自然の仕組み

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2017年 08月 16日

36.親子の原理

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私達は「健全な魂は健全な肉体に宿る」といわれる如く、精神と肉体である物質からできております。私達の肉体は物質であり、その元というのは、地球であります。地球が無ければ私達の肉体はありません。 地球は根元であり、私達の肉体は部分であります。米も麦も土の変形したものです。これら植物を食料として草食動物の肉体は成り立っています。更に草食動物の肉体を食料として肉食動物の肉体は出来ております。人間はあらゆるものを食料として肉体を構成しています。この様に如何なる生物の体も、その根元は、地球という大地から出発して、やがて大地に帰ることになります。

絶対的な自然の掟として地球としてのこの大地は、全生物の体の大親であります。土から派生した肉体は、やがて絶対的に土に帰る。このサイクルを肉体の法則」といいます。


地球という全体である大地とそこから派生した部分である肉体との関係は、親子の関係ということが出来ます。このような関係を親子の原理」といいます。 派生的部分である子がいることは、その前提として親が存在している証拠であります。親が根元的全体として存在しているから派生的な子が存在することになります。


同じように私達は、物質としての体と共に生命があります。この生命が存在するということは、私達に生命を与えている大自然の「大親である大生命」という「生命の大親」が存在する証拠であります。大宇宙に満ち満ちている「大親である大生」という「生命の大親」から派生している私達の生命は、やがて大生命へ帰っていく。このサイクルが「生命の法則」であります。


親子の原理」の一つの原則には、子は親と同じ理を本質的には受け継ぐのであります。

この原則から母なる大地が物質ならば私達の肉体もまた物質であります。生命についても「大親である大生命」という「生命の大親」から派生した我々の生命は、親が時間、空間を超越し、形を越えた存在であるから、本質的に目に見えない存在なのであります。

ここで最も重要な点は物質は受動的な存在でありますから、じっとそのまま努力しなくても受動的に土に帰りますが、しかし、能動的である生命が「永遠普遍なる大生命」へ到達するのには、個々の生命体が能動的に積極的に努力しなければならないということです。
受動的に土へ帰る肉体については問題がないが、認識する本体としての我々の生命は能動的、積極的に努力して欲求の段階を高めていかねばならない。

そのために「大親である大生命という「生命の大親命の子である私達個々の生物にいろいろの生涯とさまざまな生存の味わいを与えることにより、私達の意識が成長発展することを望んでおられるのであります


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# by shizennori1 | 2017-08-16 17:09 | 36.親子の原理
2017年 08月 14日

35.存在の原理

私達の住んでいるこの親物質界は生命の大親が創造された親の世界であります。「生命の大親は全生物に生命を与え活かして下さっています。それぞれの存在は、役に立つために存在しております。

私達のまわりに存在するものは、全て役に立つものを私達は作っています。まわりにある鉛筆、ノート、机など皆、他の役に立つ為に存在しております。鉛筆は、鉛筆の為に存在するのではなく、鉛筆が他の為に役に立つ存在として作られています。

存在の原理をもって生命の大親は、この世界を親創造して下さっています。親創造の、親と言う字は、人間の創造していくことと区別して、あえて親創造と言っております。

存在の原理」は

Ⅰ.存在するもの全ては、役割機能をもって生成されます。

Ⅱ.存在するもの全ては、他の為に役にたつ役割機能を持っています。

Ⅲ.存在するもの全ては、他の為に役に立たないと自然淘汰されます。

この三つで説明できます。


私達の生存が「
存在の原理」に逆らった生き方をすると自然淘汰されることになってしまいます。私達も役に立たないものは捨ててしまいます。この事から政治にしても、経済にしても、宗教にしても、全体の為にならないことをしていますと自然界において自然淘汰されることになります。特に自己中心の生き方は、自分の事だけしか考えていません。こういう生き方は、他の為に役に立ちません。 そうすると自己の存在を失ってしまいます。物も生命も同じであります。これが自然界の法則、原理であるからであります。速く目覚めなければなりません。どの人の運命も皆、同じであります。

つまり、今まで地下核実験をして、地球の地下のプレートにひびがはいってしまっています。いつでも、どこでも地震が起きてもおかしくありません。更に、皆のためになる食物も、農薬を使用して農薬づけの野菜などを販売したり、遺伝子組み換えをした大豆など経済ベースでやっています。
どこにも他の為に、まごころをもってやっているとは思われません。非常に悲しいことです。


こういう生き方をしていると地球が「存在の原理」に反した存在になる事になり、自然淘汰の惑星になってしまいます。 このように、皆の為になる生き方をしないでいますと、この地球も存在を失う事になります。いわゆる自然淘汰されることになります。


このような地球にならないように一人一人が存在の原理」に沿った生き方をしていかなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-08-14 17:39 | 35.存在の原理
2017年 08月 12日

34.親性と人間性

生きることは、何の為に生きるか。生きて何を得ようとしているのだろうか。どんなにいろんなものを食べても、肉体はやがて、土に帰ります。これは事実です。しかし今日一日生きると生きた実感があるはずであります。

今日一日このような「生命の大親の大きな生命の愛を頂いて、生命の愛の力によって崇高な生命の御子として活かされている真実感を持ったらどうでしょう。やがて肉体を土に返した時、自分には何が残るでしょうか。日が、どんなに暑い日であろうと、どんなに寒い日であろうとも、そこには、生きた喜びと感動があるはずです

つまり、生きた日々の味わいがあると、生きた価値があるといえないでしょうか


旅行に行きました。行って良かったと思えば、行った価値があります。何処かに行って、美味しいものを食べてきたとします。食べておいしいという喜びと感動が残ったら食べた価値があります。

