自然の仕組み
2020-01-27T17:44:06+09:00
shizennori1
自然界に生かされて,何をどのように生きたらよいのか、その意味を良くわかって生きて行かなければなりません。その生き方を考えます。だから事実である事が非常に大事であります。
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51.生命霊の理
http://shizenn1.exblog.jp/27526621/
2018-08-31T16:15:00+09:00
2020-01-17T11:38:42+09:00
2018-08-31T16:15:41+09:00
shizennori1
51.生命霊の理
生命霊の本質的実体
自己の生命霊とは自己意識体であります。生命霊とは意識体そのものであります。意識・認識・思考・判断・感受を行う事が出来る能力の本質的実体を生命霊と言います。
即ち、意識したり、認識したり、考えたり、判断したり、色々な事柄を感じたりする事が本質的実体が生命霊であります。
自己の生命は何かを意識・認識する本質的実体を生命活動により「自己自身の理」として作り出すのであります。
生命とは「親性一体全体の理」で共通普遍であるから個有性をもちませんが、個々の生命が生命力働を使用し「生命活動の理」として作り出した生命霊という意識体は唯一無二の個有性をもつ自己存在の本質的実体であります。
生命霊の真成長発展とは自己認識の拡張と命霊観念の拡大であります。
生命霊は真成長発展を行います。生命は何かをする力働でありますから、自己の生命は自己の生命霊の真成長発展という生命活動を生命の御仕事として行います。
生命霊の真成長発展とは、自己の意識・認識する範囲を拡張拡大する事であります。
自己自身の気持ちや感情・命霊観念にのみとらわれ支配されている生命活動と生命力働の使い方は自己中心生き方であります。
生命霊が真成長発展する為には他人の気持ちや命霊観念を自分の気持ちや命霊観念と同様に意識・認識・理解し、吸収する事であります。
他の感情や気持ちや命霊観念を吸収する事により自己の命霊観念の世界が拡張拡大し発展します。
自己の気持ちや感情に固執している事は最低の悟りと徳の無い生き方であります。
「生命力働の理」とは自己の命霊観念の拡張拡大・真成長発展の為に使用するべきであり、生命活動はその為に行うものであります。
自己の主張で互いに対立し争い憎しみ殺し合いを行う地球人類の生き方は生命力働の理違いの使用であり、理違いの生命活動であります。
「親命霊界」に於いて「生命霊 真家族の理」の他の生命霊の気持ちや感情や命霊観念を意識し認識し理解共有することが親の理に成る為に必要不可欠であります。
互いに真家族として生命霊を認め尊重し、個々の生命霊が持つ様々な気持ちや命霊観念を互いに共有し合う事が出来るのが「真家族の理」であります。
生命霊は自己の命霊観念の世界の中でしか「生命霊 生存活動の理」を行う事が出来ません。だから命霊観念の世界を拡張拡大する事が必要不可欠なのであります。
その為に『大親神大生命』は「親物質現象界」を生命の御子らに親創造・親現して下さったのであります。
徳と悟りの「真生命霊財産の理」が低く何時でも進歩発展の無い生命霊は自己中心で自分の気持ちや感情にだけとらわれ他の異なる気持ちや考えを理解しようとしません。
他を意識認識理解する事が出来ないのであります。
こういう生き方は何時までも進歩が無く真成長発展しません。
特に宗教宗派の妄信者たちは真成長発展はなく命霊観念の拡張拡大はないのであります。誰も否定できない事実であるからであり、意識を高める努力をする事が大変大事な事であるからです。
「親物質現象界」とは「親命霊界」で生命霊が他の命霊観念を認識吸収出来ないから出来る様にと『大親神大生命』が幼い生命霊の為に親創造・親現して下さった親世界であります。
しかし低次元の生命霊は「親物質現象界」でも自己中心で「生命霊 生存活動の理」を肉体をもって行い少しも進歩発展・真成長発展しないのであります。
『大親神大生命』より今生特別に「親選択の理」を頂き、親理のお授けを真拝命拝霊拝受させて頂いている真御使・真使・真御子らは「親物質現象界」「親命霊界」を通して真家族の命霊観念を互いに共有し合う事が出来るから幸せであります。
この様な貴きお授けを真拝命拝霊拝受させて頂きました。
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50.親性一体全体 親調和 親秩序の理
http://shizenn1.exblog.jp/27516072/
2018-08-24T19:59:00+09:00
2020-01-16T11:47:35+09:00
2018-08-24T19:59:44+09:00
shizennori1
50.親性一体全体 親調和 親秩序の理
個:他の原理!
個を個たらしめるのは他の存在があるからだ!
個が個として意認識出来るのは他があるからだ!
主観的自個の生命霊の命霊観念が低いほど他に対して敵対的に観る!攻撃性・意地悪!
客観的な観方が出来る生命霊であればある程、親心・理の心の友好的意認識となる!
他への友好的意認識!親性一体全体 真調和としての意認識。生命霊真家族の理
他への敵対的意認識が攻撃・否定・批判となります。それは自己中毒であるからであります。
攻撃・否定・批判を行うものは被害者意識・恐怖心・自己不安などの症状があります。
被害者意識があるから自己防衛の為の攻撃を行う!情緒不安なども同じ事であります。
「親性一体全体 親調和 親秩序の理」とは、個々が無ければ成り立ちません!
全体と個の一体性 個々の纏まりが全体となる!全体は個々の纏まりにより成立する。
全体は個の為に、個は全体の為に! one for all and all for me !
(理に逆らう意地悪・攻撃性は全体の個の為にならない。自己中毒生命霊である)
*主観とは自分側から観た私的低次元な命霊観念の意認識・観念である。
客観とは全体観であり、主観的自己超越の意認識・観念である。
殆どの「生命の御子 生命霊」は主観的自己中心の観方・感じ方をしている。
低次元であればある程 狭い主観的自己中毒の観方・生き方をしています。
*象と5人の盲の観方・見方!
私観的自個と客観的相手! 私感的自己は相手を客観的対象として観る、故に人の事
ならよく判る!
船の位置を意認識する! 船の位置の認識=客観性 人口衛星・星の観測など
船から見た風景=主観性 GPS
全ての事柄は主観・客観をもって観なければならない!
主観には客観が必要不可欠・客観には主観が必要不可欠!
私的観念と全体観が「親性一体全体 親調和 親秩序の理」である!
私的観念が無いと全ての味わいは無くなる!
客観性がないと永遠・普遍的親理から外れて一体全体の親調和・親秩序がなくなる!
大親神大生命御自親の主観性とは、生命の御子らの生命霊の親育成であり、大親心の御親愛と御親意であります。客観性とは大親真体系全体の親全営・親全理・親実理であります。
このような貴きお授けを親拝命拝霊拝受させて頂きました。
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49.生命霊生存活動の理
http://shizenn1.exblog.jp/27479138/
2018-08-13T20:27:00+09:00
2018-08-14T10:50:24+09:00
2018-08-13T20:27:37+09:00
shizennori1
49.生命霊生存活動の理
「大親真体系 大自然界」における「生命霊生存活動の理」
「親物質現象界」に「生きる」という事は、自己の生命霊が自分の肉体・物質体を使用して生命活動を行う事であります。つまり、自分の生命霊が自分の気持ち・心で自分の肉体・物質体を使って生命活動という生存行為をする事なのであります。
自己個有の生命霊(気持ち・心)が主役で肉体・物質体を自分の思うように使用して一生を
いきるのであります。
これが「親物質現象界」における肉体的・物質体的生存であります。
「親命霊界」に「生きる」という事は肉体・物質体は無しに生命霊意認識体として生きる事であります。
気持ち・感情・情緒だけで生きる意認識体の生命活動であります。
如何なる気持ち・感情・情緒で生きたいのか、自己の命霊観念の欲求・欲望によって生命霊
意認識体の生き方が決まるのです。
「親命霊界」とは自己の気持ちや心・感情情緒で生きる生命霊意認識体の親世界であります。
どの様な意認識で生きるかは自己個有の命霊観念で決まります。
もしも、食べられなくて飢餓で死んだ生命霊の場合は、肉体の無い「親命霊界」でも食べたいと
いう食欲に悩まされた苦しみの気持ち・心・意認識で時空間を超えて生命霊意認識体として
生き続ける事にあるのであります。
この事が餓鬼道に陥った肉体執着の生命霊(霊魂)の生き方であります。
この世、「親物質現象界」の人間社会の金・地位権力・財産などの俗事や肉体・物質執着
の生命霊(霊魂)は「親命霊界」では無いものに執着しているが故に、全て悩み苦しみの
生命霊(霊魂)となって生きる事になります。
所謂浮かばれない生命霊(霊魂)であり永遠に満たされない欲求・欲望をもって苦しんで生きる(生命霊生存活動を行う)生命霊(霊魂)となるのであります!
