自然の仕組み

shizenn1.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:23.「悟り」と「苦しみ」( 1 )


2017年 05月 09日

23.「悟り」と「苦しみ」

ムンクの叫び

物事の良い面を観てプラスに考えるのと、悪い面を観てマイナスに考えるのとでは、全く正反対の結果が、自分の気持ちや行動に現れてくるものです。

たとえ同じ相手の人であっても、その人の良い面を観るか悪い面を観るかでは、人間関係が全く違ったものになってきます。

嫁姑の仲が悪い場合、それは当人同士の仲が悪いのであって夫婦仲が悪いのだという事ではありません。むしろ夫婦仲は良いのかも知れません。嫁の立場になれば、自分の実の親や兄弟、友人知人達とは良い人間関係を保っており、姑以外の他の人達からは好感を持って見られているのかも知れません。

この事は姑の場合にも当てはまります。姑は自分の実の娘や息子達にとっては良き母親であり、孫達にとってはやさしいおばあちゃんであり、お茶のみ友達である親友達や知人からは良い人として見られているのかも知れません。

お互いに嫁・姑としての仲だけが悪いのであって、他の人達との仲が悪いのではないのです。同じ人間に対しても、その人と見る立場が異なると違ってくるのです。この事は親子、夫婦などあらゆる人間関係にあてはまります。

物事をプラスに考えるのか、マイナスに考えるかという事は自分自身の気持ちに大きく影響してきます。自分の気持(感情)は自分自身に大きく影響してきます。と言うよりはむしろ、自分の気持こそ自分自身であり、他人がどう考え感じていようと、それはあくまで他人の気持であって、自分自身では無いのです。

自分自身とは、自分の気持(観念)そのものであるという事を良く理解しておく事が大切です。同じ事柄であってもプラスの気持を持つか、マイナスの気持を持つかは、自分自身にとって最も重大なことです

一般の人達ならば、きれいな夕焼けをながめて美しいと感じるのが普通のことです。しかし、近代表現派を確立したノルウェーの画家エドワルド・ムンクは、夕焼けの赤色を見て恐怖の「叫び」という題の有名な絵をかきました。

ムンクが5歳の時に、結核にかかっていた母親が血を吐いて死に、彼にとって日没の光景は母親の喀血を感じさせるものでした。その時の夕日に染まった雲の印象をムンクは“凝固した血液”のようであったと 言いました。彼にとって赤色は、母親の命を奪った吐血の色であり、ムンクの潜在的観念の中には強くその印象が残っておりました。

ムンクは「叫び」と題するこの絵の中で、彼の持つ恐怖のイメージを無意識のうちに表現したのでした。従って彼は、赤を恐怖・苦しみ・不安を表す色として使いました。

恐怖と苦痛に満ちた過去のイメージにとらわれていたムンクは、自分の恐怖の気持(観念)を絵に表す事によって、自分自身の中にある不安や恐怖や苦悩と戦い続けてきたのですが、ついに45歳を過ぎてからは精神病が強まり、分裂病の状態が続き、晩年には現実の世界と、自分の観念(気持)の 世界である絵の世界とが入れ替わってしまい、自分の作品の中に埋もれて生涯を終わりました。ムンクは「肉体と精神の病は、ゆりかごを守る黒い天使であった。」と語っておりました。

「自己の観念の世界」

夕焼けという大自然の同一の事実を、ある人は美しいと実感し、他の人は恐怖を実感し、又ある人は人生のたそがれとわびしさを実感いたします。

私達の心はどの様にでも同一の事実を感じる事が出来るのであります。つまり、心というものは同一の事実をどの様にでも実感できる自由選択を持っているのであります

同一の事実を私達はどの様にでも感じる事が自由選択性によってできるのですが、しかし、自分がひとたび実感してしまうとそれが自分自身の気持という事になります。

心というものは、自分が実感している世界にのみ住んでいます。自分が感じている世界が自分の気持であり、自分の心が住んでいる自分の気持の世界を自己の観念の世界と言います。