私達は肉体をもっていると同時に、精神であります御霊霊的観念・命霊観念をもっています。肉体をもっていますが、やがて肉体は土に返します。その間に私達は、何を得るかと言いますと意識の問題であります。

何をやって何処でどう生きようとも、この意識が素晴らしいものであったら、これを自己の霊的観念・命霊観念収穫といいます。

要するに、自己の霊的観念・命霊観念に何を収穫するかであります


逆に執着はマイナスとなります。執着の方は、どういうものかと言いますと食べたのに、食べられたらいいなと、毎日思ったら苦しみとなります。例えば、麻薬の注射をしたときは、いいかもしれませんが、後は、麻薬が切れたら苦しむのであります。執着になると苦しみになります。


ところが、
収穫になると感動になるのであります。失恋した時、相手がいないのに、もう会えないと、苦しい苦しいと執着がなくなるまで苦しむのであります。何年という長さではなく、自分がどれだけ執着しているかであります。


今度は、現世に執着した魂というのがあります。一生懸命、金を貯めたのに、これだけの金を残していく。つらいなつらいなと言って。

命霊界(意識の世界)には、お金ない、体ない、電気料なんて心配はありません。一番困るのは、例えば胃がんで、この世を去った人が、肉体が無いのに、苦しい苦しいと思っています。肉体が無いのに苦しい苦しいという感じをもっています。

恐怖を持っている人は、何を見ても恐怖を感じるのであれば、恐怖の運命・環境を通ります。

ムンクは、女性を見たら恐怖に感じました。ルイスウェインは猫を見たら、恐怖となりました。あらゆることが苦しみであり、恐怖であります。己自身が、そのように思っているからであります。猫を見たらかわいいと感じてる人は、正常です。

生命はもともと本来、素晴らしい感動をもって通るのが本来の姿です。肉体は健康で通るのが本来の姿であり、病気で通るのが本来の姿ではありません

夫婦は仲良く通ってこそ本来の姿であり、親子、夫婦、兄弟が喧嘩して通るのは異常な姿であります。

同じ原則を自分の御霊や生き方に当てはめてみますと、プラスであることが正常であって、マイナスは異常であります。親から与えられた素晴らしい運命といえば正常であります。


それでは、この世の中を生きるのは素晴らしいと言ったらプラスであり正常であります。この世の中を生きるのは苦しいと言うのはマイナスであり異常者であります。

夫婦の相性が悪いと言うのはマイナスです。異常者であります。そういうことになります。


「生命の大親」
の大生命の生命の一部を頂いた、生命ある全ての全生物が生命の愛によって活かされています。
生命ある全ては生命の本質的兄弟であります。生命の世界には動物も、人間も、植物も、生命に対する差別はありません。これはプラスであり正常であります


ところが、自分は、因縁たかりだ、罪の子だ、相性が悪い。そのように考えたら、マイナスであり、異常者であります。罪をお許しくださいというのは、マイナスであり異常者であります。


何も不幸で通る必要は無い。何もわざわざマイナスで通る必要はありません。


何でも無い人がわざわざ宗教へ行って、罪をお許しくださいとか、どうか哀れんでくださいと言っています。親は憐れみはいたしません
「生命の親」は生命の御子に対して、哀れみはいたしません。親は子に対して哀れんで食事は作りません。これは異常です。


「生命の親」
は生命的絶対愛をもっておられます。にもかかわらず我々の方が、罪の子だと言って、憐れんで下さいといっています


この地球は人間の力では造っていないし、仏像の力でもありません。釈迦も歴史的事実として、仏像を拝んでいないし、キリストも十字架を拝んだ事実もありません。それは、釈迦、キリストの死後人間が造っているからであります。


生命から出たものは形無いのであります。感じる能力は生命があるから感じる力があります。感じる力があることは、感性があると言う事になります。生命があるから感じるのであります。生命無くなったら感じません。


霊的観念・命霊観念
の収穫と言うのは、今日一日、どういう風に感じて生きたのかが御霊の収穫となります
行動を伴った実感こそ霊的観念・命霊観念収穫となります。


「生命の大親」
が親創造された、素晴らしい親の世界であります。自分の親が造った生命ではありません。「生命の大親」から授かったものであります。ここでいう親は「生命の大親」であります
親の本質とは、人間が作り出した神仏、つまり宗教宗派の神仏ではなく、何時でも何処でも誰にでも、何にでも、あらゆるものをより良く生かそうとしておられる大自然の力と働きであります。この力と働きの事を「生命の大親」と申し上げております

「生命の大親」のお力お働きを頂いて活かされ生きているという意識、このような意識のことを親性意識と言います。

「生命の大親」の生命の御子であるという親性なる感動と喜び、誇りをもって生きるのであります。

宗教は人間がやっている一つの精神的な活動集団であり、親御自親がおやりになっている事ではありません。人間社会の中の経済活動、政治活動、芸術活動と同じ宗教活動であります。しかし、生命は人間社会を超えたものであります。

宗教は宗教争いをしています。これは人間がしているのであります

「生命の大親」が生命を与え活かしておられるのに、生命の御子である我が子が、苦しい苦しいと生きたら、親は、非常に残念であります。

子供たちが幸せだと生きたら喜びであるのに、怨み、つらみ、殺しあって生きるのは本来の姿ではありません。

宗教宗派で、人間ごとで争っています。宗教に入って争って、却ってマイナスになっています。

親性意識というのは「生命の大親」の生命の御子であり、親性なる感動と喜びをもって生きる意識のことであります。これに反して人間意識は、苦しみ、不足不満、大変だと生きていく意識の事を人間意識と言います。

今までのことや過古にとらわれて生きているのを伝統的過古人といい、昔のことを言っています。夫婦喧嘩の時も以前のことを持ち出します。

親の意識に通じるには性意識で不足不満を言ったら通じません。人間の方が変わるのであります。不足不満は、人間意識であります。マイナスであります。

不足不満は人間意識であります。マイナスであり異常であります。夫婦でも喧嘩して異常に言ったら聞きません。本当に活かされ生きているのであります。生きることに素晴らしく感動をもって生きたら良いのに!!