「親命霊界」で地獄というマイナスの生き方の理になるのであります。
この正反対の天国・極楽の理の生き方は、生命霊(霊魂)が親感謝・喜びなどのプラスの気持ち・心・
感情情緒・欲求欲望などの意認識をもって生命霊(霊魂)の生存活動を行う事であります。
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48.大自然界の教え③
http://shizenn1.exblog.jp/27476190/
2018-08-11T20:52:00+09:00
2020-01-16T11:51:32+09:00
2018-08-11T20:52:27+09:00
shizennori1
48.大自然界の教え③
により生命が与えられ、生命ある生物としてこの世(親物質現象界)に誕生させて頂いて
いるのです。誰も自分自身の力と働きにより肉体的・物質体的誕生を行ってはいません。
全ての生命ある存在・生物は大自然界の大いなる生命の力と働きにより「生命の力と働き
の理」が与えられ、大いなる生命の力と働きにより活かされ生きているのです。 「生命の家族の理」=「自明の理」 大自然界の大いなる「生命の理」には地球人類の宗教宗派・神仏の違いの差別・区別は
全く関係ありません。大自然界の大いなる生命には人間・動物・植物の違い・差別すら無
いのです!生きとし活ける全ての生命ある生物・存在は全て「大自然界の大いなる生命の
生命家族」なのです!この事は大自然界の事実・真実であり大自然界の「自明の理」とい
います。「自明の理」とは事実が事実をもって事実である事を証明している事です。
例えば、果物のリンゴである事はリンゴである事実をもってリンゴである事実を証明してお
ります。この事が「自明の理」なのです
生命ある全ての生物・存在・生存在が「大自然界の大いなる生命の生命家族の理」であ
る、という事実は大自然界の「自明の理」なのです。
この大宇宙もミクロの世界の分子・原子や素粒子も大自然界の存在の全てが大自然界
の大いなる生命の力と働きにより生存・存在・生存在しているのです!大自然界の大いな
る生命の力と働き無しには大自然界そのものが成り立たないのです!「大自然界の大いなる生命の力と働き」の事を物理学のようにエネルギーと言っても、
何と言っても言葉は問題ではありません。生命とは、何かをする力と働きそのものなのです
何でも行える、何でも出来る、何でも可能な力と働き、力働そのものです!ですから
エネルギーと呼ぼうと神通力と呼ぼうと理力と呼ぼうと人間の言葉は関係ありません!
重要な事は「大自然界の大いなる生命の力と働き」という事実そのものの事です。 「大親神大生命」=大いなる生命「大自然界の大いなる生命の力と働き」により全生物・生存在は「生命の理」が与えられ
生存・生存在しております。「大自然界の大いなる生命」とは全生物を含め「生命力働」
ある全ての生存在する「生命の大親」なのです!従って「大自然界の大いなる生命」とは
「全ての生命の大親である大生命」即ち、「大親神大生命」なのです!この事実は大自然界の
「自明の理」なのです!「大親大生命」の親御存在・生存在が「大親真体系 大自然界」の
大いなる営みそのものなのです!
「大親神大生命」という大自然界の大いなる生命の親の御存在・生存在は大自然界の「自明の理」であり、事実=真実そのものなのです!地球人類の宗教宗派や人造神仏には関係ありません。
「大親神大生命」は大自然界の「自明の理」であり、事実=真実そのものなのです!
生きとし活ける全ての生物・全ての生存在は、『大親神大生命」の「大いなる生命の理」で
「大親真体系 大自然界」に活かされ生きております。「生命の理」が判る段階の生物は
『大親神大生命」という「大自然の大いなる生命」の大親に生命の親感謝をもって通るべきで
あり、生命の尊さを実感し悟り、生命の尊厳性を大切にすべきです!
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47.大自然界の教え②
http://shizenn1.exblog.jp/27447456/
2018-07-24T17:04:00+09:00
2020-01-16T11:53:49+09:00
2018-07-24T17:04:45+09:00
shizennori1
47.大自然界の教え②
大自然は全生物に生命を与えて大自然界の中に誕生させて物質体的・肉体的に生かしてくれている。大自然に大いなる生命の力と働きがあるからだ!
「大自然の大いなる生命」こそ全生物の生命の大親であり,「大親神大生命」なのであります。この大自然の事実・真実が判ったならば誰でも「大自然の大いなる生命」である「大親神大生命」に対し奉り生命生存の親感謝を行い生命愛を真実感して精神的に豊かで安定した日々の人生を通るべきであります!
「大親神大生命」に生命生存の親感謝を行えば誰でも生きる事の幸福感がもてる様になるのであります。 「生きる」という事は生命活動の姿である!生物の生存とは肉体的・物質体的な生命活動だけではなく様々な心や気持ちの感情的情緒的な精神的生命活動があります。この精神的生命活動を「生命霊生存」といいます!
