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カテゴリ:31.より良く生きること②( 1 )


2017年 07月 28日

31.より良く生きること②

「生命の大親」の誠に貴き親理を悟って、より良く生きる為の「生命の愛」の実際の行いなくしては、如何に宗教行事をれいれいしく行ってみても本当の、事実の「生命の大親」には受け取ってもらことはできません。

下記の写真の子供は、ユニセフが支給する栄養食品を受け取るとよろよろと歩いてテントに向かった姿であります。

         痩せ衰えた男の子

今、アフリカ大陸では飢えが広がっています。アフリカの飢餓状況のレポートの発表によりますと西アフリカ六ケ国だけで1900万人が、アフリカ全体では現在約5000万人(実数はその倍)の人々が飢餓に苦しんでおり、この状況は戦争、干ばつ、内戦、人口増加などにより更に一段と悪化するであろうと述べています。この中には抵抗力の無い子供達が飢えて、幼い生命を奪いつつあります。

片方で聖職者たちが金銀で飾りたてた立派な衣をまとい、おごそかに神への集まりを行っている間に、一方難民の子供たちは、寒さにうち震えながら身をよせあって、食糧の配給を待っています。砂漠の夜は冷えて零度近くにも気温がさがり、衣料品を持たない裸の子供たちには、苛酷な生存の日々となっています。

下記の写真は、寒さのために身を寄せ合いながら食糧の配給を待つ子供たち。カラモジャ地方で。

      寒さに震える子供達

人が宗教を作り上げると、自分たちの自己満足のための権威を創作してしまうのであります。社会における自分たちの地位と権力と富を誇示した宗教組織には、もはや「生命の愛」の精神は無いのであります。本当の実理とした実行無しに、その言葉を唱えるだけの「生命の愛」は、生きることには何も役に立たないのであります。凍えている子供たちに毛布一枚を実際に渡す行いこそ、真の「生命の大親」の御親意に沿ったものの行いでは無いのでしょうか?

下記の写真は、干ばつ地帯の飲料水確保の為に毎日何時間もかけて飲み水を運んでいる少女の姿です。スーダン 

          バケツのかんむりの少女 

家族の生命をまもる為のバケツの冠を頭にのせているこの少女のほうが「生命の愛」の精神に叶っているのでは無いでしょうか。権威の象徴の三重冠は頭にのせなくても、生きる為の水を入れたバケツをのせた少女の方がずーっと生命本来の価値ある行いなのであります「生命の大親」の生命愛に叶った行いとは、宗教的儀式ではなく、より良く生きる為の実質的な行いであります。

下記の写真は、難民キャンプに避難した女性たちの姿です。水を得るために乾いた川床を更に13メートル掘らなければなりません。それでもほんのちょっぴり水が得られるだけなのです。

         水に苦しむ難民たち

アフリカや南米の干ばつは、数年来続いており、その深刻さは年々ひどくなっています。干ばつで水がなく、乾きのために人も動物も沢山死んでいます。一方、聖職者たちは、聖杯を傾け、ブドウ酒を飲み、自分たちこそ神に通じると思って自己満足しています。

下記の写真は、サバッダ難民キャンプにようやくたどりついた男の子。へなへなと、くずれるように座り込んでしまった。

      難民キャンプにたどりついた男の子

現代の宗教宗派は、何百、何千億円という金をかけて立派な聖堂と称する宗教的建物を建てて、宗教的自己顕示欲求を現しています。他の生命を救うより、自己の宗教宗派の拡大の方をはるかに大切にする生き方が、今日の宗教人たちであります。宗教は、立派な大企業になってしまっています。

しかし、多くの難民たちが食物が無くて苦しんでいます。世界の三分の二は、まともに 食べられず飢えております。これが地球の現状なのであります。

口先ばかりの事を言って、自己の宗教宗派の中に埋没しているのではなく、宗教宗派の殻を脱ぎ捨てて、大自然の全てに通用する「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った「生命の愛」に生きるべきであります

下記の写真は、配給用ナベの底にくっついた食糧の残りカスをむさぼるように食べている子供たちの姿です。

        生命あるものに食糧を!