長く御夫婦として生きれば生きるほど増々生きる喜びと感動が湧いてきたり、如何なる運命・環境が与えられようとも、与えられた全てが生命の喜びと感動に変わればよいでしょう。こういう意識を持っているものを性意識のあるものと言います

親御自親、マイナスは与えておりません。そのことを通ることによって却って大きな発展になっていきます。人生にマイナスはありません。

算数の苦手な子供たちに、先生は算数をさせます。ところが子供たちは、苦手な事をさせるから、それを愛と感じないのであります。大きな愛がわからないのであります。


「生命の大親」は色々な運命や、いろんな人生を与えてくれます。しかし、それは決してマイナスではありません。マイナスに感じるのは異常者です。プラスに感じる方は正常であります。ここが問題であります。人間の気持ちの方がひねくれています。マイナスのことが多すぎます。


この世は苦の娑婆だとか、結婚式でも人生はそんな、なまやさしいものじゃない等といったりしています
人間は、悲劇を求め霊的観念・命霊観念の癖があります。異常であります

人間は、今までのマイナスの観念から、人間意識から親性意識へと脱皮しなければなりません親性意識とは、生命の感動をもって生きる意識のことであります。真性なる親の愛を感じたら性意識があるのであります

これに反して、マイナスを感じて生きる人が大勢います。大事な事は努力して大きな愛を感じる努力をする必要があります「有意味行為の原則」により、同じ生きるのにも、自分が意味する内容によって価値が違ってきます。


今日
「生命の大親」から与えられた一日を活かさせて頂きます。そういう気持ちで生きたら、そのような親性なる霊的観念・命霊観念の収穫になります。それが其の人の癖、性格になっていきます。

「生命の大親」は誠を受け取って下さいます。徳積の生き方をしなければなりません。現代人は、こんなにものがあってもより良く生きられないのであります。運命財産と言う徳が無いのであります。

「生命の大親」は、生命を与え、生きる力を与え、全てを与えて下さっています。「生命の大親」の親御存在に誰も気が付いておりません。気が付かないばかりでなく何もしておりませんし、しかも、ああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりしています。これで「生命の大親」に通じるはずはございません。それで親通力が欲しいと言っても無理であります。

本当に与えあう、プラスを出す事が出来たならば、それが運命貯金になっていきます。これが性人であり、今世、生きたことが素晴らしいプラスになってきます。


蒔いた種は土をかけて見えないように蒔きます。隠れたる善行は、必ず生えてきます。お百姓さんは、種を蒔きますが、必ず増えて生えてきます。これが自然界の法則なのであります


土に種を蒔く事は知っていても、行いの種を蒔く事を知らなければ、それは親理を悟った事にはなりません

この世で、いいことを思い切ってすれば絶対にプラスが出てくるのであります。運命環境や生きることに最大のプラスが来ます。

御霊の救い以外に本当の救いは、有りえません。最低限の御霊の救いとは、つまり其の人が救われたいのなら、自分の意識を親性なる霊的観念・命霊観念の意識収穫をしなければ、永遠に救いはありえません

人類は今まで性なる霊的観念・命霊観念の救いを受けていないから、2,3千年経っても、未だに、お救い下さいという欲求しかもっていません。

生きる本質は、目が見える事、汗が出る事、新陳代謝をして頂いている事、こうやって感謝して通ることであり、マイナスのものは、夏は暑い暑いといい、冬は寒い寒いと不足をいい、ちょうどいいときは、秋は長く続かないと不足をいい、どちらにしても不足を言っています。

人間意識で生きるのではなく親性なる霊的観念・命霊観念で生きていくべきであります。


「生命の大親」大親の絶対的生命愛を親感謝して生命の感動をもって生きるべきであります。


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# by shizennori1 | 2017-08-12 16:10 | 34.親性と人間性
2017年 08月 03日

33.内在的な心の世界と外在的世界

         
夕焼けという大自然の事実は同じであっても、それを感じてどの様に自らの心の世界、観念の世界に映すかは、各人各様種々に異なります。

ある人は夕暮れの光景の美しさを感じ、ある人は恐怖を感じ、ある人はわびしさを感じます。人は皆全ての物事を自分の心の世界に映して見ているのであります。

一般意味論ではこの事を「自分が思っている通りにしか見ていない」(what you see is what you believe !)と言っております。確かにその通りなのです。

自分が相手をへんな人と思っていれば、へんな人としか見ていないのであります。いやな仕事だ、いやな職場だと思って見れば、自分の心の世界にはいやな実感しか映ってこないのです。

なまこを美味しいものと思っている人には、美味しそうに映ります。西洋人の様に、なまこをグロテスクで気味の悪いものと思っている人には不気味さしか自分の心の世界に映っていないのであります。

心は常に自分の心の世界、観念の世界にしか住んでいないのであります。自分の心が住んでいる観念の世界を「内在的観念の世界」と言います。

これに対して、自分の肉体が住んでいる物理的事実の世界を「外在的物質の世界」と言います。上の三枚の写真は内在の世界(自分の心に映した観念の世界)と外在的世界の関係を大変判りやすく説明したものであります。

外在的世界の赤い玉は同一であっても、見る人の角度や遠近によって、内在の世界に映る赤い玉は、ゆがんで見えたり、小さく見えたり、大きく見えたりします。赤い玉は常に同一の大きさと形であっても、いったん心の内在の世界にゆがんだ玉が映ると、私達はゆがんだ赤い玉だと思い込み、そう信じてしまいます。(写真左

