大生命」より生命を頂いた私達自身のこの生命の方が大事であるということなのであります。 そうすると一番大事なのは、この世の中を生きていくのには、生きていくルールがあります。体の中でも人間の決めたルールではありません。血液が循環して生きていくようにしてあるのも人間の決めたルールではありません「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになったルールであります。心臓が血液を循環させるポンプの役目であることも「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになったことであります。 全て「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになっているルールであります。医学でも医学が人間の肉体を作り出した訳ではありません。そのルールを私達は、知性的に調べていっています。 人間がやっている事ではなく「生命の大親」であります「大親神大生命」がおやりになっている事を認識して行っているわけであります。 人間のやっている政治活動、芸術活動、宗教活動ではなく、大自然の造り主であります「生命の大親」であります「大親神大生命」がやって下さっている事であります。 宗教宗派を超えて、人間、動物、植物の全ての生命あるものは、大自然の「生命の大親」のお力お働きによって活かされ生きております。 全ての生命は、自分の生命の兄弟であります。全ての生命があって、生命が生命を支えあって、肉体的生存が成り立っております。 こういった自らの生命の自覚であります「生命自覚証」の宣誓を行わなければなりません。
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by shizennori1
| 2017-09-08 13:25
| 41.生命自覚証の理
2017年 09月 04日
如何なる存在も、即ち、形而上・形而下の存在を問わず、法則的・物理的存在を問わず、その存在の前提、或いは背後には、その存在を存在させしめる意図の力と働きがあります。
大宇宙・大自然の全ては「生命の大親」であります「大親神大生命」の御親意(みこころ)によって親創設設定されたものであります。 「生命の大親」であります「大親神大生命」の御親意によって親創設設定されざるものはありません。
「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意のお力お働きによって、大生命の一部を頂いた事により生物には意志の力と働きがあるのであります。 この事が悟れていない伝統的過古人は、意志があるのは人間や高等な動物だけだと思い、全生物に生命を与え活かして下さっている偉大なる大自然の大生命の意志、即ち「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意の存在を全く気付かずにいるのであります。
親性意識とは、貴き「生命の大親」であります「大親神大生命」の御存在を真実感をもって悟り、大いなる生命の真感動をもって日々の実生活を行い、人生を通るものを言います。
こういうことから、私達は「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意に沿った「親創設設定の理」による生き方をしなければなりません。
「その様な理で行うとその様な理が働きます」と言う原理・原則があります。この事は、宗教宗派・人種・民族・年齢・性別にかかわらず、必ず働く理法であります。
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by shizennori1
| 2017-09-04 18:10
| 40.創設設定の原理
2017年 09月 01日
第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求であります。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階であります。この段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てであります。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからであります。 第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であります。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずであります。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階であります。 しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉は、辞世の句で「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」と詠んだ。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけであります。単なるはかない生き方になるだけです。 我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのであります。 第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求であります。一つの宗教に入り、その中に価値を見いだして心の満足と生存の安らぎを得ることも第三次的欲求であります。 ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。更に、勢力争いや権力闘争に明けくれている宗教人や宗派のより高い地位に着くことが目的で修業に励む僧侶、神官、牧師などの信仰は第二次的欲求であって、決して第三次的欲求とはいえないものであります。 とにかく、第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものであります。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求であります。 第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界があります。 確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのでありますが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすい。 何十年間も山の中にこもり、人目を避け、一般社会から遊離してひとり修業しているインドのヨガの行者などは、この典型といえます。だがこのような段階の者同士の接近は大変危険であります。 同じ生命を持ち、同じ地球に生存しているもの同志が、たがいに唯我独尊的な考えで他の人種や宗教、イデオロギーを否定し合うからであります。これは第三次的欲求の限界であります。 現にこの世界は宗教、人種、国家、イデオロギーの相違でこの限界線に来ているのであります。 第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態であります。 現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。 何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからであります。 第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階であります。
