自然の仕組み

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2017年 04月 11日

21.「機会・場の理法」

「生命の大親」は御自親の永遠普遍なる親時間空間の理の一部を私達、生命の御子らの御霊(みたま)の親成長発展地球の親性親化発展のために授けていて下さっておられます。

「親時間空間の理」というのは「生命の大親」のお力・お働きにより、この物質界(形ある世界)の「時間と空間の理」を、私達、生命の御子らの為に親現(現していて下さって)お造り下さっておられます。

「生命の流れ」としての「時間の理」を、現していて下さっておられ、更に「生命の広がり」として「空間の理」を現していて下さっておられます。

地球の親性親化発展とは「生命の大親」が、この地球を素晴らしい生命の愛に満ちた、お互いに助け合う、親性という生命性に目覚めた地球に成長発展していく惑星の地球になっていくことであります

生命の御子らの生命活動であります親命霊界(みたま・こころの世界)や親物質界(形あるせかい)の全ての霊的生命活動も、物質体的生命活動も全ては「生命の大親」がお授け下さいました「親時間空間の理」機会・場であります。

「有意味行為の原則」により「生命の大親」が、どういう理由で、この親時間空間を私達にお授けして下さっているのかをしっかりと悟らなければなりません。

「生命の大親」は全ての生命の御子らに「親時間空間の理」真性地球の親性親化発展の為の「真種・真材料の理」としてお授け下さっておられる事をしっかり悟らなければなりません。

「真種・真材料の理とは、自分の行いの種が、真種として地球を良くする為の真材料で通ることであります。

「生命の大親」より、お授け頂いている運命・環境の全ての機会・場の親時間空間を、理に沿って活用しなければなりません

「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿って、地球をより良くする為のお役に立って、親時間空間を使用させて頂かなければなりません

「生命の大親」により、お授け頂いている価値ある貴い機会・場を大事にして、無駄にしてはいけないのであります。
自個自芯の低次元の感情や観念により、親時間空間を無駄にした生き方をしてはいけないのであります

特に今生、「親時間空間の理」を最大・最高・最善に「真種・真材料の理」として真活用して生きなければなりません

「生命の大親」が親現していて下さる「親時間空間の理」の一部を、それぞれの生命の御子は、自分の運命環境の時空間としてお授け頂いております。この事が「機会・場の理法」であります


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by shizennori1 | 2017-04-11 14:47 | 21.「機会・場の理法」
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」③

運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしているのでは、本質的に犬猫などの動物と変わらないのです。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからであります。

交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのであります。

親がどういう子供を欲しいといっても
「生命の大親」の大自然から与えて頂くしか授かりません。親が子供をつくるのではなく、大自然から、子供を授けていただくのであります

「生命の大親」は大自然の力と働きによって、全ての生物の霊的成長に最も必要でプラスとなる運命・環境をお与え下さるのであります。

運命・環境は決して悪いものはありません。問題は、その問題をどの様に通るかであります。

必ず通れる問題であります。問題そのものをマイナスにとらえてはいけません。問題があるから努力して伸びていくのであります。何もなかったらおもしろくありません。問題があるのはプラスのことであり、やりがいがあることであります。しかし、なかなかプラスに思えずにマイナスに思ってしまいます。ではマイナスに思ってそのようになってもいいのですかというと、そうなりたくないと言います。それだったらプラスに素直に思えばよいことになっていることになります。

マイナスの否定的な、ネガティブな、悲壮感な考え方に陥りやすいのです。このような観念、意識を、プラスの方へ切り替えなければなりません。このことを意識の真転換と言います。


「生命の大親」より大自然を通して与えられる運命・環境は、全生物にとって、実に重大なものであります。

「生命の大親」は全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのであります。

全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることであります。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのであります。


「生命の大親」は、全生物の生存にとって、そして全ての生物の霊的成長発展にとって必要な事を大自然を通して与えて下さっているのであります。

肉体的生存にとって必要な事、例えば大宇宙を創造して太陽や月、地球をつくり、海山川等の環境を整え、生物の物質的体をつくる等、この物質界で生存する事に必要なすべての行為を「生命の大親」が大自然を通して行っていて下さるのであります。

人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え耳が聞こえ口がきけて、手足を動かせるような人間としての物質体的な体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのであります。

「生命の大親」は全生物の肉体的生存に必要な物質的全てのことを行っていて下さる一方で、霊的成長発展に必要な運命的な事柄も与えて下さっているのであります。


大自然より活かされ生きている人間の親だけが、人間の子に精神的・肉体的に必要な事を与えて、元の
「生命の大親」が運命的・霊的に必要なことを与えないということはあり得ません。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。

「生命の大親」が最も根本的に望んでおられる事は、生命の御子であります全生物の霊的成長発展であり、肉体的生存はそのために必要な経験と味わいを霊魂に与える方法手段なのです。

従って「生命の大親」は、生命をもった御子であります全生物がそれぞれに必要な経験を味わえるようにこの世における様々な運命・環境をお与え下さっておられるのです。


各霊魂(たましい・精神)にとってどの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのであります。


「生命の大親」は親の子であります人間に自由意志を与えてくれています。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのであります。

だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境に生えてくる為の「行いの種」なのであります。

自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのであります。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。

自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのであります。

「原因・結果の理法とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して真理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからであります。

原因・結果とは、正に厳しくて有難い絶対なる理法であります。プラスにもマイナスにも原因どおりに結果が現れなければ、絶対的な大自然の親理(真理法則)とはいえません。

原因・結果永遠普遍なる絶対的な、大自然の親理(真理法則)なのであります。
「生命の大親」
の絶対的掟であり、永遠普遍の決まりなのであります。

運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからであります。

「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切であります。

人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのであります。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と徳と力を残してあげる事が最大の宝物であります。