自己の観念の世界とは、自分が認識し、判断し、実感している世界の事です。

夕焼けを美しいと感じたり、恐怖に感じたり、親子・夫婦・兄弟・嫁姑でお互いに素晴らしいと感じたり、逆に憎らしいと感じたりしている自分の気持ちの世界が「自己の観念の世界」なのであります。

相手の人を憎らしいと感じた場合、その憎しみは相手の人にあるのではなく、その様に認識・判断・実感している自分自身の心の世界にあるのであります。相手の気持がどうであれ、自分が憎しみを感じなければ、自分にとって憎しみの実感は無いのであります


悟りの世界とは、自分自身の観念の世界が喜びや味わいや感謝であふれた世界なのであります。自分自身の観念の世界に不足不満・苦しみ・憎しみなどのマイナスの感情が無い世界であります。


悟りとは、苦しみを喜びと感謝に変える力であり、悟りが無ければ自己の観念の世界は、何時までたっても素晴らしくならないのであります

凡そ人の行動というものは、全て自分の欲求を満たす為であり、欲求を満たす事によって喜びと味わいのプラスの実感を持つ為であります。

旅行に行って良かった。美味しいものを食べてよかった。一緒に暮らして良かった。今日一日生きて良かった。この世に生まれて良かったという生存の喜びと味わいの実感を持つ為に、生存の全ての行為はあるのであります。

良かったというプラスの実感を得んが為に全ての努力も行動もあるのであります

もし、旅行に行ってつまらなかったら、高いお金を出して食べたものがまずかったなら、一緒に暮らしている相手がいやだったなら、今日一日生きる事が苦しみだったなら、それはこの世に生まれて生きる「生きがい」が無いのであります。

更に生きる事で、眼が見える事、耳が聞こえる事、口がきける事は、大変な喜びと感謝であるはずであります。もしも、失明したり、聴力を失ったり、声が全く出なくなったりしたなら、誰でも死ぬほど苦しみ、悩む事になるのであります。

だから、見えて聞こえて話せる事は、最大の喜びと感謝であります。

無くなれば最大に苦しむのですから、有る事に最大の喜びと感謝を持つ事が悟りのコツであります。

凡そ悟りというのは、一般の人々が見落としたり、或いは当たり前であると思っている現実の事柄の中に、生きる最大の喜びと感謝を見い出し、自己の観念の世界をプラスの実感で満たす事なのであります

見ざる聞かざる言わざる(話さざる)の三猿のたとえは、否定的に解釈されていますが、本来の意味は、見え聞こえ話せる事に対する積極的な喜びと感謝の悟りを教えているはずのものなのであります。見え聞こえ話せるからこそ、私達は生きている事の色々な喜びや味わいを体験できるのであって、見え聞こえ話しあう事ができなければ、たとえ、人生の如何なる事柄や問題があっても、生きる味わいとしての体験や経験は出来ないのであります。

映画や芝居やテレビ・ドラマを見聞きする場合、それが喜劇であれ、悲劇であれ、悲惨な戦争ものであれ、活劇・スリラー、お化け映画などの奇怪ものであれ、それぞれを生存の味わいとして楽しんで見ています。自分が直接体験できない人生の色々な味わいや感情を、映画やテレビによって経験し、生きているからこそ味わえる色々な感情を楽しんでいるのであります。

悟りがあれば、この地球という人生劇場に生まれてきて、自らが人生劇場の主演男優・主演女優として自分自身の人生劇を演じ、現実の人生体験を通して色々な感情の味わいを楽しむ事が出来るのであります

それは丁度、私達が映画やテレビ・ドラマを見て色々な感情を楽しむ様に、実生活における自らの生存の体験から得る種々な実感を生存の味わいあるものとして喜びと感謝をもって楽しむ事ができるのであります。

悟りとは、生きる事の味わいと価値を高める能力であり、悟りが無ければ、如何に物質や人間関係に恵まれていても、自らの観念の中に幸せの実感を持てずに一生涯を通ってしまうことになるのであります

物質的に豊かになっている現代人達に最も必要なものは、自らを不安やストレスから開放する悟りの力と働きということになります。


[PR]

by shizennori1 | 2017-05-09 12:32 | 23.「悟り」と「苦しみ」