自分が偏見や先入観をもって物事を見、人と接した時には、丸い赤い玉がゆがんで見える如く、物事や相手の人間がゆがんで見えてしまうのであります。そして一度ゆがんで内在の世界に映ると、増々そう信じ込んでしまい、増々その様に見えていくのです。憎しみを持って人を見れば、相手の人は増々憎らしく見えてくるのであります

育児ノイローゼの母親は、子供を育てる自信がないと思って子供を扱いますから、子供を育てる事の自信を増々失い、その反面、自分はダメだという実感と信念は反比例して強まっていきます内在的な世界には育児に関して自信を失う事しか映らなくなってしまうのであります。

心の内在の世界は、育児に対しての不安と恐怖で一杯となってしまいます。写真中央の赤い玉が内在の世界一杯に大きく映っている状態です。

ノイローゼとは内在的心の世界に不安・苦しみ・悩み・恐怖などストレスが蓄積し、内在的心の世界がマイナスの観念で一杯になった状態であります

ノイローゼにまではならなくとも、正常な人達ですら、悩み・憎しみ・怒りなどで気持が一杯の時は同様の状態なのであります。競輪・競馬・ギャンブル・酒などに狂っている場合、恋愛やその他何か夢中になっている状態などの場合は全て、夢中になっている対象が内在の世界一杯に広がっている姿なのであります。

生きる喜びや感謝などのプラスの観念が内在の心の世界一杯に広がれば、悟りの世界となりますが、逆に不足・不満・恐れ・憎しみ・苦しみなどのマイナスの観念で内在の心の世界が一杯になりますと、この世は生き地獄となってしまうのであります。

地獄・極楽とは外在的世界にあるのではなく、自分の心の内在的世界にあるのであります。だからこそ悟りが必要なのであります。

上の右側の写真は、赤い玉が実物より小さく映っているものです。健康の喜びや有り難味を少ししか感じなかったり、親子・夫婦などの互いの存在価値を過小に感じたり、大自然の大いなる営みと生命力の素晴らしさ、今日一日の生きる喜びと感謝をほとんど感じる事ができなかったりしたならば、内在的に映るプラスの観念は増々小さくなり、やがて消えていってしまうのであります。

外在的世界の同一の事柄を心の内在的世界では大きくも小さくもとらえる事ができるのであります。マイナスの事は気にしなければ段々と小さく映っていき、やがては消えてしまうのであります。

私達にとって一番大切な事は、先ず自分の内在的な心の世界を悟りによってプラスにする事であります。

ナマコはナマコの味であって、それを美味しいと感じるか、まずいと感じるかは自分の内在的観念の世界の問題であります。小鳥にとって毛虫は好物の食べ物ですが、人間特に女性にとってはぞっとするものであり、毛嫌いするものです。

外在的世界の毛虫は毛虫であって、それを好物にするか、毛嫌いするかは、小鳥と人間の内在的世界の違いであります。

この事実から考えれば、元来憎らしい人もいなければ、好ましい人もいないのであります。憎らしいとか好ましいという実感は、その様な観念を持っている自分自身の内在的心の世界にあるのであって、相手の人にあるのではありません

だから、本来憎らしい嫁姑も、相性の悪い夫婦も、いがみ合うべき兄弟というものは居ないのであります。人間関係の良さ悪さは自分達が互いに持っている内在の心の世界のプラス・マイナスの実感によって決まります

本来、いやな仕事、いやな環境や運命というものはありません。いやな仕事だと感じるのは自分自身であり、いやだと感じれば感じる程、つらくなって苦しむのも自分自身であります。

マイナスの実感は自分にとっても、まわりにとっても損な事であります。自分にとって自分の気持は一番大切なものなのであります。

私達は生命力として、プラスにもマイナスにも実感できる自由選択性を持っています。この能力を使って自分の気持の世界である内在的な心の世界をプラスの世界にすべきであります。

その為には、自分の考えかたや観念をよりプラスの方へ転換していかねばなりません。物事をプラスに見なければなりません。

“自分は大自然の大いなる生命の祝福を受けてこの世に活かされ生きているのだ。そして今日一日は生きる喜びと味わいの為に与えられた日だ。”というプラスの考え方と、“自分には因縁や業があり、この世に罪の子として生まれてきたのだ。だから苦しみに耐えて今日も生きていかねばならない。”という一般宗教のマイナスの考え方とでは、まるで正反対であります。

物事のプラスの面を考えて明るい気持で努力していく事をプラス思考と言います。マイナス思考とは逆に悪い方、暗い方ばかりを考えて積極的行動や努力をしない生き方であります。

マイナス思考ばかりを行っていますと、親子・夫婦・兄弟・嫁姑・友人知人などの人間関係は悪くなり、家庭も仕事も、環境や運命も悪くなり、自分自身も苦しんで生命力を低下させ、ノイローゼや肉体的病気にもなっていきます。

プラス思考を行えば、生きる喜びと感謝の観念が自分自身の内より増々湧いてくるのであります。人は誰でもより幸せを求め向上発展を望んでいます

今日一日をプラス思考で積極的に生きることにより、自分の生命力を高め運命・環境を改善する事ができるのであります。

プラス思考で生きる毎日の積み重ねが結果として自分の人生となるのであります。

「天は自ら助くるものを助く」「汝の信仰汝を救えり」などの言葉にある如く、私達は誰でもプラス思考を積極的に行い、価値ある充実した人生を送るべきであります。



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# by shizennori1 | 2017-08-03 20:06 | 33.内在的な心の世界と外在的世界
2017年 08月 02日