全生物は肉体的・物質体的に生きる生命活動と、気持ちや心で生きる生命活動の両面で生きています。 地球人類は物質体・肉体的に生きるという生命活動にのみ囚われて生命霊として生きている精神的生命活動の重要性を意識しないで生きています。
生命霊として精神的に生きる生命活動とは大自然の「親物質現象界」であるこの世の中に肉体・物質体を使って自分の気持ちや心で生きる自己個有の生き方の事であります。全生物は全て自分の気持ちや心で肉体・物質体を使い自分独特な自己個有の生き方をしています。
生命霊とは自己個有の意識・認識体であります。生命霊とは自分の生命がもつ自己個有の精神的な体の事であります。生命霊は命霊観念という自己個有の意認識体を持っています。命霊観念とは自己個有の感じ方・考え方・気持ち感情など自分独特な心の事であります。生命霊は自己個有の命霊観念の総合体であります。
全生物の生命はそれぞれ自己個有の特色ある生命霊の命霊観念という気持ち感情・心の意認識体をもって肉体・物質体を使って大自然界に活かされ生きているのであります。肉体・物質体を使いどの様に生きるかは自分の生命霊、即ち意認識体しだいなのであります。各自の生命霊・意認識体が違うのでそれぞれ異なる独特な生き方となっています。例えば、一卵性双生児で肉体的には同じであってもそれぞれ生命霊命霊観念の意認識体が違うので気持ち・心・生き方が異なるのであります。
生命霊とは、自己個有の生き方をする気持ち・心・感情・判断などの精神体・意認識体の事であります。 全生物の生命は全て自己個有の生命霊の命霊観念によりそれぞれが自己個有の肉体・物質体を使用し自分独特な生き方つまり生命活動を行っているのであります。 全生物は自分の生命の力と働きを使いより良く、より幸せに、より自己の欲求欲望・願望・気持ちを満たそうとして生きています。これが生きる為の原動力であります。 ]]>
46.大自然界の教え
http://shizenn1.exblog.jp/27257178/
2018-05-05T17:31:00+09:00
2020-01-16T21:59:02+09:00
2018-05-05T17:31:27+09:00
shizennori1
46.大自然界の教え
大自然界の摂理=真理
私達人類を含め全生物は大自然界の大いなる生命の営みにより大自然界に活かされ生きています。
大自然界の大いなる生命の力と働きにより全生物は誕生し物質体・肉体的に活かされ生きています。
大自然界そのものも大自然界の大いなる生命の力働の営みにより親創造・親現されて存在しています。
大自然界の大いなる生命の営み無しには全生物の生存も、宇宙の全ての存在・現象もあり得ないのであります。大自然界のあらゆる現象・存在は大自然界の大いなる生命の力と働きによってなされています。生命とは能動的に何かをする力と働きであり、何でも出来る汎用性ある力と働きであります。この事を「生命力働の理」といいます。生存する事、、即ち生きるとは「生命活動の姿」なのであります。生存という「生命活動の理」の根源的本質は「生命活動の理」の活動であります。
大自然界の大いなる生命力働の営みは、全生物、全存在に「生命の理」を与えています。
大自然界の大いなる生命とは「生命の大親の理」であり、この絶対なる貴き御存在を「大親である大生命」即ち、「大親神大生命」といいます。
物理学で言うエネルギーの根源的本質、大自然の大いなる生命である「大親神大生命の力働の理」なのです。大宇宙開闢のビックバーンも「大親神大生命力働の理」であるエネルギーによりなされ、物質的存在や現象の全てが「大親神大生命力働の理」であるエネルギーによりなされています。
物質がエネルギーで出来てE=MC2 のアインシュタインの相対性理論の本質の根源は「大親神大生命力働の理」なのであります。
生命そのものは目に見えません。しかし生物に生命があり生きているか死んでいるかは一目瞭然で明確によく分かります。つまり生命力働の活動をしてるかどうかはすぐ分かるのであります。
全生物は肉体的に生きているか死んでいるか、或いは植物の様に物質体的に生きているか、枯れて死んでいるかはよく調べれば明確に分かる事なのであります。
「大親神大生命の力働」即ち、エネルギーで出来ている物質でも同じことであります。物質という形態をもって生存在の「生命力働活動の理」を行っているか、或いは物質という生存在の形態を失って無となりエネルギー即ち、「生命力働の理」に循環還元してしまっているかどうかは、存在の有る無しで明確に分かります。
大自然界では大自然界の事実をもって事実である事を証明しているのであります。
大自然界の教えとは、事実を基準として事実をもって事実=真実=真理である事を意識・認識を行う事が大自然界の教えであります。
従って、大自然界の教えとは、大自然界における事実=真実=真理をもって事実=真実=真理である事を示し、教え、証明している「自明の理」であります。
「自明の理」とは事実をもって事実である事を証明する理であります。
例えば果物のであるリンゴである事は、実際のリンゴの事実をもってリンゴである事実=真実を証明しているのであります。この事が「自明の理」なのであります!「自明の理」とは事実をもって事実であることを証明する事であります。事実以外の事実はありません。
事実=真実=真理が事実=真実=真理である事を証明する事が「自明の理」なのであります。
大自然界の十元の理法一つに「循環還元の理法」があります。大自然界の全ての事柄・現象が循環還元して成り立っている事実=真実=真理であります。
例えば、地球も太陽も銀河も循環して成り立っています。人間の肉体の新陳代謝も血液の循環も呼吸も全てが循環還元して成り立っています。
大自然界の「循環還元の理法」とは何時でも、何処でも、何にでも、大自然界の全てに当てはまる
永遠・普遍共通の理法であります。大自然界の事実=真実=真理であります。
真理とは「自明の理」により大自然界の事実=真実=真理である事が証明され、永遠・普遍共通に全てに当てはまる事柄であります。この事が真理の定義であります。
大自然界の「自明の理」による事実=真実=真理に対して地球人類が自らの観念の産物として
創造、想像した宗教宗派の神仏や信仰は大自然界の事実=真実=真理ではありません。
何故なら宗教宗派の神仏や信仰はその様に信じる宗教宗派の人達だけにしか通用しない事柄であるからであります。
例えば世界の三大宗教と言われているキリスト教・仏教・イスラム教を例に考えるならばキリスト教の「天なる父の神」や信仰はイスラム教・仏教には通用しない。同様にイスラム教の「アッラーの神」や信仰は他の宗教宗派には通用しません。同様に、仏教の様々な如来や菩薩などの仏もキリスト教・イスラム教信仰の人々には通用致しません。
宗教宗派の神仏や信仰はその宗教宗派を信じる人達にしか通用しない、当てはまらないという事が事実なのであります。宗教宗派のこの事は、大自然界の永遠・普遍なる事実=真実=真理とは言えないのであります。
キリスト教の「天なる父の神」とはイエス・キリストという一人の人間が勝手に言い出した事なのであります。それまでのユダヤ民族の神は一神教の「ヤーベ」であり「天なる父の神」は無かったのです。
ユダヤ教の新興宗教としてイエスという一人の人間が自分は世界を救うメシヤだ、としてその様に人間の言葉で言った迄の事であります。
キリスト教ではイエス・キリストは「天なる父の神」の一人子であり処女懐妊してこの世に生まれて来た、とされています。罪の子である人間の罪を贖う為に十字架刑にかけられ死んだ後は永遠に滅びない肉体をもって復活した、とされています。
一体この事の証明は大自然界の「自明の理」の事実=真実=真理としてどの様にして出来るだろうか?事実の証明が出来ない、だから只信じるしかないのであります。
地球人類の宗教宗派とは人間教祖達がその様に言ったまでの事であって、大自然界の「自明の理」による証明は成され得ないのであります。だから大自然界に於ける永遠・普遍共通の事実=真実=真理ではないのであります。
イスラム教の場合も同様であります。イスラム教の「アッラーの神」はマホメットという一人の人間が勝手に言い出した事であり、大自然界における「自明の理」の証明は全くなされないのであります。
人間の言葉は事実そのものではありません。
「アッラーの神は偉大なり」と言って同じ宗教のなかでシーア派・スンニー派がテロで殺し合っているが、果たしてISのイスラム国の様に人間同士が互いに殺し合う事を奨励し喜ぶ神が本当にいるのだろうか?
事実でない事を言葉では何とでも言えます。例えば振り込め詐欺や特殊詐欺では事実でない事を言葉を使って信用させ騙すのです。地球人類の宗教宗派も同様に言葉だけを使って人間を信じさせ騙してはいないだろうか?
とにかく人間集団である宗教宗派の神仏や信仰の中身は、大自然界における「自明の理」の証明がなされ得ない事柄であり、ただ信じるしかない事柄なのであります。
イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いた、釈迦が生まれて七歩歩いて天と地を指さして「天上天下 唯我独尊」と言った、という話の「自明の理」の証明は成され得ないのであります。
宗教宗派の人達は「神は信ずる者にはいる、信じない者には存在しない」などという。
人が信じるか、信じないかという人間の心にによって神仏の存在が決まるのだろうか?