大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方がずっと大きな価値なのであります。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからであります。

人類の生命的な質と力が高まるためには、人類が生命的絶対の「生命の大親」の御存在に目覚め「生命の大親」の大自然の力と働きに対してもっともっと素直になるべきであります。

生命も肉体的生存も人間が根源的に創造し営んでいるのではありません。


要するに徳を増やす生き方をしなくてなりません。


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by shizennori1 | 2017-04-11 12:12 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」②

医学が大自然の親理(真理法則)と対立するという考えは明らかな間違いであり、親理(真理法則)を悟っていない非科学者的発想であります。

大自然の全ての営みは総合されております。人間を含め全生物の生存とは肉体的要因だけで生きているのではありません精神的・霊的・運命的・生命的、更に環境的な要因などが全て綜合されて活かされ生きているのであります

病気が治ることを一例として取り上げてみても、医学的な肉体の治療だけがすべてではありません。治るだけの生命力が高まり、治るだけの運命・環境が整い、治るだけの観念となることが必要であります。

たとえ、医学的な治療がうまくいったとしても、そのような治療がたまたま受けられるかどうかは運命的要因が影響してきます。同じ治療や手術でもある人は助かり、ある人は治らないのであります。医学者は治そうとして最大・最善の努力をしますが、それでも結果は違ってくるのであります。

医者の立場にも運命的力は働いています。治り易い患者を多く扱う医者もいれば、幾ら技量が優れていても、間の悪い患者ばかりを扱う医者もおります。問題を起こす患者ばかりを扱っている医者は不運ということになります。

運・不運とは何も医者という職業だけのことではありません。全ての職業・仕事にあてはまります。人間の生存行為だけではなく、全ての生物の生存に事実としてあることなのであります。

大自然が運・不運という運命的現象を現実に起こしている以上は、そこに「原因・結果の理法が厳然として働いている証拠であります。何故なら、大自然の全ての現象や営みに「原因・結果の理法」が働いていて、運命現象にだけは働いていないということはありえないからであります。

運命現象にだけは「原因・結果の理法」がはたらかない、という事になれば、大自然の親理(真理法則)は、もはや大自然の永遠普遍の親理(真理法則)ではなくなります。

大自然の「原因・結果の理法」を否定したならば、一切の科学も学問も、人間の社会生活も成り立たなくなります。第一、この大自然自体の存在と現象が成り立たなくなるのであります。

成り立っている以上は、そこに永遠普遍に働く「原因・結果の理法」を認めざるを得ないのであります。

大自然の力と働きは全て綜合的であるのですから、一部的・部分的・刹那的な見方や感情的・感覚的とらえ方は間違いのもとになります。

特に親子は、体質的、性格的、霊的、運命的などいろいろな要因がつながり、共通しております。人格的、観念的に子が親の影響を受けない筈はありません。むしろ、子に一番影響を与えているのが親なのです。だから、昔から諺に「親の因果が子に報い」と言っているのであります。

親の人格、価値観、行動、観念、情緒など全てが子に影響します。子は親の全てを吸収して自己の人格、観念、性質などの人間性を形成していくのであります。だから、親の念波は九割であると言われているのであります。

子にとって親とは、父母を意味します。親という概念は子にとっては一体性のものであります。従って、両親の仲が悪かったり、価値観が異なっていたりした場合、子供は情緒が不安定になります。父母の意見の対立は、子にとって自己分裂を起こすのです。職業が何であれ、運命・環境がどうであれ、子供にとっては両親が一致していてくれることが大切であります

最近の傾向として、父が仕事だけに一生懸命となり、母が子供の事だけにかまけて、子供を過保護に育ててしまうことがあります。この結果、子供の情緒は不安定となり、子は欠損人格となります。子供自身にストレスがたまってやりきれなくなるのであります。そして遂に家庭内暴力・校内暴力と発展していくのであります。暴走族や非行化していくことも同じ原因です。ただ程度の差と方向性の違いであります。

子供を立派に育てあげるためには、お金や物質を与えることも必要ですが、それだけでは不十分であります。肉体的に子を育てるだけならば、他の動物ですらしていることです。人間の親ならば、両親が一致して人間としてこの世を素晴らしく通る観念や精神を子供に与えるべきなのです。親が自己の人格や観念を子に与えてこそ、人間の親であります。

現在、ほとんどの親達が子に物質的なものを与える事だけに関心をもち、自分達が持っている大切な心を与えることを忘れてしまっています。

大人達が、次の時代を担う子供たちの心を育て、人格を高めることを、家庭でも、学校でも怠っているのです。

その為には、まず自らが人格を高め、感謝と喜びを持った豊かな心を開発発展させなければならないのであります。自らが心の豊かさをもたずして、子に素晴らしい心や情感を与える事は出来ません。

自らが豊かな心と感動をもってこそ、子に与えることが出来るのです。

大自然の「生命の大親」に対して、自らが「生存の感謝と喜び」をもってこそ、その感謝と感動の心を子に与える事ができるのです。

「生命の大親」の生命の祝福を受け、子供を授けて戴いた人間の親達にとって最大・最高・最善の仕事は、次の時代の人類である子供たちに精神的財産を与えていく事です。

精神的財産とは、悟りと徳のことです。つまり、子供達が良い運命・環境で通れるような良い行いの種をしっかりと蒔いて行くことです。

親が蒔いた行いの種が原因となり、その結果が子供の運命・環境に確実に生えてくるのであります。

親が人格的に崇高であり、親の行いが大自然の親理(真理法則)に叶ったものであるならば、親が子に残してあげる運命的財産は素晴らしいものであります。

人間の親が残す最大のものは運命的・精神的財産です。「子孫へ美田を残すな」という諺があります。たとえ子孫に物質的財産を残しても、その財産を維持してゆけるだけの力と徳が子供になければ、子供は財産を全て失う結果となってしまいます。