32.観念のフイルム

自分の観念、気持の固まりである意識のことを霊的観念・命霊観念と言いますつまり、霊的観念・命霊観念は自分自身という個有性の本質であります。
自己の根源的本質は生命でありますが、生命は普遍共通の存在であるが故に、自分と言う独特の個有性をもっていません。

生命とは如何なる霊的観念波動でもつくる事ができる力と働きであります。

自己の霊的観念波動は自分独特なものでありますから、自分という個有性をもっています。全宇宙にたった自分一人だけしかいない存在であります。


自己の霊的観念波動こそ自分自身の御霊(命霊観念)であります。御霊(命霊観念)とは自己の生命力がつくり出した自分自身の霊的観念波動であります。


霊的観念波動
の事を霊的観念のフイルムといいます。


自分の運命・環境は自分の「霊的観念のフイルム通りに現れてきます。


霊的観念のフイルム
通りに時間・空間に映写されるのが運命・環境であります


映画のフイルムは映写幕(スクリーン)に映写されます。フイルム通りにしかスクリーンには映りません。同じ様に「霊的観念のフイルム」は時間・空間という物質界に、自分の運命・環境として投影されます。


物質界とは、それぞれの御霊(命霊観念)が自己の「霊的観念のフイルム」を投影する世界なのであります。

御霊(命霊観念)は自分の霊的観念のフイルムを時空間に投影して自己の霊的観念波動を認識し、改善して成長発展を行います。


自分の霊的観念波動がくよくよするものであったなら、その様な運命・環境を通り自己の性格を認識し改善しなければなりません。

固い性格・すぐに悲観的になる性格・すねる性格・怨みに思う性格・癪にさわる性格・すぐに争う性格・カッカする性格・短気・呑気・いい加減・ずぼらの性格・攻撃的性格・四角四帳面できまり通りにしないと納まらない性格・何でも相手のせいにする性格・決して自分の非を認めない性格・すぐむきになる性格・虚栄プライドの高い性格・かっこだけをつける性格・自己中心の性格・世間体ばかりを気にする性格・常に不足不満しか感じない性格・単純思考の性格・自分にこうしてくれない、ああしてくれないといって欲求だけを行う性格等々の種々様々なる性格を、自分の霊的観念のフイルム通りの運命・環境として物質界に現して頂いております。

その結果、それぞれの改善すべき性格や御霊(命霊観念)の癖を認識して、能動的意志の努力によって親成長発展を行うのが物質界の肉体的生存の意味であります。


「生命の大親」は生命の御子らの御霊の親成長発展の為に、親理(親理=心理=真理)のお力お働きをもって、この物質界を親現して下さいまして、生命の御子らに素晴らしき生存の様々な味わいを、お与え下さっておられるのであります。


要するに、自分の霊的観念のフイルムを変える努力をしないと、そのもっている御霊(命霊観念)の癖通りの運命・環境が、この物質界に時間・空間通りに映し出されていることになり、少しも素晴らしい生き方とはなりません。


自分のいやな霊的観念・命霊観念を変えない限り、自分の運命・環境は変わりません。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、全て自分のせいであるという位に思って努力しなければなりません。それほど自分のせいであると思わなければなりません。


速やかに霊的観念のフイルムをプラスの、生命の愛に満ちた、徳のある素晴らしい霊的観念・命霊観念造りをして、素晴らしい味わいのある生き方をすべきであります。

このような意識を持つと段々自分の持っている意識が高まっていきます。しかしこの様な生き方が分からずに、どんどん意識を低下させています。その事を地震や天候で私達に指し示しているのであります。速く意識を切り替えて生きて行かねばなりません。


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# by shizennori1 | 2017-08-02 17:13 | 32.観念のフイルム
2017年 07月 28日

31.より良く生きること②

「生命の大親」の誠に貴き親理を悟って、より良く生きる為の「生命の愛」の実際の行いなくしては、如何に宗教行事をれいれいしく行ってみても本当の、事実の「生命の大親」には受け取ってもらことはできません。

下記の写真の子供は、ユニセフが支給する栄養食品を受け取るとよろよろと歩いてテントに向かった姿であります。

         痩せ衰えた男の子

今、アフリカ大陸では飢えが広がっています。アフリカの飢餓状況のレポートの発表によりますと西アフリカ六ケ国だけで1900万人が、アフリカ全体では現在約5000万人(実数はその倍)の人々が飢餓に苦しんでおり、この状況は戦争、干ばつ、内戦、人口増加などにより更に一段と悪化するであろうと述べています。この中には抵抗力の無い子供達が飢えて、幼い生命を奪いつつあります。

片方で聖職者たちが金銀で飾りたてた立派な衣をまとい、おごそかに神への集まりを行っている間に、一方難民の子供たちは、寒さにうち震えながら身をよせあって、食糧の配給を待っています。砂漠の夜は冷えて零度近くにも気温がさがり、衣料品を持たない裸の子供たちには、苛酷な生存の日々となっています。

下記の写真は、寒さのために身を寄せ合いながら食糧の配給を待つ子供たち。カラモジャ地方で。

      寒さに震える子供達

人が宗教を作り上げると、自分たちの自己満足のための権威を創作してしまうのであります。社会における自分たちの地位と権力と富を誇示した宗教組織には、もはや「生命の愛」の精神は無いのであります。本当の実理とした実行無しに、その言葉を唱えるだけの「生命の愛」は、生きることには何も役に立たないのであります。凍えている子供たちに毛布一枚を実際に渡す行いこそ、真の「生命の大親」の御親意に沿ったものの行いでは無いのでしょうか?