大自然界の事実=真実=真理である定義の一つは「大自然界の真理・理法とは何人が気付くと気付くまいとに関わらず、好むと好まざるとに関わらず何時でも何処でも何にでも誰にでも働いている大自然界の絶対的な理法・真理・摂理の力と働きなり!」という事なのです。
大自然界の真理・理法とは宗教宗派の様に人が信じるかどうかは全く関係ない事であり、大自然界の事実=真実=真理であるかどうかが問題であります。
知性・理性・感性の知性とは、事実を事実として意識・認識する事であります。
事実を無視して「自明の理」による証明が出来ない虚偽な事柄を盲目的にただ信じるという地球人類の信仰のあり方は知性に反した事なのです。大自然界の「自明の理」の証明が成され得ない事柄は単に人間の言葉だけに過ぎない。言葉は何とでも言えます。
言葉は一般意味論で指摘している様に、事実そのものでは無いのです。リンゴをこれはバナナです、ということも出来ます。何回も言われた人が暗示がかかってリンゴをバナナと信じてしまう事もあり得ます。信じてしまえば嘘も本当だと錯覚してしまうのであります。
振込詐欺は嘘を本当だ、と信じさせる事で成り立つのです。
例え如何なる嘘や事実ではない事柄も信じてしまえば本当だと思えます。信じる事の危険性だ。
この原理から考えれば振り込め詐欺も宗教宗派の神仏や信仰も大自然界の「自明の理」の証明が成され得ない事柄や虚偽の事をあたかも事実=真実=真理の如くに信じさせている同じ行為ではないだろうか?
大自然界の教えは大自然界の事実=真実=真理が基準であります。
例えば、大自然界の「循環還元の理法」は人間が信じるかどうかが問題ではなく、大自然界の事実=真実=真理かどうかが問題なのであります。
宗教宗派は信じる事によって成り立っており、信じるかどうかが問題であります。
大自然界の事実=真実=真理の教えは、大自然界の事実=真実=真理であるかどうかが問題であり、大自然界の事実=真実=真理ならば事実=真実=真理として知る事、即ち意識・認識するだけの事であります。
宗教宗派の様に信じる信じないという事は全く関係ない事なのであります。宗教宗派の信仰には妄信・狂信という事が常に付きまといます。大自然界の事実=真実=真理の教えは大自然界の事実を知性をもって事実として知る事、つまり意認識する事だけであります。狂信・妄信という事はあり得ないのであります。
人間が人間思考や考えをもって主張する事は、例え哲学や倫理道徳や宗教宗派・イデオロギーや政治理論であっても所詮、そう思い、そう信じている限られた人達にしか通用しないものであります。
永遠・普遍共通の事実=真実=真理ではありません。
大自然界の事実=真実=真理ではありません。大自然界の事実=真実=真理は永遠・普遍であり全てに共通なのであります。何故なら全ての生存在は生物や物質の全てを含めて大自然界の
大いなる生命の営み即ち、「大親神大生命の力働の理」によってなされ、大自然界に生存在しているからなのであります。
この貴き真理のお授けを「生命の大親」の御存在の方より教えて頂きました。
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45.事状身状の助かり方
http://shizenn1.exblog.jp/26114711/
2017-10-16T19:56:00+09:00
2020-01-17T12:14:38+09:00
2017-10-16T19:56:22+09:00
shizennori1
45.事状身状の助かり方
この様な、貴きお授け・生き方を、「生命の大親」であります「大親神大生命」の御存在の方より教えて頂きました。
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44.十元の理法Ⅲ
http://shizenn1.exblog.jp/26074151/
2017-09-27T17:01:00+09:00
2020-01-27T17:08:51+09:00
2017-09-27T16:44:39+09:00
shizennori1
44.十元の理法Ⅲ
宗教宗派では解決いたしません。宗教は人間が作ったものであります。人類が約4,5百万年前に、地球に現れて作り出したものです。しかし、この原理・原則は人間が作り出したものではありません。これが事実であります。
十元の理法 Ⅰ.能動変化の理法
Ⅱ.平均調和安定の理法
Ⅲ.出発発展の理法
Ⅳ.種類分化の理法
Ⅴ.強度継続の理法
Ⅵ.循環の理法
Ⅶ.終止限界の理法
Ⅷ.作用総合の理法
Ⅸ.原因結果の理法
Ⅹ.機会・場の理法この理法というのは実際に身につけて使いこなすのには、相当の理の拝受が必要であります。「能動変化の理法」は、全てのものが能動変化している法則であります。地球が回っているという事自体は、親の能動的な意思の働き、その結果によって地球は回っています。あらゆるものが変化しています。月も、太陽も、地球も、原子核も、変化していないものはありません。物質でも変化していきます。生命的な発展のために、あらゆる変化が行われています。ですから、人生問題でも、やがては必ず「能動変化の理法」で変わっていくのであります。自分の人生、お先真っ暗で、もう一生駄目だということはありえません。必ずどの様な運命でも、能動変化して行って必ず新しい発展になって行きます。一番大事なことは親理に沿って努力する事であります。問題そのものの事を考える必要はありません。どんな問題でも気にする必要はありません。一番大事なのは、自分がどう生きるかを気にしなければなりません。親理に沿って生きれば絶対「能動変化の理法」で変わって行っているのであります。私達も生命を頂いています。ですから黙っていても何かをしようとしています。ところが自分の霊的観念(意識、気持ちの固まり)がマイナスなものは、暇があれば、暇な生き方として、小人閑居して不善をなすと言います。不善とは良くない事、ついつい暇な時間があればマイナスの方のことを考えてしまいます。本当は、大人は閑居すれば益々能動的な良い仕事をしていくのであります。
プラスの事。運命的発展の事。他の生命にプラスを与える事。他の人が生きているのに対して他の生存をプラスにする。他がプラスで生きれる様にしたら、自分もプラスで生きられる徳が身につくのであります。徳とは生命の財産であります。他の生き方をプラスにしないでおいて、自分の生き方だけをプラスにしようとしても、それは、不可能であります。他にプラスの種蒔いたら、種を蒔くのに外に蒔きます。そうしたら収穫として生えてきます。蒔かないで、刈り取るばかりしようとしても、種まきだけは嫌いだけど、収穫だけが好きだからと言っても、収穫だけやっていきましょうといっても、そんなことは出来ません。料理作らないで、食べる事だけをやっていきたいとしても無理であります。そうしますと、小人閑居して不善をなすと言っても、本当は閑居していても、何かをしているというのが生命の能動性であります。だから、時間があればあるほどプラスをするのであります。実際は、能動変化しているから、能動的な意志の力をプラスに使わなければなりません。要するに「能動変化の理法」とは、全てが能動的に変化していることであり、大いなる方向へと向上している事であります。「平均調和安定の理法」というのは、例えば、水が流れるにしても、全てより大きな平均調和安定であります。水が流れるといって、低い方へ流れた方が安定するでしょう。雨が降るという現象もそうであります。それでは、水蒸気として上がるのは,エネルギーをもらった時は、上がった方が安定している状態であります。より安定へ向かって全てのものが、この大宇宙の全ての現象が大調和へ向かって進んでいるという事であります。つまり、全ては、より大きな安定調和へ向かって変化しているという事であります。「出発発展の理法」とは、全て、常に新しい形状に向かって親化発展(新化発展)している事であります。(この新化という字は、進むという字ではなく、あえて新しくなるという字を書いておきました。進むというよりも、新化している。新しい形状に向かって行っているのです。)「種類分化の理法」とは、全ては、個有性を持った種類に分化されているという事であります。「強度継続の理法」とは、一つのものを継続していく力を貫くという事であります。「循環の理法」とは、全ては、循環している事。繰り返しながら発展している事であります。「終止限界の理法」とは、全てに、ある一定の限界があり終わりがあるという事であります。「作用総合の理法」とは,全てが総合的に作用し影響しあっている事であります。「原因結果の理法」とは、全ての原因が種であり、全てが結果収穫であるという事であります。「機会・場の理法」とは、あらゆることが、全て向上発展の機会であり、場であるという事であります。このように「生命の大親」であります「大親神大生命」のお力お働きであります親理法則の「十元の理法」というもので出来ています。人類は未だそのような観念をつかんでいません。しっかりと理の拝受を行って、その理を使いこなせるようにならなければなりません。
ただ、単に知識として得たとしても何の価値もありません。何故なら、知識は忘れてしまうからであります。御霊の世界へ帰るとき(肉体的生存を終えて霊的生存に帰る時)には、実感になっていなければ、何もなりません。
実感という自分の物(霊的意識)になっていないと、もってかえれないのであります。
気持ちの収穫をして、それだけの徳という運命財産に成っていないと霊的にもってかえれないのであります。]]>
43.十元の理法Ⅱ