子供自身の手で財産を立派にきずく事が出来るだけの運命的財産を残してあげるのが、親が子に与える最大の財産であります。

親の作った物質的財産に執着する子供よりも、自らの力でこの世を立派に生きていける力と徳を持った子供に育てあげる事が、人間の親としての最大の義務であります。

子供にとって親からの最大の精神的遺産とは、親が行った人生の事実と、親の人格そのものなのであります。親の行いは事実の種として、子供の人生に必ず運命的に生えてきます。

親のプラスの行いの種もマイナスの行いの種も、必ず子供達の人生にめぐり巡って生えてくるのであります。これが「循環の理法」であります。もし、麦という行いの種を蒔けば、好むと好まざるとにかかわらず、気付こうと気付かざるとにかかわらず、絶対に麦という運命の結果がやがて生えてくるのであります。

原因を行っておいて、運命・環境にだけは結果が現れない、という考え方は最も非科学的であり、矛盾しております。

大自然が与える運命的要因だけには、原因・結果を認めようとしないのは、大自然の「生命の大親」に対する冒瀆であります。大自然に逆らう事になるのであります。

「生命の大親」の大自然の力と働きによって生命を与えられて活かされ生きている人間が大自然に逆らっては良い運命・環境になる理由がありません。


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by shizennori1 | 2017-04-11 12:11 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」①

科学は大自然の事実を事実としてとらえて、その原因・結果を探求していくものです。例えば医学は肉体的なことの原因・結果を究明していくものです。しかし、肉体的なことが精神や情緒に影響されるという事の事実が判明すれば、医学は肉体的な物質面からだけの原因・結果を調べるだけではすまされないのです。


生命あるもの、感情あるものは、総てその心の状態が肉体に影響します。これは当然の事ですが、最も大切で絶対に犯すことができない大自然の原理原則です。

もし心配事があれば、ぐっすりと安眠は出来ません。常に不安でいらいらしていれば、心臓にも良くないし、胃にも悪いのは当たり前のことです。ストレスが体に悪いことは当然です。

情緒が不安定であれば、心を紛らす為に酒を飲んだりすることは自己保存の本能による精神安定を求めた姿ですが、却って酒で肉体的健康を害したりして何の徳にもならないのです。しかし、こんな事はよく判っていながら感情にながされて酒を飲み体を悪くするケースが多いのです。だが、心を紛らわそうとして酒に逃げて肉体を悪くしても、心身ともになんのプラスも解決もないのです。
「原因・結果の理法」は、大自然の総てにあてはまります。物質的現象にも、肉体的ことがらにも、心や感情の面にもあてはまるのです。そして大切なことは、運命的な原因・結果もあるのです。

大自然がそのような現象を起こす以上は、そこに運命的原因・結果が厳然として働いているのです。

今迄、人間は運命的原因・結果を白蛇・悪霊・方位方角・易・家相・墓相・印鑑・お経・仏像・お札・手相・人相等々の所為だとしてきました。これらのものは人間が勝手に観念の産物として創造したものです。人間自身の勝手な錯覚なのであります。


運命的原因・結果
は大自然の「生命の大親」の親理法則の力と働きによってなされるものであり、それぞれの運命・環境を与えられて、全生物の生存が40億年にも亘りこの惑星地球で続いて居るのであります。

何時・何処でどの様な親の許にどんな状態でこの世に生まれてくるのか、いつ誰と出会いどのような事を行うか、何歳の時にどんな病気をするか、事故にあうのか等は全て運命・環境として大自然の「原因・結果の理法」のお力と働きによって与えられるものであります。
大自然の全ての現象にはそれぞれの原因・結果が厳然としてあるのであります。
ただ、今まで人間がこの運命的原因・結果の事実を認識していなかっただけの事なのです。

人間が科学として行っていることは、大自然の色々な事実を「原因・結果の理法」によって認識・理解することなのであります。

原因・結果を肉体面にあてはめて認識・理解をおこなっているのが医学であり、認識・理解の対象を天体にした場合は天文学となるのであります。心理学でも、原子物理学でも、あらゆる学問・科学とは「原因・結果の法則」にあてはめて認識・理解を行うことなのであります。

しかし、人間は未だ運命現象を対象とした原因・結果の研究も、認識・理解もしていないのであります。

大自然が行っている総ての現象に「原因・結果の理法」が働いている事を人間は認識・理解しているのにもかかわらず、大自然が与えてくれている運命的現象にだけは原因・結果がないと考えるのは、大変な矛盾であります。

「生命の大親」が大自然をとおして行って下さっている運命現象の原因・結果を人間が未だ認識・理解していないが故に、運命・環境に働く「原因・結果の理法」が信じられないのです。

しかし、大自然の親理(真理法則)とは、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、何時・何処でも、誰にでも、何にでも事実として絶対に働いている原則であります。


人間の認識・理解を越えて事実その原因通りに結果が現れるのであります。

人間に自由意志を与え、知性・理性・感性を与えて科学、芸術、哲学、宗教 などを発達させるようにしている根源的力と働きは大自然にあるのであります。即ち、人間のあらゆる生存行為すらその根源は大自然の「生命の大親」にあるのだ、ということであります。