下記の写真は、干ばつ地帯の飲料水確保の為に毎日何時間もかけて飲み水を運んでいる少女の姿です。スーダン 

          バケツのかんむりの少女 

家族の生命をまもる為のバケツの冠を頭にのせているこの少女のほうが「生命の愛」の精神に叶っているのでは無いでしょうか。権威の象徴の三重冠は頭にのせなくても、生きる為の水を入れたバケツをのせた少女の方がずーっと生命本来の価値ある行いなのであります「生命の大親」の生命愛に叶った行いとは、宗教的儀式ではなく、より良く生きる為の実質的な行いであります。

下記の写真は、難民キャンプに避難した女性たちの姿です。水を得るために乾いた川床を更に13メートル掘らなければなりません。それでもほんのちょっぴり水が得られるだけなのです。

         水に苦しむ難民たち

アフリカや南米の干ばつは、数年来続いており、その深刻さは年々ひどくなっています。干ばつで水がなく、乾きのために人も動物も沢山死んでいます。一方、聖職者たちは、聖杯を傾け、ブドウ酒を飲み、自分たちこそ神に通じると思って自己満足しています。

下記の写真は、サバッダ難民キャンプにようやくたどりついた男の子。へなへなと、くずれるように座り込んでしまった。

      難民キャンプにたどりついた男の子

現代の宗教宗派は、何百、何千億円という金をかけて立派な聖堂と称する宗教的建物を建てて、宗教的自己顕示欲求を現しています。他の生命を救うより、自己の宗教宗派の拡大の方をはるかに大切にする生き方が、今日の宗教人たちであります。宗教は、立派な大企業になってしまっています。

しかし、多くの難民たちが食物が無くて苦しんでいます。世界の三分の二は、まともに 食べられず飢えております。これが地球の現状なのであります。

口先ばかりの事を言って、自己の宗教宗派の中に埋没しているのではなく、宗教宗派の殻を脱ぎ捨てて、大自然の全てに通用する「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った「生命の愛」に生きるべきであります

下記の写真は、配給用ナベの底にくっついた食糧の残りカスをむさぼるように食べている子供たちの姿です。

        生命あるものに食糧を!

肥満にふくれた金箔の仏像の前には、果物などの食糧がお供えされて豊富にあります。しかし、仏像は何も食べません。ふんだんに純金を使い、金の仏像を貴いものとして拝んでいますが、釈迦の教えは、偶像を作って拝むことを戒めた教えでありました。釈迦は一回も仏像を拝まなかったのであります。何故なら、歴史的事実として仏像が出来たのは、釈迦の死後、4,5百年たった後であるからです。

日本の仏像の前には、食糧が豊富にあります。実際に生きて必要としている子供たちの前には食糧がありません。この事を宗教人たちはどう考えているのでしょうか? 釈迦の教えとは、金箔の如来像を作ることであったのでしょうか? 

日本人よ、おごってはいけない。生命あるもの同士がより良く生きるために、助け合う実際の行いを直ぐにでも始めるべきであります。日本人の誰もが生命的助け合いを実行すべきであります。この事が「生命の大親にお受け取り頂く事になるのであります。

下の写真は、ユニセフ配給センターで、骨と皮だけになった男の子が立ったままで、何時間も食糧の配給を待っていた姿であります。

               骨と皮だけの男の子

上記の写真の子供が、食べ物も無く、薬もなく苦しんでいるのに、宗教を信仰する信者たちは自己満足と自分たちの現世御利益を願って立派な宗教儀式を行っています。己の幸せのみを願っている宗教人に「生命の大親」生命的愛の本質が悟れよう筈がありません。

人類は目覚めるべきであります。何が本当の信仰なのかを! 生命の尊厳性とは何なのかを! 

下記の写真は、父親が歩けなくなった子供を抱えて数日間歩き、サバッダ難民キャンプにたどりついた姿であります。

歩けなくなった子供を抱え数日間歩き続けた父親

仏像には生命がありません。だから食べ物も水もいらないのであります。疲れる事も寝る事もありません。生命ない物には力と働きがありません。仏像自体は人間が作った物にすぎません。バックを金で飾り立ててはありますが、人間によって作られた物は物にすぎないのであります。作った人間が、作られたものを拝むことは本末転倒であります。だから、釈迦は偶像崇拝を否定したのであります。

仏像や偶像よりはるかに尊いのが生命であります。この写真の父親は、「生命の愛」ゆえに、我が子を抱え数日間も、飲まず食わずに歩き続け難民キャンプにたどり着きました。仏像や偶像に、この「生命の愛」はありませんこの父親の行為こそ、如何なる仏像や偶像の存在よりも尊いものであります。如何なる仏像にも、この父親のまねは出来ません。

この父親の方が仏像よりも、はるかに尊い「生命の愛」の姿ではないのでしょうか!

   宗教戦争の犠牲と悲劇                                            

   「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語 

宗教や宗派の違いが原因となって、民族的対立や戦争が、世界の各地で起きています。このレバノンにおける戦争の場合も、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教が入り交じった宗教戦争であります「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語であります。宗教戦争の犠牲と悲劇は常に一般の人々であります。とりわけ女性や老人・子供たちの非力な人達の犠牲は痛ましいものであります。

イラン・イラクの争いや北アイルランドの内戦にしても、キプロスの争いにしても、その本質的原因は宗教宗派の違いにあります。人類は、宗教や神仏の名において、如何に多くの対立や殺し合いを続けてきた事でしょうか。

助け合うべき宗教や信仰が争いと対立の原因になっている事を反省し、人類生存の為にこれを止めなければなりません。その為には「生命の大親」の大自然の親理を悟らなければならないのであります。