生命とは、もともと物質界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在であります。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもあります。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展であります。 第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことであります。 この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものであります。 つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が直ちに其の人自身の霊魂の成長段階を示していることになります。 #
by shizennori1
| 2017-09-01 12:18
| 39.価値の段階
2017年 08月 26日
この親世界を親創造された「生命の大親」は全ての生命に、生命を与え活かしてくださっています。 例えば、イワシも大きな魚に食べられて他の生命を活かすために役に立っています。生命あるもの同士が、生命の理をもって支えあっています。いわゆるイワシの一生は他の生命を活かすための一生であったということになります。 しかし、現在、人間は金儲けの為に山林を伐採したりして砂漠化しています。人間の我の為に自然破壊をしても何も価値はありません。更に毎日、日本で捨てている食料、レストランでの食べ残しのものすごい量・・・・・今世界の人口の五十、六十億の三分の二は飢えています。飽食の時代の日本人なんかは食べ過ぎています。 自分達だけが勝手に、その様な栄耀栄華して、徳の取りすぎになって運命的にマイナスが働いてきます。 「生命の大親」が「食物連鎖の理」を生命が生命を支えあう素晴らしい生命のシステムとして造って下さっています。 しかし人間は弱肉強食といいマイナスにとらえています。本当はプラスの親世界であります。 イワシ一匹食べられて、他の生命をプラスにしたということで、イワシの魂は、今度は他の生命をプラスにしたことで、もっと高い段階の肉体をもって生まれてきます。要するに生命を呈して他の為に役に立って生きています。これがイワシの徳積となる訳であります。 これでは、二宮尊徳翁が言われたお風呂の中でお湯をかき寄せるようなものでお湯は逃げていくと、お湯を相手に出していくとお湯は逆に寄ってくるということが全然わかっていません。
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by shizennori1
| 2017-08-26 18:29
| 38.食物連鎖の理
2017年 08月 19日
私達が住んでいる世界は、人間が造った世界ではありません。この世界は「生命の大親」がお造りになられた親世界であります。私達の運命も環境も全て「生命の大親」が造って下さった親世界であります。 「生命の大親」ですから私達が、素晴らしく生きていく為に造られているはずであります。私達が何かを行うのには、全てプラスを求めて行う筈であります。決してマイナスを求めて行うことはありえません。料理を作るのにもおいしさを求めて作ります。旅行に行くのにも楽しさを求めて行きます。何かを行うのも、全てプラスの目的をもってであります。 私達がプラスを求めて生きていくということは、この世の創造主である「生命の大親」がプラスに生きるように親創造して下さっているからであります。 しかも、いろいろな原則、原理をもって造っていて下さっています。 どういう気持ちで作ってくれたのか、そこに母親に対する感謝の気持ちが大変大事なことになるわけであります。 同じ事で「生命の大親」が私達が素晴らしく生きていくように親創造して下さっておられます。 私達が生きていくということは、生命の活動であります。この生命が、それぞれの性格、精神を形成していきます。要するに、其の人自身の魂、精神(気持ちの固まり)を造って行きます。
その親目的は、生命が素晴らしく成長していくように「生命の法則」として「親の意識」へ成長していくことであります。その為に、この親世界に誕生させて頂いた事になります。決して苦しみの為ではありません。 #
by shizennori1
| 2017-08-19 20:33
| 37.親目的について
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アバウト
自然界に生かされて,何をどのように生きたらよいのか、その意味を良くわかって生きて行かなければなりません。その生き方を考えます。だから事実である事が非常に大事であります。
by shizennori1 カテゴリ
Ⅰ.気とは何でしょう Ⅱ.病は気から Ⅲ.気を病んではいけない Ⅳ.気の充実が「運」を開く Ⅴ.自然治癒力を高める「内気」 Ⅵ.心臓と血液のめぐり Ⅶ.血の病のいろいろ Ⅷ.血の働きを良くするもの Ⅸ.余分な水分を溜めてはいけない ⅩⅠ.五臓と体液との関係① Ⅹ.皮膚からの水分の代謝を良くする方法 ⅩⅡ.五臓と体液との関係② ⅩⅢ.「五行」の思想のはじまり ⅩⅣ.食物・生薬の「五味」の働き ⅩⅤ.「食物の気」の働き ⅩⅥ.四季にうまく「気」を取りこむ ⅩⅦ.季節で変わる五臓の働き ⅩⅧ.正しい食物の「気味」の取り方 1.よりよく生きる生き方 2.徳を積む生き方 3.徳はどうして増やせるのか 4.徳積の生き方と不徳な生き方の相違 5.①知性・理性・感性について 6.②知性・理性・感性について 7.③知性・理性・感性について 8.有意味行為の原則 9.運命を良くする生命霊財産(徳)① 10.運命を良くする生命霊財産(徳)② 11.「生命の親」の御存在 ※西郷南洲翁遺訓 12.「能動変化の理法」 13.「平均調和安定の理法」 14.「出発発展の理法」 15.「種類分化の理法」 16.「強度継続の理法」 17.「循環の理法」 18.「終止限界の理法」 19.「作用総合の理法」 20.「原因・結果の理法」① 20.「原因・結果の理法」② 20.「原因・結果の理法」③ 21.「機会・場の理法」 22.プラス善とマイナス悪 23.「悟り」と「苦しみ」 24.霊的観念・命霊観念 25.親心と子心 26.生命の役割と機能 27.生命的役割 28.「大自然界」の生き方 29.真生命霊財産(徳) 30.より良く生きること① 31.より良く生きること② 32.観念のフイルム 33.内在的な心の世界と外在的世界 34.親性と人間性 35.存在の原理 36.親子の原理 37.親目的について 38.食物連鎖の理 39.価値の段階 40.創設設定の原理 41.生命自覚証の理 42.十元の理法Ⅰ 43.十元の理法Ⅱ 44.十元の理法Ⅲ 45.事状身状の助かり方 46.大自然界の教え 47.大自然界の教え② 48.大自然界の教え③ 49.生命霊生存活動の理 50.親性一体全体 親調和 親秩序の理 51.生命霊の理 リンク
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