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2017-09-21T12:02:00+09:00
2020-01-27T17:17:26+09:00
2017-09-21T12:02:16+09:00
shizennori1
43.十元の理法Ⅱ
「生命の大親」であります「大親神大生命」の親理であります「生命の大親」は、親理であります「十元の理法」を持ちまして、大自然の全てを創造されたのであります。「生命の大親」であります「大親神大生命」の親理であります「十元の理法」によって、大自然の営みは、なされているのであります。
「十元の理法」は、大自然の構成法でありますから「十元の理法」のどれ一つを否定しても、この世は成立しなくなるのであります。それ故に「十元の理法」とは、この世の成立に絶対必要不可欠なるものであります。
「十元の理法」とは、大自然を構成している原理、原則を十の面より認識、把握したものであります。
「生命の大親」であります「大親神大生命」の親理のお力お働きであります「十元の理法」をしっかりと悟らなければなりません。
「生命の大親」であります「大親神大生命」の生命力であります親生力を、生存している全ての生命あるものは頂かなければならないし、活用しなければならないのであります。
例えば「循環の理法」ということを本当に悟ったならば、全てが循環しているという事、そして麦の種を蒔いたら麦が生えてきます。さらに麦が必ず増えて生えてくるという事を悟りますと、そうすると自分の行いがプラスの種を蒔けば、運命は絶対にプラスに成るのだという事を悟っただけでも十分に世の中を通っていけるのであります。しかし、この理法ですら人類はつかんでいません。ましてや「生命の大親」であります「大親神大生命」がいて下さって、全ての事を、していて下さっておられるのに、人類は全然判っておりません。自分は、生命の一部をもらったのは事実であります。自分は、大自然の生命の一部であります。そうしたら当然そこに「生命の大親」であります「大親神大生命」が存在するはずであります。そして生命があるから感じられるのであります。愛も、いろんな事も感じられるのであります。生命が無くなれば考えられないはずであります。そうしますと「生命の大親」であります「大親神大生命」は、自分以上に考えたり、感じたりする存在ではないでしょうか。全知全能全感全理であることは当たり前であります。しかし古今東西いろんな哲学者ソクラテスも、アリストテレスも、カントも、ヘイゲルも、プラトンも、孔子、老子も、デカルト,ショウペンハウエルも「生命の大親」であります「大親神大生命」の事を説いておりません。つまり、親がいるという事、子供がいるという事は親がいるという事であります。親の因果が子に報いとは言っているのでありますが、どうして「生命の大親」であります「大親神大生命」の親御存在だけは、気がつかないのでしょうか? 人間には、そこまでの意識しか持っていないことになります。 「循環の理法」という言葉を使わなくても、循環している事実には変わりはないのであります。循環している事実が大事なのであります。循環している事実を実感としてとらえなければならないのであります。一生懸命プラスで通ろうと言って、プラスで通ったらどうでしょう? プラスの種蒔いたのだから、プラスの現象が必ず現れてきます。現象を起こす力が、大自然の親理(真理法則)であります。この「十元の理法」は、現象を起こす力であります。この現象を起こす力が判っていれば、現象がどんなにマイナスであっても驚く事はありません。プラスを行えばよいからであります。プラスを行えば、プラスの種蒔いたのだから、プラスの現象が必ず現れてきます
例えば、お互いに好きで、結婚したくて一緒になったはずなのに、文句ばっかり言って、喧嘩ばかりして暮らしています。マイナスの意識が多い事です。
プラスの行いをしたら良いのに、プラスを致しません。かぼちゃの種蒔いて、麦が欲しいといっても、そうはなりません。文句の種蒔いて、仲良く、素晴らしくなりたいと思っても、そのようには、なりません。マイナスの種蒔いて、プラスには成りません。
事実「生命の大親」であります「大親神大生命」がいてくれて、絶対的な生命の愛を与えてくれています。愛が感じられないのは、人間側なのであります。親の心子知らずといいます。感じられないものにはないのであります。一生懸命、親が、我が子を心配して、オロオロしても子供はウルサイと言っていたら子供は、親の気持ちが判らないのではないでしょうか。 子供の方は愛を感じていないだけなんです。では、人類はどうでしょうか「生命の大親」であります「大親神大生命」の大きな生命的愛を全然感じないでいます。私は空しい、僕は寂しいと、一人ぼっちだと「生命の大親」であります「大親神大生命」の生命の愛を感じないで生きていて、誰も「生命の大親」であります「大親神大生命」の愛をわからないでいます。生命的祝福を得て生まれてきた、特定の親の元に生まれさせて頂いたという「生命の大親」であります「大親神大生命」の愛を誰も知らないで生きています。誰も判っておりません。ところが、自分が如何に知らないか、未だ如何に至らないかということが悟れたら大変な進歩であります。親理(真理)を学べば学ぶほど、至らない事が判ってまいります。
「生命の大親」であります「大親神大生命」の愛を感じ、感動を持って生きる事ができれば、生きる価値になります。
十元の理法 Ⅰ.能動変化の理法
Ⅱ.平均調和安定の理法
Ⅲ.出発発展の理法
Ⅳ.種類分化の理法
Ⅴ.強度継続の理法
Ⅵ.循環の理法
Ⅶ.終止限界の理法
Ⅷ.作用総合の理法
Ⅸ.原因結果の理法
Ⅹ.機会・場の理法
あらゆる全ての存在現象が「十元の理法」によって成立しています。ですからどんな現象も、どんな運命も環境も、全部「十元の理法」によって現されています。このことから、この理法を悟ることにより、あらゆる現象を起こすことが出来ます。 ]]>
42.十元の理法Ⅰ
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2017-09-18T11:57:00+09:00
2020-01-27T17:24:42+09:00
2017-09-18T11:57:07+09:00
shizennori1
42.十元の理法Ⅰ
何時、何処にでも、誰にでも、何にでも絶対的に通用しているものでなければ、天啓とは、いえません。ですから、全てに通用すると言ったら普遍性といえます。何時でも通用すると言いますと永遠であるといえます。つまり、永遠普遍性が天啓の特色であります「生命の大親」であります「大親神大生命」は、大自然の全てをお創りに、なられました。全てをおやりになっているのですから「生命の大親」であります「大親神大生命」の御言葉であり、全てに通用いたします。「循環の理法」と言いますと、アンドロメダ星雲にも通用いたします。しかし、聖書も、お経も、アンドロメダ星雲には通用いたしません。つまり、第一番目は、永遠普遍性であります。このことは絶対的に通用いたします。第二番目は、それが無くてはならないものであります。無くてはそれが出来ないと言いますと、こういうのを絶対的に必要不可欠なるものであるということであります。四十億年も、この地球上で、生命現象が行われてきました。恐竜時代には、聖書もお経もありませんでした。犬、猫も、聖書、お経は、知りません。知らなくても生きています。しかし「循環の理法」というのは、全てが循環しています。これは「生命の大親」であります「大親神大生命」の掟であります。人間が掟をやっている訳ではありません。人間は、地球を回すことはできません。「循環の理法」といいますと、原子核も、素粒子も、電子も循環しています。分子もそうであります。新陳代謝も、血液も、地球も、太陽も、銀河宇宙も、アンドロメダ星雲も、生まれて死んでも、あらゆるものが「循環の理法」によって成り立っています。これは、絶対的に必要不可欠なものであります。こういうのを天啓といいます。「種類分化の理法」というのがあります。あらゆるものが、種類分化されています。そして存在しているという事であります。種類分化という、個有性、自分独特の個有性で、其の人独特の顔つきをもっています。その種類分化が全然なかったら、顔つきが同じだったら、男と女という種類も無かったらどうなるでしょうか。水素、酸素、窒素、鉄、こんなものが無かったらどうなりますか。体だっても、種類分化に分かれています。手も、足も、顔も、目も、鼻も、種類分化であります。太陽も、月も、種類分化がなければ、この世は成り立ちません。つまり、無くてはならないこの世の中を成り立たせています十の法則であります原理原則のことを「十元の理法」といいます。
第三番目 大自然界の事実そのものでなければ価値はありません。
大自然の事実そのもので在ることが、絶対条件であります。事実が事実をもって事実であることを立証する。これ以上の事実の証明は、ありません。大事なのは、事実であります。例えば、酔っ払いなんかに、良くありますが、こちらから見たら、とっても酔っ払っているから、もうこれくらいで止めたら如何ですか?と言ったら「僕は、酔ってない」と、ろれつが回らない状態。これは、事実が事実であります。ただ、其の人の気持ちであります。これは、事実では、ありません。私達は、事実を事実として摑まなくては なりません。
大切なことは、事実以外の余分なことは、信じる必要はありません。ですから、人間が今まで、天啓と言っていたことは、全部嘘であります。何故かと言いますと「生命の大親」の事を判っていなくて、どうして天啓と言うことが出来るでしょうか!