「生命の大親」の親御存在・御親愛・御親意を悟る事により、地球が素晴らしい親惑星となる事が出来るよう、生きなければなりません。                                                                                                                                                                 



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# by shizennori1 | 2017-07-28 16:20 | 31.より良く生きること②
2017年 07月 27日

30.より良く生きること①

より良く生きること、これは全ての生物が望んでいる生命的な欲求であります。大自然の「生命の大親」は、全ての生物に生命を与えて活かして下さっています。生きとし活ける全てのものがより良く生きようとすることには、宗教宗派も人種差別も、国の違いもないのであります。より良く生きようとすることには人間、動物、植物の差別すら無いのであります。

より良く生きる為に「生命あるものが互いに助け合うこと」は、生命への愛であります。その本質は「生きることの大切さと素晴らしさ」であり宗教宗派ではありません。即ち「生命の尊厳性そのもの」であります。

後世の人々は「生命の尊厳性であります愛や慈悲の精神」を悟れずに宗教宗派を作り、宗教的行事をきらびやかに行う事が神仏にかなった事だと錯覚してしまっている。そして宗教宗派の違いによって人間同士が対立し、争っている。助け合う筈の宗教が原因で、殺し合いにまで発展しています。これが現代の人類の姿であります。

「生きること」には宗教宗派はありません「生きること自体」は宗教宗派の問題ではないのであります。

自然の大生命力によってのみ、全ての生物は、この地球に生命を与えられ活かされ生きているのです。この地球における四十億年にわたる生物進化と生存の歴史は、実に大自然の偉大なる大生命の力と働きによってのみ行われてきたのであります。だから、大自然の大生命こそ全ての「生命の大親」なのであります

大親であります大生命こそ大自然の本質であり、神仏の本質なのであります。つまり、生きていくのに絶対になくてはならない存在が神仏の本質であります。即ち、生きるもの総てにとっていつでも何処でも絶対に必要不可欠なる存在が親の本質なのであります。

親の本質とは「生命の大親」であります「生命の大親」とは、大自然の全ての大親であります大生命の意味であります。大自然の「生命の大親」の意味であります。

現代人が誰でもすべき第一のことは、先ず、生命の尊厳性に目覚めて「生きること」を大切にする事であります。「生きること」の大切さは人も自分も変わらないのであります「生きること」を大切にする、生命の尊厳性とは「他が生きることを助けること」なのであります。

生命あるすべては「生命の大親」の生命的兄弟・姉妹なのであります

「生命の大親」の生命の子、親の子なのであります。互いの生命性に目覚めることこそ、親性の開発なのであります。

だから「生命の大親」より生命を頂いた生命の子同士が「より良く生きる」ために「互いに助け合うこと」「生きること」を大切にすることになるのであります。


「循環の理法」とは、己の蒔いた種が必ず種どおりに生えて循環してくる事であります。この世の全ては「循環の理法」によって成り立っています。全てが循環しているのであります

だから、「他の生きること」に役に立ってこそ「自分の生きること」もより良くなるのであります「他の生きること」には役に立たないで、自分だけがより良く生きようとして如何に神仏に願ったとしても、己だけの我欲を満たしてくれる神仏などはいません。如何に金銀宝石で飾り立てゝ立派な仏像や神社・仏閣を作ったとしても、他の生命あるものを助けずにいたのでは、生命の尊厳性も何もありはしません

「他が生きること」にプラスの行いをせずに、自分の運命環境だけが良くなって欲しいと願っても、それを叶えてくれる神仏は実際にいません。何故なら、神の本質は「生命の大親」以外には存在し得ないからであります。

他の生命を救ってこそ、自分の生命も救われます。他がより良く生きることに役立ってこそ、自分もより良く生きられるのであります。これが「循環の理法」なのであります「循環の理法」とは、大自然の親理法則(真理法則)であり、摂理なのであります。


この絶対なる大自然の掟・法則に背いて、より良き自分の生存はあり得ません。

人間が如何に立派な神仏を金銀で作ろうとも、それは単なる人間の作品であり、神仏と思う人間の思い込みに過ぎません。第一、人間が『神仏を作る』などとは人間の驕り高ぶりであり、出来る事ではない筈であります。それは「生命の大親」への冒瀆であります。

神仏は己の体を仏像や偶像として人間に作ってもらわねばならぬほど無能な存在なのでしょうか?

神仏は、己が居る処を神社・仏閣として人間に作ってもらわねばならぬほど落ちぶれた存在だろうか?

人は神仏を作れる筈はないし、人を神仏として祭る事も間違いであります。

人間を含め、全生物を活かしている絶対の親は「生命の大親」御自親以外には、絶対にあり得ない。つまり、大自然の大生命のお力・お働き以外にはありえません。

「生命の大親」は、全生物をより良く活かそうとしている大自然の力と働きなのであります。だから、互いにより良く生きる為に、互いに助け合うことが大切なのであります。これは大自然の「生命の大親」の絶対の掟(真理法則)なのであります。これをとも言います。

実質的に他の生命を救う事が、実質的に自分の生存の価値を高める結果になります。実際に地球で苦しんでいる人達に、米一粒でも、パン一切れでも、水一杯でも、毛布一枚でも援助すること、このことが互いの生存をより良くすることであります。だから、実際に「徳積おつなぎ」をしなければならない必要性はここにあるのであります

立派な神社・仏閣を何百億円というお金をかけて作らなくてもよいのであります。それより実際に苦しんでいる人達の生きることを少しでも助けるべきなのであります。莫大なお金をかけ、盛大な宗教行事を行っていることではありません。

金を持って仏像・神社仏閣などの物を作るのと、金を持って苦しんでいる人や他の生物の生命を助けるのと、どちらが大切で理に叶った行いであるのかを人類、特に宗教人たちは考えるべきではないのでしょうか?

