自然の仕組み

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2017年 08月 12日

34.親性と人間性

生きることは、何の為に生きるか。生きて何を得ようとしているのだろうか。どんなにいろんなものを食べても、肉体はやがて、土に帰ります。これは事実です。しかし今日一日生きると生きた実感があるはずであります。

今日一日このような「生命の大親」の大きな生命の愛を頂いて、生命の愛の力によって崇高な生命の御子として活かされている真実感を持ったらどうでしょう。やがて肉体を土に返した時、自分には何が残るでしょうか。日が、どんなに暑い日であろうと、どんなに寒い日であろうとも、そこには、生きた喜びと感動があるはずです

つまり、生きた日々の味わいがあると、生きた価値があるといえないでしょうか


旅行に行きました。行って良かったと思えば、行った価値があります。何処かに行って、美味しいものを食べてきたとします。食べておいしいという喜びと感動が残ったら食べた価値があります。

私達は肉体をもっていると同時に、精神であります御霊霊的観念・命霊観念をもっています。肉体をもっていますが、やがて肉体は土に返します。その間に私達は、何を得るかと言いますと意識の問題であります。

何をやって何処でどう生きようとも、この意識が素晴らしいものであったら、これを自己の霊的観念・命霊観念収穫といいます。

要するに、自己の霊的観念・命霊観念に何を収穫するかであります


逆に執着はマイナスとなります。執着の方は、どういうものかと言いますと食べたのに、食べられたらいいなと、毎日思ったら苦しみとなります。例えば、麻薬の注射をしたときは、いいかもしれませんが、後は、麻薬が切れたら苦しむのであります。執着になると苦しみになります。


ところが、
収穫になると感動になるのであります。失恋した時、相手がいないのに、もう会えないと、苦しい苦しいと執着がなくなるまで苦しむのであります。何年という長さではなく、自分がどれだけ執着しているかであります。


今度は、現世に執着した魂というのがあります。一生懸命、金を貯めたのに、これだけの金を残していく。つらいなつらいなと言って。

命霊界(意識の世界)には、お金ない、体ない、電気料なんて心配はありません。一番困るのは、例えば胃がんで、この世を去った人が、肉体が無いのに、苦しい苦しいと思っています。肉体が無いのに苦しい苦しいという感じをもっています。

恐怖を持っている人は、何を見ても恐怖を感じるのであれば、恐怖の運命・環境を通ります。

ムンクは、女性を見たら恐怖に感じました。ルイスウェインは猫を見たら、恐怖となりました。あらゆることが苦しみであり、恐怖であります。己自身が、そのように思っているからであります。猫を見たらかわいいと感じてる人は、正常です。

生命はもともと本来、素晴らしい感動をもって通るのが本来の姿です。肉体は健康で通るのが本来の姿であり、病気で通るのが本来の姿ではありません

夫婦は仲良く通ってこそ本来の姿であり、親子、夫婦、兄弟が喧嘩して通るのは異常な姿であります。

同じ原則を自分の御霊や生き方に当てはめてみますと、プラスであることが正常であって、マイナスは異常であります。親から与えられた素晴らしい運命といえば正常であります。


それでは、この世の中を生きるのは素晴らしいと言ったらプラスであり正常であります。この世の中を生きるのは苦しいと言うのはマイナスであり異常者であります。

夫婦の相性が悪いと言うのはマイナスです。異常者であります。そういうことになります。


「生命の大親」
の大生命の生命の一部を頂いた、生命ある全ての全生物が生命の愛によって活かされています。
生命ある全ては生命の本質的兄弟であります。生命の世界には動物も、人間も、植物も、生命に対する差別はありません。これはプラスであり正常であります


ところが、自分は、因縁たかりだ、罪の子だ、相性が悪い。そのように考えたら、マイナスであり、異常者であります。罪をお許しくださいというのは、マイナスであり異常者であります。


何も不幸で通る必要は無い。何もわざわざマイナスで通る必要はありません。


何でも無い人がわざわざ宗教へ行って、罪をお許しくださいとか、どうか哀れんでくださいと言っています。親は憐れみはいたしません
「生命の親」は生命の御子に対して、哀れみはいたしません。親は子に対して哀れんで食事は作りません。これは異常です。


「生命の親」
は生命的絶対愛をもっておられます。にもかかわらず我々の方が、罪の子だと言って、憐れんで下さいといっています


この地球は人間の力では造っていないし、仏像の力でもありません。釈迦も歴史的事実として、仏像を拝んでいないし、キリストも十字架を拝んだ事実もありません。それは、釈迦、キリストの死後人間が造っているからであります。


生命から出たものは形無いのであります。感じる能力は生命があるから感じる力があります。感じる力があることは、感性があると言う事になります。生命があるから感じるのであります。生命無くなったら感じません。


霊的観念・命霊観念
の収穫と言うのは、今日一日、どういう風に感じて生きたのかが御霊の収穫となります
行動を伴った実感こそ霊的観念・命霊観念収穫となります。


「生命の大親」
が親創造された、素晴らしい親の世界であります。自分の親が造った生命ではありません「生命の大親」から授かったものであります。ここでいう親は「生命の大親」であります
親の本質とは、人間が作り出した神仏、つまり宗教宗派の神仏ではなく、何時でも何処でも誰にでも、何にでも、あらゆるものをより良く生かそうとしておられる大自然の力と働きであります。この力と働きの事を「生命の大親」と申し上げております