人間は
「生命の大親」によってこのように発達する運命・環境を本質的に与えられているのであるということであります。


従って、科学も、医学も,全ての学問は大自然のそれぞれの部分を対象として、大自然の親理(真理法則)を認識・理解する人間の生存行為であるといえるのであります。


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by shizennori1 | 2017-04-11 12:10 | 20.「原因・結果の理法」①
2017年 04月 11日

19.「作用総合の理法」

「生命の大親」の親創造された「親理」という無形なるものがあります。この事が一般的に言われる掟、決まりということであります。

「生命の大親生命的段階から捉えると――親理という事になります。

霊的な段階から捉えますと――――真理・摂理という事であります

物質的段階から捉えますと――――法則という事です。

例えば、道路交通法は、人間が作った掟であり、自然界に最初からあったものではありません。

この世の掟として、地球が回るとか、麦を蒔いたら麦が生えるとか、という掟は「生命の大親」が造られたものであります。

大自然の中に活かされている限り、この「生命の大親の決まりによって造られ存在させて頂いています。だから、大自然の掟に従わざる負えないのであります。それが「親理」であります。

しかし私達は、物質的に知識、学問や科学として探求してくると、物理法則として今、捉えているだけであります。

「親理」は、何時、如何なる時も、如何なることにも通用するのであります。これは、永遠普遍性であり、全てに通用するのであります

「生命の大親」は大自然の全て、大宇宙の全てを「親理」によって構成して下さっておられます。全てがそれで出来ている普遍法則であります。それを宗教では部分的に捉えています。万有引力の法則が、特定のところだけに働いている事はありえません

「親理」は誰にでも永遠普遍に働いているのであります。又「親理」を知識として捉えるのではなく、実感として捉えなければなりません。実感にするには、自ら努力して能動的に生命の力を出していかないとそうはなりません。何かを行う力を出さないとそうなりません。

物質としての米とか秋刀魚を取ったら、通用範囲の広いお金に換金します。そのお金を運命環境を良くする「徳」に換えなければなりません。この「徳」は盗むことも、貸すことも、あげる事も出来ません。

この運命財産であります「徳」があれば素晴らしく生きていけるのであります。

しかし、人間は、この世界を創造して下さった「生命の大親」に対して、この世は苦の娑婆だとか、因縁があるとか、先祖が浮かばれていないとか、悪の世界だとか言って、決して素晴らしい世界であるとは言っていません。だから、現代人は、物はありますが、より良く生きていける「徳」という運命貯金がありません。

「徳」のないものは、知識で捉えてしまいます。

「徳」のあるものは、実際の生活で役に立つように身につけるのであります。

素晴らしく生きて行けるよう「生命の大親」の造られた「理法」「作用総合の理法」というのがあります

「作用総合の理法」とは、「あらゆる存在は、全部が総合され何らかの作用性をもってのみ存在している」ということで作用性のないものはありえませんということです。

つまり、何らかの影響がないということはあり得ないということであります

例えば、着物一枚でも、作った人もいれば、販売する人もいます。更にその人達の食料を作った人もいれば、その食料を作った人の農家の家を作った人もいます。この様に考えていきますと全部が関連していますし、影響しない人はありえません。

このような考え方に立つと、自分一人がマイナスで通ると地球をマイナスにする事になります。今日一日、頭にきたと人生で思っても影響します。

現在があるのは過去が全部総合してあったからであります。家庭の中でも一人のひとが機嫌が悪いと家族全部に影響します。

しかし、そこで相手が変な顔をしても、こちらは、にこっとして絶対親念で接する事が大事であります。問題はその時がチャンスであります

私達がプラスで生きるか生きないか、私達が一銭一厘も、お金の使い方が生命にとって、プラスになるように使うか使わないかによって、地球全体の「徳」という事についての作用性ももっています。全ては作用されて総合的になっています。

大宇宙の全て(物質界)も、命霊界(霊界のこと、意識の世界)の全ても、生命界(いのちの世界のこと)の全ても、生命の世界は元々全てが総合された作用の中に存在している世界であります。これが生命の自他一体の世界であります。一即多、多即一であります。一つが全体、全体が一つであります。

時計もいろんな部品で成り立っていますが、でも一つの時計としての総合された時計であります。いわゆる部品が総合されたものであります。

大自然、大宇宙の全ての存在、全ての生命は「作用総合の理法」によってつながっているのであります。

全人類の全生物のアリ一匹でも、アリの生命も全体としての存在であります。

元々、全てがつながっているのが「生命の大親」だけであります。全て「生命の大親」につながっています。基本的に繋がらなければならないのは「生命の大親」であります

物質も生命の一つの生命の形であります。物質も生命の理が働いています。

全部「生命の大親」は総合して下さっておられます。

時間的に総合しているのが永遠性であります。

空間的に総合しているのが普遍性であります。全部ひとつのもので関係ないものはありません

素晴らしい生命の感謝をもって感動をもって生きたら全てに影響していきます。全部に本当に影響いたします。

時間的にも、今のこの一瞬を生命の感謝で通ったら、自分の全体の運命や環境にも影響するのであります。

「親理」は、全てに通用するのであります。こういうことから、親理を悟る為に生きているといっても過言ではありません。

より素晴らしく「生命の大親」につながるべきです。

「作用総合の理法」は、あらゆる個の存在、全体としての存在が作用総合されてのみ存在しうるということであります。個々があるということは、全体としてまとまらなければならないということであります。