肥満にふくれた金箔の仏像の前には、果物などの食糧がお供えされて豊富にあります。しかし、仏像は何も食べません。ふんだんに純金を使い、金の仏像を貴いものとして拝んでいますが、釈迦の教えは、偶像を作って拝むことを戒めた教えでありました。釈迦は一回も仏像を拝まなかったのであります。何故なら、歴史的事実として仏像が出来たのは、釈迦の死後、4,5百年たった後であるからです。

日本の仏像の前には、食糧が豊富にあります。実際に生きて必要としている子供たちの前には食糧がありません。この事を宗教人たちはどう考えているのでしょうか? 釈迦の教えとは、金箔の如来像を作ることであったのでしょうか? 

日本人よ、おごってはいけない。生命あるもの同士がより良く生きるために、助け合う実際の行いを直ぐにでも始めるべきであります。日本人の誰もが生命的助け合いを実行すべきであります。この事が「生命の大親にお受け取り頂く事になるのであります。

下の写真は、ユニセフ配給センターで、骨と皮だけになった男の子が立ったままで、何時間も食糧の配給を待っていた姿であります。

               骨と皮だけの男の子

上記の写真の子供が、食べ物も無く、薬もなく苦しんでいるのに、宗教を信仰する信者たちは自己満足と自分たちの現世御利益を願って立派な宗教儀式を行っています。己の幸せのみを願っている宗教人に「生命の大親」生命的愛の本質が悟れよう筈がありません。

人類は目覚めるべきであります。何が本当の信仰なのかを! 生命の尊厳性とは何なのかを! 

下記の写真は、父親が歩けなくなった子供を抱えて数日間歩き、サバッダ難民キャンプにたどりついた姿であります。

歩けなくなった子供を抱え数日間歩き続けた父親

仏像には生命がありません。だから食べ物も水もいらないのであります。疲れる事も寝る事もありません。生命ない物には力と働きがありません。仏像自体は人間が作った物にすぎません。バックを金で飾り立ててはありますが、人間によって作られた物は物にすぎないのであります。作った人間が、作られたものを拝むことは本末転倒であります。だから、釈迦は偶像崇拝を否定したのであります。

仏像や偶像よりはるかに尊いのが生命であります。この写真の父親は、「生命の愛」ゆえに、我が子を抱え数日間も、飲まず食わずに歩き続け難民キャンプにたどり着きました。仏像や偶像に、この「生命の愛」はありませんこの父親の行為こそ、如何なる仏像や偶像の存在よりも尊いものであります。如何なる仏像にも、この父親のまねは出来ません。

この父親の方が仏像よりも、はるかに尊い「生命の愛」の姿ではないのでしょうか!

   宗教戦争の犠牲と悲劇                                            

   「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語 

宗教や宗派の違いが原因となって、民族的対立や戦争が、世界の各地で起きています。このレバノンにおける戦争の場合も、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教が入り交じった宗教戦争であります「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語であります。宗教戦争の犠牲と悲劇は常に一般の人々であります。とりわけ女性や老人・子供たちの非力な人達の犠牲は痛ましいものであります。

イラン・イラクの争いや北アイルランドの内戦にしても、キプロスの争いにしても、その本質的原因は宗教宗派の違いにあります。人類は、宗教や神仏の名において、如何に多くの対立や殺し合いを続けてきた事でしょうか。

助け合うべき宗教や信仰が争いと対立の原因になっている事を反省し、人類生存の為にこれを止めなければなりません。その為には「生命の大親」の大自然の親理を悟らなければならないのであります。

「生命の大親」の親御存在・御親愛・御親意を悟る事により、地球が素晴らしい親惑星となる事が出来るよう、生きなければなりません。                                                                                                                                                                 



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by shizennori1 | 2017-07-28 16:20 | 31.より良く生きること②