「生命の大親」のお力お働きを頂いて活かされ生きているという意識、このような意識のことを親性意識と言います。

「生命の大親」の生命の御子であるという親性なる感動と喜び、誇りをもって生きるのであります。

宗教は人間がやっている一つの精神的な活動集団であり、親御自親がおやりになっている事ではありません。人間社会の中の経済活動、政治活動、芸術活動と同じ宗教活動であります。しかし、生命は人間社会を超えたものであります。

宗教は宗教争いをしています。これは人間がしているのであります

「生命の大親」が生命を与え活かしておられるのに、生命の御子である我が子が、苦しい苦しいと生きたら、親は、非常に残念であります。

子供たちが幸せだと生きたら喜びであるのに、怨み、つらみ、殺しあって生きるのは本来の姿ではありません。

宗教宗派で、人間ごとで争っています。宗教に入って争って、却ってマイナスになっています。

親性意識というのは「生命の大親」の生命の御子であり、親性なる感動と喜びをもって生きる意識のことであります。これに反して人間意識は、苦しみ、不足不満、大変だと生きていく意識の事を人間意識と言います。

今までのことや過古にとらわれて生きているのを伝統的過古人といい、昔のことを言っています。夫婦喧嘩の時も以前のことを持ち出します。

親の意識に通じるには性意識で不足不満を言ったら通じません。人間の方が変わるのであります。不足不満は、人間意識であります。マイナスであります。

不足不満は人間意識であります。マイナスであり異常であります。夫婦でも喧嘩して異常に言ったら聞きません。本当に活かされ生きているのであります。生きることに素晴らしく感動をもって生きたら良いのに!!

長く御夫婦として生きれば生きるほど増々生きる喜びと感動が湧いてきたり、如何なる運命・環境が与えられようとも、与えられた全てが生命の喜びと感動に変わればよいでしょう。こういう意識を持っているものを性意識のあるものと言います

親御自親、マイナスは与えておりません。そのことを通ることによって却って大きな発展になっていきます。人生にマイナスはありません。

算数の苦手な子供たちに、先生は算数をさせます。ところが子供たちは、苦手な事をさせるから、それを愛と感じないのであります。大きな愛がわからないのであります。


「生命の大親」は色々な運命や、いろんな人生を与えてくれます。しかし、それは決してマイナスではありません。マイナスに感じるのは異常者です。プラスに感じる方は正常であります。ここが問題であります。人間の気持ちの方がひねくれています。マイナスのことが多すぎます。


この世は苦の娑婆だとか、結婚式でも人生はそんな、なまやさしいものじゃない等といったりしています
人間は、悲劇を求め霊的観念・命霊観念の癖があります。異常であります

人間は、今までのマイナスの観念から、人間意識から親性意識へと脱皮しなければなりません親性意識とは、生命の感動をもって生きる意識のことであります。真性なる親の愛を感じたら性意識があるのであります

これに反して、マイナスを感じて生きる人が大勢います。大事な事は努力して大きな愛を感じる努力をする必要があります「有意味行為の原則」により、同じ生きるのにも、自分が意味する内容によって価値が違ってきます。


今日
「生命の大親」から与えられた一日を活かさせて頂きます。そういう気持ちで生きたら、そのような親性なる霊的観念・命霊観念の収穫になります。それが其の人の癖、性格になっていきます。

「生命の大親」は誠を受け取って下さいます。徳積の生き方をしなければなりません。現代人は、こんなにものがあってもより良く生きられないのであります。運命財産と言う徳が無いのであります。

「生命の大親」は、生命を与え、生きる力を与え、全てを与えて下さっています。「生命の大親」の親御存在に誰も気が付いておりません。気が付かないばかりでなく何もしておりませんし、しかも、ああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりしています。これで「生命の大親」に通じるはずはございません。それで親通力が欲しいと言っても無理であります。

本当に与えあう、プラスを出す事が出来たならば、それが運命貯金になっていきます。これが性人であり、今世、生きたことが素晴らしいプラスになってきます。


蒔いた種は土をかけて見えないように蒔きます。隠れたる善行は、必ず生えてきます。お百姓さんは、種を蒔きますが、必ず増えて生えてきます。これが自然界の法則なのであります


土に種を蒔く事は知っていても、行いの種を蒔く事を知らなければ、それは親理を悟った事にはなりません

この世で、いいことを思い切ってすれば絶対にプラスが出てくるのであります。運命環境や生きることに最大のプラスが来ます。

御霊の救い以外に本当の救いは、有りえません。最低限の御霊の救いとは、つまり其の人が救われたいのなら、自分の意識を親性なる霊的観念・命霊観念の意識収穫をしなければ、永遠に救いはありえません

人類は今まで性なる霊的観念・命霊観念の救いを受けていないから、2,3千年経っても、未だに、お救い下さいという欲求しかもっていません。

生きる本質は、目が見える事、汗が出る事、新陳代謝をして頂いている事、こうやって感謝して通ることであり、マイナスのものは、夏は暑い暑いといい、冬は寒い寒いと不足をいい、ちょうどいいときは、秋は長く続かないと不足をいい、どちらにしても不足を言っています。

人間意識で生きるのではなく親性なる霊的観念・命霊観念で生きていくべきであります。


「生命の大親」大親の絶対的生命愛を親感謝して生命の感動をもって生きるべきであります。


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by shizennori1 | 2017-08-12 16:10 | 34.親性と人間性


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