この世界を造られたのは「作用総合の理法」と表裏一体のことであります。

これからは、あらゆることに関連があるということから、一瞬一瞬、今日の気持ち一つ、個々のこと、全体として全部影響があるという事で「親理」に沿って、プラス、プラスの気持ちで大いなる親発展を遂げなければなりません。


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by shizennori1 | 2017-04-11 11:59 | 19.「作用総合の理法」
2017年 04月 11日

18.「終止限界の理法」

人間の世界にだけ法律・秩序があって、大自然界の営みの中に絶対的な掟がないことはありえません。むしろ、大自然界の中に掟があるからこそ、全ての営みがなされています。掟・秩序は、一つの決まりがあるからこそ存在している。

体の中にも秩序があります。一つのきちんとした働きがあります。私達も口から食べています。口以外から食べてはいません。

つまり、秩序がなければ、この世界は混沌としている世界であります。例えば、電子がまわっているとか、生まれて死ぬとか、野球をやっているとき掟がなかったら成り立ちません。要するに、ルールを壊したら存在できないという事であります。

大自然の存在があり、地球も太陽を中心に回っています。銀河系も1回転するのに2億4000万年かかって回っています。

大自然の掟を否定したら成り立たなくなります
「生命の大親の親創造された「終止限界の理法」という基本的ルールがあります。これは、必ず、全てに区切りがありますよという事であります。

前世に死んだから今生、生まれたのであります。昼ごはんが終わったから夕食が食べられるのであります。テレビも一つのシーンが終わるから次のシーンになります。

終わりがなかったら、どういう事になるのでしょうか。野球も終わりがなかったらどういうことになるかというと成り立ちません。

「終止限界の理法」は自然現象を現わすのに必要な理法であります。私達がこの物質界へ生まれてきて終わりがあるという事は素晴らしい事であります。最後は「生命の大親」がお造り下さいました「終止限界の理法」へ到達するのであります。

地球にも、私達の体も区切りがあります。従って、春夏秋冬の四季にしても、一日の区切りにしても、一時間、一年という区切りにしても、全「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」がなければ自然界の全ては成り立ちません

元々は生命的な世界には区切りがないのに物質界の為にわざわざ「終止限界の理法」「生命の大親」はお造りになったのであります。

普通の細胞には区切りがあります。しかし、がん細胞には区切りがありません。細胞増殖が続いていき、区切りがありません。ですから区切りがあるから有り難いのであります

区切りがないと大自然界は成り立たないのであります。区切りがあるからこそ有り難いのです。

物質界の区切りがあるという事で、いろんな物質現象が行われる事の素晴らしさがあります。区切りがあるという事が判りますと、区切りの無いことがわかります。

区切りがないというのは何かといいますと、形のない生命の方で、目に見えない生命の本質であります。

生命の本質は、永遠性であり、永遠なる生命の生きる感動をわざわざ区切りのある物質界で味わせてもらっているのであります。

出会いがあれば別れがあります。出会いが素晴らしければ別れも素晴らしいのであります。始めがあれば、終わりがあります「終止限界の理法」があるから全てのものが味わいがあります

全ての現象は「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」を悟りますと

①死に対する恐怖がなくなります

②あらゆるマイナスのことを切ることが出来ます。

③自分のマイナスの観念をプラスに切り換える事が出来ますしかし、頑固に自分の観念を主張して切り換えようとしない人は、別であります。

態度、言葉もよりプラスに積極的に行わなければなりません。

こういうことから、人生の終わりの時、喜びと親感謝で迎える方がよいか、それとも恐怖と不安といらだたしさと苦しみで迎えた方がよいかという事になります。つまり、終わりがあるという事、終わりが無いと生まれても死なない事になります。映画が始まっても終わらない事になりますし、御飯を食べだしたら終わらない事になります。終わらないと苦しみになります。だから、終わる事は有り難いのであります。何故なら死んでも又生まれてくるからであります。生命エネルギーは無くなりません。

私達が生きているのは、この物質界であります地球に旅行に来ているのであります。だから、人生劇場といっているのであります。つまり、一人一人が役をもらって劇をしているのであります。

「終止限界の理法」は時々刻々と働いております。赤ちゃんも時々刻々と過去の姿に、お別れして現在の体に変化しております。結婚も「終止限界の理法」で独身時代の過去に終わりを告げております。

自分の過去と「終止限界の理法」で別れ、けじめをつけるのであります。小学生から中学生になったら区切りをつけます。

しかし、困った事に最近、区切りがなくなってきているのが問題であります「終止限界の理法」に逆らった生き方をしています。男性でも、自分が夫や父親である区切りをつけないものがあります。

夫婦喧嘩でも、関係の無い、過去のことを持ち出して喧嘩しております。その時には「終止限界の理法」を使って終わりにしなければなりません。過去の事を持ち出しますと際限がありません。自分のマイナスの性格には、さよならして思い切ってプラスの方へ向かわなければなりません。面白い事に、夫婦のほめあいが続いているという事は聞いたことがありません。いい事には、思い切ってやらないのに、悪い事は、一生懸命やっています。

「終止限界の理法」で切れ目が良い人は発展性があります。4,5歳の子供の愚痴をあまり聞いたことがありません。今泣いたカラスが、もう笑ったといいます。しかし、年を取ってきますと、愚痴が始まると長いです。なかなか、スパッと切り換えられません。

