自然の仕組み

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2017年 07月 27日

30.より良く生きること①

より良く生きること、これは全ての生物が望んでいる生命的な欲求であります。大自然の「生命の大親」は、全ての生物に生命を与えて活かして下さっています。生きとし活ける全てのものがより良く生きようとすることには、宗教宗派も人種差別も、国の違いもないのであります。より良く生きようとすることには人間、動物、植物の差別すら無いのであります。

より良く生きる為に「生命あるものが互いに助け合うこと」は、生命への愛であります。その本質は「生きることの大切さと素晴らしさ」であり宗教宗派ではありません。即ち「生命の尊厳性そのもの」であります。

後世の人々は「生命の尊厳性であります愛や慈悲の精神」を悟れずに宗教宗派を作り、宗教的行事をきらびやかに行う事が神仏にかなった事だと錯覚してしまっている。そして宗教宗派の違いによって人間同士が対立し、争っている。助け合う筈の宗教が原因で、殺し合いにまで発展しています。これが現代の人類の姿であります。

「生きること」には宗教宗派はありません「生きること自体」は宗教宗派の問題ではないのであります。

自然の大生命力によってのみ、全ての生物は、この地球に生命を与えられ活かされ生きているのです。この地球における四十億年にわたる生物進化と生存の歴史は、実に大自然の偉大なる大生命の力と働きによってのみ行われてきたのであります。だから、大自然の大生命こそ全ての「生命の大親」なのであります

大親であります大生命こそ大自然の本質であり、神仏の本質なのであります。つまり、生きていくのに絶対になくてはならない存在が神仏の本質であります。即ち、生きるもの総てにとっていつでも何処でも絶対に必要不可欠なる存在が親の本質なのであります。

親の本質とは「生命の大親」であります「生命の大親」とは、大自然の全ての大親であります大生命の意味であります。大自然の「生命の大親」の意味であります。

現代人が誰でもすべき第一のことは、先ず、生命の尊厳性に目覚めて「生きること」を大切にする事であります。「生きること」の大切さは人も自分も変わらないのであります「生きること」を大切にする、生命の尊厳性とは「他が生きることを助けること」なのであります。

生命あるすべては「生命の大親」の生命的兄弟・姉妹なのであります

「生命の大親」の生命の子、親の子なのであります。互いの生命性に目覚めることこそ、親性の開発なのであります。

だから「生命の大親」より生命を頂いた生命の子同士が「より良く生きる」ために「互いに助け合うこと」「生きること」を大切にすることになるのであります。


「循環の理法」とは、己の蒔いた種が必ず種どおりに生えて循環してくる事であります。この世の全ては「循環の理法」によって成り立っています。全てが循環しているのであります

だから、「他の生きること」に役に立ってこそ「自分の生きること」もより良くなるのであります「他の生きること」には役に立たないで、自分だけがより良く生きようとして如何に神仏に願ったとしても、己だけの我欲を満たしてくれる神仏などはいません。如何に金銀宝石で飾り立てゝ立派な仏像や神社・仏閣を作ったとしても、他の生命あるものを助けずにいたのでは、生命の尊厳性も何もありはしません

「他が生きること」にプラスの行いをせずに、自分の運命環境だけが良くなって欲しいと願っても、それを叶えてくれる神仏は実際にいません。何故なら、神の本質は「生命の大親」以外には存在し得ないからであります。

他の生命を救ってこそ、自分の生命も救われます。他がより良く生きることに役立ってこそ、自分もより良く生きられるのであります。これが「循環の理法」なのであります「循環の理法」とは、大自然の親理法則(真理法則)であり、摂理なのであります。


この絶対なる大自然の掟・法則に背いて、より良き自分の生存はあり得ません。

人間が如何に立派な神仏を金銀で作ろうとも、それは単なる人間の作品であり、神仏と思う人間の思い込みに過ぎません。第一、人間が『神仏を作る』などとは人間の驕り高ぶりであり、出来る事ではない筈であります。それは「生命の大親」への冒瀆であります。

神仏は己の体を仏像や偶像として人間に作ってもらわねばならぬほど無能な存在なのでしょうか?

神仏は、己が居る処を神社・仏閣として人間に作ってもらわねばならぬほど落ちぶれた存在だろうか?

人は神仏を作れる筈はないし、人を神仏として祭る事も間違いであります。

人間を含め、全生物を活かしている絶対の親は「生命の大親」御自親以外には、絶対にあり得ない。つまり、大自然の大生命のお力・お働き以外にはありえません。

「生命の大親」は、全生物をより良く活かそうとしている大自然の力と働きなのであります。だから、互いにより良く生きる為に、互いに助け合うことが大切なのであります。これは大自然の「生命の大親」の絶対の掟(真理法則)なのであります。これをとも言います。

実質的に他の生命を救う事が、実質的に自分の生存の価値を高める結果になります。実際に地球で苦しんでいる人達に、米一粒でも、パン一切れでも、水一杯でも、毛布一枚でも援助すること、このことが互いの生存をより良くすることであります。だから、実際に「徳積おつなぎ」をしなければならない必要性はここにあるのであります

立派な神社・仏閣を何百億円というお金をかけて作らなくてもよいのであります。それより実際に苦しんでいる人達の生きることを少しでも助けるべきなのであります。莫大なお金をかけ、盛大な宗教行事を行っていることではありません。

金を持って仏像・神社仏閣などの物を作るのと、金を持って苦しんでいる人や他の生物の生命を助けるのと、どちらが大切で理に叶った行いであるのかを人類、特に宗教人たちは考えるべきではないのでしょうか?

宗教宗派が大切か、生命が大切かを良く判断すべきであります。宗教宗派の信仰を行っている総ての人々は、自分がより良く生きるための幸せを願っているはずであります。自分の不幸を願って信仰する者は誰もいません。

しかし、自分の幸せを本当に願うのなら、宗教に入って人間の作った神仏を拝み、お経を唱えるよりも、他の生命を救うことを実質的にすべきであります

この事の方が「生命の大親」の親理に叶った行いであります。人間の作った神仏や宗教は、全生物に生命を与える事も、活かす事もしてくれません。実質的には何も出来ないからであります。

生命ある全ての生物を、より良く活かそうとしておられるのは「生命の大親」だけであります。だから、他をより良く活かそうとする努力は「生命の大親」の大自然の理に叶ったことなのであります。

他が生きる事にプラスを与えたものに「生命の大親」はプラスの運命と環境をお与えくださいます。つまり「循環の理法」であります。他にプラスの種を蒔くものが、自らもプラスの収穫を得る、これが「循環の理法」なのであります。

「他がより良く生きる為の種を蒔かずして自分の生きることだけがより良くなる」という事は絶対に無いのであります。

「生命の大親」の大自然の親理(真理法則)をよく悟り「徳積おつなぎの理」の種を十分に蒔いて他の生命を救い、他の生命と共に自分もより良く生きて行く事は、誰にとっても大切なことであり、是非ともしなければならない事なのであります。

生命あるものが、助け合わなければ,二十一世紀の地球の人類の未来は無いのであります。


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by shizennori1 | 2017-07-27 18:26 | 30.より良く生きること①


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