「生命の大親」であります「大親神大生命」のお力お働きが無かったら、この体だって動かす事は出来ません。生命というのは、生命エネルギーであります。体そのものだけでは動きません。ここへ、生命エネルギーという一つの力と働きが入らなければ動きません。
この生命が無くなったら動かなくなります。最初は新しい肉体を与えられて、いろいろ体を使わせて頂いて、体を古くしてお返し致します。借りたものは、お返ししなければなりません。喜びと感謝でお返ししなければなりません。ましてや死ぬのは嫌だというのは、おかしい事であります。大事なのは「生命の大親」であります「大親神大生命」によって生命は、与えられているのであります。
「生命の大親」であります「大親神大生命」というのは、この世の中をお造りに成っておられますから、物を造るのには、ルールというのを決めてつくっておられるはずであります。野球をするといっても、ルールが無かったら野球にならないでしょう。あらゆる事は、一つの掟、法則によって成り立っています。
道路交通法も、法則がなかったらめちゃくちゃになってしまいます。この様に、この世の中を整然とお造りになっているのには、この世の中を造っている掟、ルールがあることになります。秩序があります。その基本的な十の秩序。これを「十元の理法」といいます。この一つ一つが天啓であります。これは絶対に無くては、この世の中が成立しないような基本的な掟であります。 人間が作った掟では無くて「生命の大親」であります「大親神大生命」がお造りになった「生命の大親」の親理そのものであります。ですから親理を大自然の真理法則とも言ってるわけであります。例えば「循環の理法」と言ったら人間が決めたのでしょうか?そうではありません「生命の大親」であります「大親神大生命」御自親が決められたのであります。更に全ての存在は、その個有性を持って、それぞれの種類分化してのみ存在しています。四十億人の顔を違えて作れますか? 雪の結晶を、一つ一つ違えて作れるでしょうか? 松の木でも竹でも全部違います。 いろんなものを種類分化して作れるでしょうか?このように「生命の大親」であります「大親神大生命」がおやりになっていて下さっています。人類は、何に目覚めるべきでしょうか? 「生命の大親」であります「大親神大生命」の親御存在であります。この自然の偉大な力と働きであります。これに目覚めるべきであります。そこには、ちゃんとした掟があります。麦を蒔いたら何でしょう? 麦であります。これを「原因結果の理法」と言います。もしこの「原因結果の理法」が無かったとしたら、この世の中はどうなるでしょうか? どんな不都合が起きるでしょうか? 例えば、麦蒔いて何が生えるかわからなかったらどうしましょう。「原因結果の理法」が無かったらどうでしょうか? 当たり前だと思っていますが、これは、大変な事であります。こういう大自然界の掟というのは! 簡単なことだと言っても大変な事であります。こうすれば、こう成るということが成り立たなかったらどうなるでしょうか?
科学ということも、こういう原因でこういう結果になるということを摑んで、そのことを応用してやって行きます。電気の法則にしても、クーロンの法則にしても、同じ事であります。つまり「原因結果の理法」そのものは「生命の大親」であります「大親神大生命」がやっていて下さっておられます。このような事を「理法」として悟っていきますと、今、人生問題があったとしても、これを行うのに大事な事は、この人生問題が問題ではありません。自分がこの問題をプラスで通るのか、マイナスで通るのかが問題であります。「原因結果の理法」に沿って、自分が解決する為のプラスをやっていけば、必ず結果として解決するのであります。ところが、問題が起きると、大変だ、大変だ、もう駄目だ。いやだなとなってしまいます。マイナスの方ばかりして、解決のプラスの行いはしていないのであります。それでは結果的にマイナスに成ってしまうのであります。
どんな問題が来ても同じであります。ですから、地道に先ず、真理を悟る事であります。「十元の理法」とは、この世の中を創っている絶対的な掟であります。
それは、親の天啓によって、私達に与えられたものであります。その証拠には、人類が全然こういう法則性を、今まで知らなかったのであります。こういうことは、どの本にも、何処にも書いたものは、ありません。人間の意識でとらえられるものではありません。こういう理法は全て授けてもらわなければ判りません。
何故なら人間ひとりひとり、実際に親に食べさせてもらい、着させてもらい、教えてもらわなければ、一人で大きくなったわけではないからであります。
「十元の理法」で、指が10本あるのは誰が決めたのでしょうか。1本足りなくても困るし、1本多くても困ります「生命の大親」であります「大親神大生命」が決めて下さった10であります。この親物質界の地球においての決まりの数字であります。そこで「十元の理法」というのは、この大自然というものを、ひとつの十の角度から、法則性として理解したものであります。
この様な大自然の事実を悟らなければなりません。
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41.生命自覚証の理
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2017-09-08T13:25:00+09:00
2020-01-27T17:37:58+09:00
2017-09-08T13:25:09+09:00
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41.生命自覚証の理
例えば、大自然のルールと言えば、生きとし生きるものを、より良く活かそうとしております。ところが、お互いに戦争で戦争の悲劇を作ったりしています。原水爆とか、ミサイルだとか、通常兵器もそうであります。大自然の全てを行って下さっておられます「生命の大親」であります「大親神大生命」は生命というものをより良く活かそうとしておられるのに、そのルールに違反したのでありますから、そこに生きる事に不安を感じるはずであります。いろんな国が、武器をもって騒げば騒ぐほど、お互いに生きる事に不安になってきます。つまり、大自然のルール違反をしたならば、大自然のルールによって活かされているのでありますから、違反すると不安になるのであります。
例えば、違反して生きていた場合、不安になるという事は、自動車を運転するのには、自動車を運転する免許証が必要ですが、無免許で運転したら違反になります。無免許で運転している時は、安心して運転は出来ません。車を運転している時は、不安であります。これがストレスと成るのであります。ですから、現代人がストレスが溜まっていると言う事は、大自然のルール違反をしている事になります。なんとなくわからないけれどもルール違反をしているのであります。では、大自然のルールという事は、何かと言いますと、大自然から活かされ生きているのでありますから、大自然というのは「生命の大親」であります「大親神大生命」であるという事がいえます。では「生命の大親」であります「大親神大生命」というのは、何が、誰が大親なのかということであります。そうすると私達は、肉体的存在ではなくて、私達の本質は、いのちと言う、生命そのものであります。生命と言うのが私達ですと、大親で在ると言いますと何であるかと言いますと、今度は、大自然の大生命ということになります。つまり、大自然の中に活かされ生きている以上は「生命の大親」であります「大親神大生命」のお力お働きを頂いて活かされ生きておる事になります。ですから、一番最初に私達が、ルールとして目ざめなければならない事は、私達は、生命の子であり、私達にとっては「生命の大親」であります「大親神大生命」がいて下さいますよということであります。いわゆる造り主がいるということです。大自然という「大親であります大生命」或いはこの事を「生命の大親」と申し上げております「生命の大親」であります「大親神大生命」の意味を言っているわけであります。人間ではありませんので「生命の親」であります「大親神大生命」と言っているわけであります。
何故ならば、人の大親だけではないのであります。植物も虫一匹にしても、やはり生命の子供であります。ここは生命の世界であります。まずルール第一条と言いますと、自分の親が判り、自分は生命の子供であるという自覚をもつことが第一番であります。
赤ちゃんも最初に認識するのは自分の親であります。子供から親を離してしまうと、全て情緒不安定になってしまいます。ということは、親の存在というのは、大変大きいのであります。例えば、子供が海水浴場や動物園で迷子になったら、皆、泣いています。己の存在価値がなくなるのであります。全体が親であり、子供は部分であります。いわゆる「親子の原理」であります。更に、例えば、時計があったとします。時計の部品の一つのネジだけが、ポンと落ちたら、時計の価値がなくなります。つまり、時計全体という親の所にちゃんと役にたってこそ部分としての時計のネジの価値があります。ネジだけだったらとっておきません。ネジ一つだったら、価値はありません。同じように考えてみますと、人類の「生命の大親」の大自然という「生命の大親」であります「大親神大生命」を認識しないで生きたら情緒不安に成ります「生命の大親」であります「大親神大生命」に繫がってこそ安定します。
しかし、人類は「生命の大親」であります「大親神大生命」を認識しておりません。全てのものが大自然の「生命の大親」であります「大親神大生命」から生命を与えられ活かされ生きているのであります。生きとし生きる全てのものは、生命の兄弟であります。だから、国と国同士で喧嘩する必要はありません。殺しあう必要は無いはずであります。皆、生命というものが、お互いの生命を大事にしあって、活かされ生きているのであります。この世界は、生命でもって生命を支えあっている素晴らしい生命の世界であります。