「問題にしている人に、問題にしている分だけの、問題があります」ということで、切り換えが難しいです。

切り換える時は、思い切ってやらなければなりません「清水の舞台から飛び降りる」という諺どおりの気持ちで行わなければなりません

なかなか、決断の付かない人は「終止限界の理法」の弱い人であります。ぐずぐず悩んだ時に「終止限界の理法」を活用しなければなりません。理を活用するのは、実際の生活に当てはめて見ますと一つの発展があります。

要するに、其の人の運命的な「徳」の力しか働きません

一番大事なことは、私達は「生命の大親」に祝福を頂いて、この親物質界に生まれさせて頂いております。私達は「生命の大親」につながり「生命の大親」にお受け取り頂く事ができますよう、生きる生命の感動で生きなければなりません。

生きる生命の感動なしに生きても価値はありません。生きる生命の感動の為にあらゆる生存行為は行われております。

あえて困難な事に挑戦して「終止限界の理法」を活用し、運命財産であります「徳」を高めて、地球が良くなる為の生き方を絶対なる親念(信じる、信じないの信念ではありません)をもって行わなければなりません


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by shizennori1 | 2017-04-11 11:51 | 18.「終止限界の理法」
2017年 04月 11日

17.「循環の理法」

私達は「生命の大親」が親創造されたこの親世界に、生命の祝福を頂いて誕生させて頂いております。誰も意味なく生まれてきた人はおりません。

私達はどこの家に、第何番目に、性は男性か女性か、自分で決めて生まれてきたわけではありません。全て「生命の大親」の御親意(みこころ)によって生まれさせて頂いております

何の為にかというと、親の意識になるためであります。肉体は黙っていても成長していきます。しかし、精神である意識は、そのままでは成長いたしません。

意識は、その人それぞれによって皆、違います。その意識を高める為に、若い時に問題を与えられる人、中年期に問題を与えられる人、晩年に問題を与えられる人、いずれにしても、その人の一番より良い時期に、魂の成長する問題が与えられます。

それは悩みではなく、其の人が努力すれば必ず解決できる問題であります

このような問題、言い換えれば、事状(あえて事情といわない)とか身状(身情といわない)の問題が誰にでも与えられます。

決して生まれた星が悪いとか、名前が悪いとか、住んでいる方位が悪いとか、先祖が浮かばれていないとか、この世が苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、誰かの因縁があるだとか、そういうことは一切関係ありません。誰のせいでもありません。

自分の意識を高めるための問題であり、決して他のせいではありません。そのような悪い世界を「生命の大親」が造るわけはありません。親は苦しめるために、この世界を創造致しません。

問題を解決するに当たり、この大自然界を構成している原理、原則があります。この原理・原則・掟も「生命の大親」が親創造して下さっておられます
このような原理である理法は、何人が知ろうと知るまいと、何人が気付こうと気付くまいと、好むと好まざるとにかかわらず、いつでも、どこでも、誰にでも、何にでも、働いている大自然の力と働きであります

しかし、この力と働きは、事実であり、もろもろの言葉で表現しても、それは言葉であり、事実ではありません。例えばリンゴと表現しても、言葉は言葉であり、リンゴは、リンゴという事実をもって現されています。これを自明の理」といいます

自明の理とは、事実が事実をもって事実を証明し、現しているということです


こういうことからいくらこのような理法を知ってもより良くはなりません

そのような生き方をしなければ、そのようにはなりません。このような事が判って、理法を生命に刻まなければなりません。

その一つの原理が循環の理法であります。

この循環の理法は誰にでも当てはまる原理・原則・掟であります。私達の生きているこの地球は、春夏秋冬と自転、公転をしています。血液も心臓から出て、心臓に帰ってきます。種を蒔くと芽が出て、葉が現れ、花を咲かせ、実を付け、やがて枯れてまた種になっていきます。人間も息を吸ってまた息を吐き、寝ては起き寝ては起きます。言葉も「させて→頂きます」「行って→いらっしゃいませ」と循環しております。輪廻転生という言葉も、生まれ変わるという意味です。この様に循環しております。

大自然界の全ては、目に見えるものも、目に見えないものも、全部循環しております。いわゆる形があろうと形がなかろうとも全て循環しております。しかし、人類は、形あるものには循環していることが判っても、形ないものにも循環していることが判っていません

だから悪い種を蒔いて自己中心の生き方をすれば、まわりまわって、その種が我が身に帰ってくることが判っていません。何故なら自分たちの行いが、目には見えないから循環してくるということが判らないでいます

このことは宗教宗派に入っていようといまいと男性女性も関係なく、人種も年齢も動物人間も一切関係ありません。つまり自然界の原則・原理・掟は誰にでも当てはまるということです

循環の理法によりプラスの種を蒔くと、その結果プラスの結果が現れてきます。しかし、マイナスの種を蒔くと、循環してきてマイナスの結果になります。

このような循環の理法』は「生命の大親」が、私達がより良く生きていく為に親創造してくださった親理である理法であります親理は、要するに、親の理であります

だから、私達も生命の一部を頂いていることから、肉親の親に親孝行をしなければなりませんが、それ以上、どうしても「生命の大親に対して親孝行をしなければなりません。これが一番の生き方の根本であります。


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by shizennori1 | 2017-04-11 11:45 | 17.「循環の理法」
2017年 04月 11日

16.「強度継続の理法」

この世の全ての存在・現象は、その存在・現象をあらしめる為に絶対時間的な継続が必要であります。即ち「存在する」という事は、絶対時間の上で何らかの継続があるからであります。

絶対時間とは、相対的この世の時間を超越したものであります。時間の本質的理を意味するものであります

もし「強度継続の理法」の働きがなくて、時間的に「0秒」の存在であれば、その存在は有りえないのであります。つまり存在している時間がなくては存在していないことなのであります