この事を誰も認識しておりません。
いつ、どこで、どのように生まれてくるのか?
いつ、どこで、どんな風な人と出会うのか?
いつ、どこで、どのようにして死ぬのか?
こういう事も、人間の力でやっているわけではありません。誰がやっていて下さっているかと言う事であります。それは「生命の大親」であります「大親神大生命」がやっていて下さっているのであります。大自然の力と働きをもって行っていて下さっておられます。本当の事であります。だったら、私達が一番最初しなくてはいけない事は、親を認識しなければなりません。動物ですら、先ず親を認識しています。
人間だったら当然、肉体というものを越えた、もっと大きな普遍的な「親」。最大の次元の高い「親」、つまり「生命の大親」であります「大親神大生命」を認識するのが当然ではないのでしょうか。そして「自分は生命の子である」ということから出発するのであります。少なくとも、最低限「生命の大親」であります「大親神大生命」に活かされ生きているということを認識しなければなりません。生命を与えられて、生まれさせて貰っています。自分で特定の両親を決めて生まれてきたわけではありません。
こういうことから「生命の大親」であります「大親神大生命」に対して「ああ、おかげさまで、私はこの様に、生命の子として生命を与えられ「生命の大親」であります「大親神大生命」のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きて有難うございますと。どうか生命ある全てが、生命の兄弟として、どうか、皆、素晴らしく発展しますようにと。「生命自覚証」という、これくらいの事が行えないならば、生きる喜びと感動はありません。生きている以上は、生きる喜びと感動を持つことが一番大事であります。映画を見たら「映画を見た。ああ良かったな!」というふうな事だったら、見た甲斐があります。
旅行へ行って「ああ、良かったな!」と言ったら、旅行に行った甲斐があります。同じ様に、この世に生きて「ああ、この世に生きて良かったな!」と言ったら、今日一日生きる価値があります。
夫婦で、共に通って「ああ、お互いに共に通って良かったな!」と言ったら、通った甲斐があります。
仕事として、会社に働いた「ああ、良かった、自分はこういう仕事を持って、こういう会社に働けた」と言ったら「こういう仕事につけた」と言ったら、それは、甲斐があります。「自分は、これだけの良い仕事をさせてもらえた!」と言ったら甲斐があります。ところが、生きがいを持たないで生きています。
「つまらない所へ勤めているだとか、働いているだとか」「つまらない相手と一緒になっているだとか」「ちっとも面白くないとか」「生きるのは苦しいだとか」皆、否定的な、マイナス、マイナス、ネガティブな意識でばかりで生きているのではないのでしょうか。それで苦しいからお助けくださいと言っています。そして人間が作った仏像に願っています。大事なのは「生命の大親」であります「大親神大生命」より生命を頂いた私達自身のこの生命の方が大事であるということなのであります。そうすると一番大事なのは、この世の中を生きていくのには、生きていくルールがあります。体の中でも人間の決めたルールではありません。血液が循環して生きていくようにしてあるのも人間の決めたルールではありません「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになったルールであります。心臓が血液を循環させるポンプの役目であることも「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになったことであります。全て「生命の大親」であります「大親神大生命」がお決めになっているルールであります。医学でも医学が人間の肉体を作り出した訳ではありません。そのルールを私達は、知性的に調べていっています。人間がやっている事ではなく「生命の大親」であります「大親神大生命」がおやりになっている事を認識して行っているわけであります。人間のやっている政治活動、芸術活動、宗教活動ではなく、大自然の造り主であります「生命の大親」であります「大親神大生命」がやって下さっている事であります。宗教宗派を超えて、人間、動物、植物の全ての生命あるものは、大自然の「生命の大親」のお力お働きによって活かされ生きております。全ての生命は、自分の生命の兄弟であります。全ての生命があって、生命が生命を支えあって、肉体的生存が成り立っております。
生命の子として生命を与えられ「生命の大親」であります「大親神大生命」のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きている事に真感謝と喜びの真感動をもって、全ての生命あるものが、生命の兄弟として素晴らしく生きていきますようにと、その為の「生命自覚証」でなければなりません。こういった自らの生命の自覚であります「生命自覚証」の宣誓を行わなければなりません。
これは、第一番目のルールであります。 ]]>
40.創設設定の原理
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2017-09-04T18:10:00+09:00
2020-01-27T17:44:06+09:00
2017-09-04T18:10:49+09:00
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40.創設設定の原理
つまり、如何なる存在も現象も、何らかの意志の力と働きによってのみ創設設定されたものであり、その背後あるいは前提には、その如くにさせしめる意思・意図の力と働きがあります。大宇宙・大自然の全ては「生命の大親」であります「大親神大生命」の御親意(みこころ)によって親創設設定されたものであります。「生命の大親」であります「大親神大生命」の御親意によって親創設設定されざるものはありません。
大自然のすべての存在・現象の背後にはすべて「生命の大親」であります「大親神大生命」の御親意のお力お働きにあります。「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意のお力お働きによって、大生命の一部を頂いた事により生物には意志の力と働きがあるのであります。この事が悟れていない伝統的過古人は、意志があるのは人間や高等な動物だけだと思い、全生物に生命を与え活かして下さっている偉大なる大自然の大生命の意志、即ち「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意の存在を全く気付かずにいるのであります。
伝統的過古人は「生命の大親」であります「大親神大生命」の生命の御親愛や親業を全く真実感できないどころか「生命の大親」であります「大親神大生命」の御存在すら気付いていないのであります。親性意識とは、貴き「生命の大親」であります「大親神大生命」の御存在を真実感をもって悟り、大いなる生命の真感動をもって日々の実生活を行い、人生を通るものを言います。
「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き親理は「生命の大親」であります「大親神大生命」御自親の貴き御親意によって親創設設定された大自然の掟であり、命霊界・物質界(大宇宙)のすべてを親創造する為に親創設設定された「生命の大親」であります「大親神大生命」御自親の永遠普遍なる絶対の法則であります。
この事を今まで人間は、大自然の親理(真理法則)・大自然の摂理・天然自然の理法・道理など色々な言葉をもって表現していました。今日まで人間は、貴き「生命の大親」であります「大親神大生命」の御存在を判らずにいました。それ故に単に大自然の掟としてしか理解することができなかったわけです。こういうことから、私達は「生命の大親」であります「大親神大生命」の貴き御親意に沿った「親創設設定の理」による生き方をしなければなりません。
物事を始める時には、決してマイナスの創設設定をしてはなりません。例えば、老後に問題が起きた時に間に合うようにと預金をしたとしますと、その目的で行ったことは必ずその理の通りになります。つまり、老後に問題が起きた時に使うための預金として準備しますと老後にその預金を使わなくてはならない事が必ず起きてまいります。
何故ならその様にしたからその様になったわけであります。だから、最初の創設設定が大事になるのであります。「その様な理で行うとその様な理が働きます」と言う原理・原則があります。この事は、宗教宗派・人種・民族・年齢・性別にかかわらず、必ず働く理法であります。
しかし、理法とは有難いものであります。プラスの、喜びの、生きる味わいとしての創設設定を致しますと、必ずプラスの、喜びの、生きる味わいの素晴らしい結果となります。
この「親創設設定の理」に沿った素晴らしい生き方をすべきであります。]]>
39.価値の段階
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2017-09-01T12:18:00+09:00
2017-09-01T12:18:43+09:00
2017-08-26T18:47:18+09:00
shizennori1
39.価値の段階
私達は、生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。