存在・現象をあらしめる理の力と働きが無くては、絶対時間に於ける瞬時の存在・現象の継続も有りえません

凡ての存在・現象は、それを時間の継続としてあらしめる理の力と働き、あってこそ有りえるのであります。

継続させる強度は意志の強さによります。意志の堅さは強度継続の強さに通じます。例えば、鉄は堅いものであるから、何十階建のビルでも建てることができます。しかし、豆腐ではたてられません

意志をどこまで貫くかによって、どれだけ困難なことを克服できるかが決まるのであります

「強度継続の理法」は時間的な長さでありますから、より永遠に継続するためには、意志の力と働きを強くしなければなりません

どこまでも努力し続けることが、この理法では最も大切であります。

求め続ける事によって「生命の大親」「強度継続の理法」の力が働くのであります。

意志の強さというものは、自己の生命エネルギーの開発発展によってなされるものであります

「生命の大親」のすべての親理の理用は、自己の生命力の開発発展によってなされるものであります

ここでいう理用とは「生命の大親の親創造された原理・原則であります親理に沿った生き方をすることであります。

要するに「生命の大親」「強度継続の理法」に沿って、どんな困難な問題であっても、強い意志の力と働きを使って継続的努力をすることであります

諺でいいますと「千里の道も一歩から」であり「ローマは一日にして成らず」であります

その結果として、自己の生命力の開発発展となり「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った素晴らし霊的観念の親の意識になる事に決定しているのであります


つまり
「強度継続の理法」に沿って、困難な問題を克服する努力をすることにより、人の気持ちの判る、他を思いやることのできる、やさしい親の意識へと成長発展することになります


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by shizennori1 | 2017-04-11 11:39 | 16.「強度継続の理法」
2017年 04月 11日

15.「種類分化の理法」

この世に存在する全ての物は、みんなそれぞれに違っています。全く同じものは、この世に二つと存在いたしません。この様に「生命の大親は親創造して下さっておられます。たとえ、双子であっても全く同じ顔ではありません。

「十人十色」「田で食う虫も好きずき」「割れ鍋にとじぶた」「人みて法をとけ」「豚に真珠」などの種々な諺も、種類分化の理法を基にした考え方であります。

もし、この世の全ての事柄が、種類分化の理法によって異なっていないならば、「十人十色」という考え方は出てきません。

「十人十色」とは、種類・分化されて、この世は存在している事を悟らせる為の一つの例にしか過ぎません。人の顔も、指紋も、浜辺の砂の一粒一粒も、一つ一つの雪の結晶も、みんな違うものであります

この世は、「種類分化の理法によって、全て個々の異なったもの(個有性)で成立していることを悟らなければなりません。この様に「生命の大親」は、親創造して下さっています。

種類分化の理法」で、この世は成立しているという事は、もしこの理法が働かなければ、この世は成立し得ないということになります。

もし、この理法の働きがなければという仮定で、この世の姿を想定してみますと、例えば、もし種類分化の理法が働かなければ、リンゴやバナナという種々な果物は存在し得ない。更に、果物・野菜・穀類・などの食物の種類すら、存在し得ない事になります。。

種類分化していく働きを無くしたら、食物と非食物の違いも無くなるし、更に種々な物質の違いも無く、分子・原子・種々な素粒子の種類も違いも無くなってしまい、更に又、物質と非物質(物質と形而上的存在)の違いも無くなってしまい、もはやこの世は成り立たなくなります。

理法とは、この世を成立させている最も根元的かつ基本的なこの世の掟であります。

従って理法は、この世の全てにあてはまるのが当然であります。すなわち、理法は永遠・普遍の存在であります。

理性的価値判断・・・・・・「理の判断」・・・・・・理法の価値観

理の判断とは、いつでも、どこでもあてはまる理法を基にして、理性的に物事を判断する事をいいます理法を基準とした価値観であります。永遠普遍の価値観であります。この世の大自然の事実が事実をもって証明している価値観であります。

要するに、大自然という「生命の大親」の絶対的価値体系を大自然の理法(真理法則)をもって理性的に判断し、悟っていくことが理の判断であります。

この世は「種類分化の理法」でそれぞれが個有性を持ち成立しているのでありますから、互いに個を認めあい、尊重しあう事は理法に適したことであります。

人種差別や宗教宗派で互いに争い、けなしあうことは理法に逆らったことであり、間違いであります。自分が気にいらないからと、感情で相手を非難し否定する事は間違いであります

種類分化の理法が悟れたなら、人類は互いの生存を脅かす様な争いを止め、国家のエゴをここまでむき出しにせず、もっと平和の住み良い世界にすることが出来ます

「種類分化の理法」による「理の判断」

種類分化の理法」によって、この世は色々のものが、それぞれ個の特色をもって存在しています。色々のものを色々と味わう為に「生命の大親」は、色々と味わう為のもろもろの器官を授けられました。この器官とは、眼や耳や鼻、舌などの五感といわれているものであります。

眼は色々なものを、良く見分ける為の器官であります。眼の使い方が理に適っているなら、眼は、眼としての役割機能を増々良くはたすようになり、問題は起こりませんが、逆に理に逆らっている場合は、色々と障害が起こります。

例えば「あんな人は見たくない、会いたくない」とか嫁姑が互いに「顔も見たくない」などと見ることに対してマイナスの意識を常に持ち、眼の役割機能に対して否定的な心使いをしていれば、その様な精神波動が潜在的に意識の中に蓄積して、次第に肉体的眼の機能に障害が起きます。

耳に関しても同じ事であります。耳を使いより良く人様の言うことを聞き分ける事は、理に適った行いであります。

理に反した行いとは、自分が一方的いこじな固定観念(ステレオタイプのアイデア)をもち、他人の言う事には耳をかさず、がんとして自分の固定観念だけを押し通すような場合であります一般的に“つんぼのガンコ親父”といわれるのは固定観念によって、人の言う事に耳を傾けなくなり、耳の役割機能を失った姿であります。

お年寄りでも、耳の良く聞こえる人も居れば、聞こえない人も居るという差が出てくる理由は、耳の役割機能を十分に肯定的に使っているか、それとも否定的に使っているかによるものであります

私は絶対にお前の言うことなんか聞かないよ」とか「そんな事は聞きたくない」と言って、聞けることに感謝がなく、不足していると、耳は遠くなります。

この世は種類分化の理法によって、個々の特色ある存在によって成立しているのであるから、見分け、聞き分けを良くして差を認識しあって通る事が、理に適った生き方であります。

差を認め合うからこそ、調和を保つために更に大きな心へと人格の成長発展がなされるのであります

色々な個性の差を認識することにより、それを包含する為のより大きな、より本質的な考えが必然的に必要とされてくるのであります。この事が悟りであり人格の成長発展であります。

人生において、人が色々の困難な問題にぶつかった時、人は新たなる体験や認識を行います。新しい体験や認識は、自分の今までの考えを拡大し、人生問題を解決する為には、どうしても自分から脱皮して自分の考え、態度、行いを改善改良せざるを得なくなります。「苦労は買ってでもせよ」という事は苦労すれば、するほど、自分の成長発展に結局は還元されるからであります

このような理法を知識として身につけたとしても、或いはこの理法がああだ、こうだと色々のところで話したとしても、その様な生き方をしなければ本当の「生命の大親」を悟らなければ、その様な現象は現れないし、その様な理は働きません

真摯に「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った生き方が大変重要 になるわけであります


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by shizennori1 | 2017-04-11 10:41 | 15.「種類分化の理法」
2017年 04月 10日

14.「出発発展の理法」

この親物質界を親創造された「生命の大親」の御親意(みこころ)によって、親設定されました大自然の親理(真理法則)の一つに「出発発展の理法」があります。

この理法は、大自然の基本的原理・原則であり、この世の全てを構成している絶対的な掟であります

親のこの親理を、人類は科学知識によって大自然の物理的側面からのみ捉えて、自然の物理法則として認識してきました。また、宗教では、自己の宗教の真理や仏法・道などとして観念的に捉えてきました。

この様な捉え方は部分的であり、表面的なものです。決して本質を把握したものではありません。

「生命の大親」の永遠普遍の貴き親理として悟る事が唯一の本質的捉え方であります。

宗教での真理や仏法などは、その宗教の真理や仏法がなくても、大自然の全ての存在や営みには何ら関係ありません。

大自然の大いなる生命の営みや存在に絶対に必要不可欠なるものの一つが「出発発展の理法」という親理であります。

この親理である出発発展の理法は、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、大自然のあらゆる全てを構成し全ての営みを行うために、何時、何処でも、誰にでも何にでも働いてい「生命の大親」の大生命エネルギーによる永遠普遍なる生命的な掟であります

出発発展の理法」は、この世のあらゆる存在・現象は時々刻々と常に新しい形状に向かって出発発展しているということです。つまり、この世は全てが常に変化しており、前の古い形や状態から新たなる形や状態になっていきますというのがこの理法であります。

昨日の自分と、今日の自分とでは一日分違います。「出発発展の理法」によって何事も常に昨日までの古い形や状態を脱皮して、今日は新しい形や状態に変化して行っているのであります。

「生命の大親」によって肉体的・物理的には常に変化発展しているにもかかわらず、自分の精神面だけが、何時までたっても自己のマイナスの観念から変化せずに停滞していたのでは、日々の生存の価値はありません。

その為にはプラスに向かって思い切った出発発展が必要であります。

生命の大親の御親意(みこころ)に適った出発発展することを観念の真転換といいます。自己の古いマイナスの観念を切り換えて、思い切った真転換を出発発展の理法に沿って行わなければなりません。

+の観念に真転換する意識(真性意識といいます)とは

Ⅰ.「生命の大親」の生命の子として生きる真念をもつこと

Ⅱ. 「生命の大親に永遠普遍に活かされているという生命の真実感を持つ

Ⅲ. 真成長発展の種としての事状身状があるということ                                                                    

Ⅳ. 親世界に活かされ生きているという生存の真感動がある

-の古い伝統的観念・伝統意識は停滞・後退・自己消滅への道であり

Ⅰ. 因縁・罪の子の観念 

Ⅱ. この世は苦の娑婆・相性が悪い・水子の霊が付いている・悪魔

Ⅲ. 宗教宗派・易等の人間の教えにすがる・現世御利益・世間体・この世的 

Ⅳ. 恨み・つらみ・ねたみ・憎しみ・そねみ・悲しみなどのマイナスの意識であります

この様にマイナスの意識からプラスの意識へ観念の真転換するのは、ちょうど、天動説を地動説のように、コペルニクスの観念の真転換をするようなものであります。

要するに「生命の大親」の御親意(みこころ)に適った観念の真転換を行い、マイナスの意識をプラスの意識へと出発発展の理法に沿った生き方をしなければなりません。



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by shizennori1 | 2017-04-10 20:14 | 14.「出発発展の理法」