第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求であります。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階であります。この段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てであります。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからであります。 第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であります。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずであります。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階であります。しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉は、辞世の句で「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」と詠んだ。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけであります。単なるはかない生き方になるだけです。 我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのであります。 第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求であります。一つの宗教に入り、その中に価値を見いだして心の満足と生存の安らぎを得ることも第三次的欲求であります。ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。更に、勢力争いや権力闘争に明けくれている宗教人や宗派のより高い地位に着くことが目的で修業に励む僧侶、神官、牧師などの信仰は第二次的欲求であって、決して第三次的欲求とはいえないものであります。とにかく、第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものであります。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求であります。 第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界があります。 確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのでありますが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすい。何十年間も山の中にこもり、人目を避け、一般社会から遊離してひとり修業しているインドのヨガの行者などは、この典型といえます。だがこのような段階の者同士の接近は大変危険であります。 同じ生命を持ち、同じ地球に生存しているもの同志が、たがいに唯我独尊的な考えで他の人種や宗教、イデオロギーを否定し合うからであります。これは第三次的欲求の限界であります。 現にこの世界は宗教、人種、国家、イデオロギーの相違でこの限界線に来ているのであります。第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態であります。 現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。 何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからであります。 第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階であります。
自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります。他に与えて通る段階、徳を増やしていく段階であります。助け合いの、生命の愛の段階であります。 生命とは、もともと物質界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在であります。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもあります。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展であります。 第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことであります。 この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものであります。つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が直ちに其の人自身の霊魂の成長段階を示していることになります。]]>
38.食物連鎖の理
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2017-08-26T18:29:00+09:00
2017-09-20T14:36:23+09:00
2017-08-26T18:29:40+09:00
shizennori1
38.食物連鎖の理
他の生命である魚、野菜、果物、肉類も生命を与えられて、生命活動の結果、自分の体を作っています。 例えば、イワシも大きな魚に食べられて他の生命を活かすために役に立っています。生命あるもの同士が、生命の理をもって支えあっています。いわゆるイワシの一生は他の生命を活かすための一生であったということになります。しかし、現在、人間は金儲けの為に山林を伐採したりして砂漠化しています。人間の我の為に自然破壊をしても何も価値はありません。更に毎日、日本で捨てている食料、レストランでの食べ残しのものすごい量・・・・・今世界の人口の五十、六十億の三分の二は飢えています。飽食の時代の日本人なんかは食べ過ぎています。自分達だけが勝手に、その様な栄耀栄華して、徳の取りすぎになって運命的にマイナスが働いてきます。 「生命の大親」が「食物連鎖の理」を生命が生命を支えあう素晴らしい生命のシステムとして造って下さっています。しかし人間は弱肉強食といいマイナスにとらえています。本当はプラスの親世界であります。 イワシ一匹食べられて、他の生命をプラスにしたということで、イワシの魂は、今度は他の生命をプラスにしたことで、もっと高い段階の肉体をもって生まれてきます。要するに生命を呈して他の為に役に立って生きています。これがイワシの徳積となる訳であります。
これに反して人間は何の役に立って生きているのでしょうか。どういう役に立つ生き方をしているのでしょうか。どういう徳積をしているのでしょうか。 他の事ではなく、商売繁盛、家内安全、どうか合格しますように、病気が治りますようにと全部、自分、自分と他のことは何も考慮しておりません。これでは、二宮尊徳翁が言われたお風呂の中でお湯をかき寄せるようなものでお湯は逃げていくと、お湯を相手に出していくとお湯は逆に寄ってくるということが全然わかっていません。
他の生物は、体を使って徳積をしているのに、人間も速くこの世界の「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿って徳積を行い、助け合う生き方をした一生であることに気が付いて頂きたいと思います。]]>
37.親目的について
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2017-08-19T20:33:00+09:00
2017-09-20T14:32:58+09:00
2017-08-19T20:33:10+09:00
shizennori1
37.親目的について
このような原理を知識として、いろいろ認識しても「生命の大親」のみこころが判らないで、いくら認識したとしても、何にも価値がありません。
例えば、母親が、お腹すいたとしてカレーライスを子供に作ってくれたとします。そのカレーライスの作り方や味がどうだこうだと知ったとしても、母親の作ってくれた気持ちを感じることの方が大変大事であります。 どういう気持ちで作ってくれたのか、そこに母親に対する感謝の気持ちが大変大事なことになるわけであります。同じ事で「生命の大親」が私達が素晴らしく生きていくように親創造して下さっておられます。
そしてその親創造して下さっている「生命の大親」に対する親感謝をどれだけ感じられるかということであります。親の愛を感じられるものは、大変幸せであります。
親がわからないと不安となります。何故なら親がわからないと迷い子ということになるからであります。 私達が生きていくということは、生命の活動であります。この生命が、それぞれの性格、精神を形成していきます。要するに、其の人自身の魂、精神(気持ちの固まり)を造って行きます。
その目的は、何の為であるかということになります。そして何の為に生きるかということです。その目的も「生命の大親」が造っておられます。 その親目的は、生命が素晴らしく成長していくように「生命の法則」として「親の意識」へ成長していくことであります。その為に、この親世界に誕生させて頂いた事になります。決して苦しみの為ではありません。]]>
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