宗教宗派が大切か、生命が大切かを良く判断すべきであります。宗教宗派の信仰を行っている総ての人々は、自分がより良く生きるための幸せを願っているはずであります。自分の不幸を願って信仰する者は誰もいません。

しかし、自分の幸せを本当に願うのなら、宗教に入って人間の作った神仏を拝み、お経を唱えるよりも、他の生命を救うことを実質的にすべきであります

この事の方が「生命の大親」の親理に叶った行いであります。人間の作った神仏や宗教は、全生物に生命を与える事も、活かす事もしてくれません。実質的には何も出来ないからであります。

生命ある全ての生物を、より良く活かそうとしておられるのは「生命の大親」だけであります。だから、他をより良く活かそうとする努力は「生命の大親」の大自然の理に叶ったことなのであります。

他が生きる事にプラスを与えたものに「生命の大親」はプラスの運命と環境をお与えくださいます。つまり「循環の理法」であります。他にプラスの種を蒔くものが、自らもプラスの収穫を得る、これが「循環の理法」なのであります。

「他がより良く生きる為の種を蒔かずして自分の生きることだけがより良くなる」という事は絶対に無いのであります。

「生命の大親」の大自然の親理(真理法則)をよく悟り「徳積おつなぎの理」の種を十分に蒔いて他の生命を救い、他の生命と共に自分もより良く生きて行く事は、誰にとっても大切なことであり、是非ともしなければならない事なのであります。

生命あるものが、助け合わなければ,二十一世紀の地球の人類の未来は無いのであります。


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# by shizennori1 | 2017-07-27 18:26 | 30.より良く生きること①
2017年 07月 26日

29.真生命霊財産(徳)

この大自然界に生存させて頂いて、どのように生きれば良いか求めてきました。この世界は、人間が造った世界ではありません。この様な生き方を生命の大親に教えて頂きました。自分の力では悟ることは絶対出来ません。何一つ自分ではできません。全部、全てして頂いております。この様な事が全然分からないでおりました。

人間の力で、海、山、川を造ることはできません。どこかの建設業者が造れるでしょうか。造れるわけはありません。この世界は、人間を越えた自然の創造主が造り出したのであります。到底、考えも及びません。全て生きとし生きるものをより良く活かそうとしています。この創造主である
生命の大親は、私達生きとし生きるものに生命を与えて下さっています。それぞれの生命は、より良く生きるために生命霊財産という徳という眼に見えない運命貯金を持っています。

問題は、この運命財産である徳を増やして生きているか、もしくは徳と言う運命貯金を減らして生きているかということです。とにかく、どちらかで生きております。生命霊財産=運命貯金=徳ということになります生命の大親は、一人一人に、その徳を持たせてあります。そのことに気が付いて、皆の為に生きるということが、徳を増やす生き方であります。しかし人類は、この事がわかっていません。


マイナスの種を蒔いてプラスの収穫にはなりません。

マイナスの種を蒔いたらマイナスの結果しか出ません。誰がやろうとも、何時やろうとも、どこでやろうとも、必ずその様になることに決定しています。


生命の大親は、一番皆の為に役にたって居られます。親は、生命の子が、より良く生きて、助け合って生きることを望んでおられます。しかし、人類は、親の気持ちがわかっておりません。ちょうど人間社会でも、親の心子知らずといいますが全く同じで生命の大親心人間知らずということになります。

親が子供を思うように、一人一人が、他の為に役にたつ生き方をすれば、より良く生きていくことができるのに、自己中心で生きております。自己中心で生きると悩むことになってしまいます。何故なら、悩みの本質は、自分の事を考えているからであります他のことを思いやると悩みはありません。そこに自分が無いからであります

生命の大親が全ての為にしていて下さっておられます。私達が皆の為にと行っているとその行いが、体を使ってやろうとも、お金を使ってやろうとも、言葉を使ってやろうとも、全て徳と言運命貯金になることになります。そうすると生命の大親に受け取ってもらうことになります。受け取って頂ければその様な現象が起きてまいります。何故なら生命の大親が親創造して下さった親の世界であるからです。

現在の地球人は、この徳を減らすことばかりしています。それなのに幸せに暮らそうとしています。しかし、マイナスをしていてプラスになることはありません。他の役にたつことをしていません。地球温暖化、大気汚染、土壌汚染、地下核実験など例を挙げれば沢山あります。このような徳減らしをしていて良くなるはずはありません。誰かが他の為の生き方に気が付いて行って行かなければなりません。

運命財産である徳という運命貯金がありますと、この世界の通行手形の様なもので、より良く生きて活けるのであります。

問題があったときには、「生命の大親に願って徳積をして、事にあたれば、必ずその様な現象が起きてまいります。現象が起きると益々生命の大親に願い、益々徳を積んでいきます。
しかし徳の無いものは、事が起きると、益々徳を減らしていく生き方をしてしまいます。
日頃より他の為の徳を積んで
生命の大親に願って生きていくべきであります


地球に住んでいる人達が、理に沿った生き方が出来ないのは「徳」という生命の財産の事が判っていないからであります。

「徳」とは生命の大親が認めて下さった生命霊財産であります。「おつなぎ徳積の理」とは、毎日毎日、日々をつないでいますから「おつなぎ」という「徳積」ということになります。

おつなぎ徳積の理は、真生命霊財産の蓄積した「理」であります。
「理」とは、「生命の大親が、お造り下さった、この世をより良く生きていく為の原則・法則・筋道・掟であります。


Ⅰ. 真生命霊財産とは、自己の本質である生命そのものの財産であります。

親生命霊財産=「徳」は、生命そのものに備わっている財産=「徳」でありますから、自分の生命が生命活動を行う場合、より良く生きる為に生命力として働く自分自身の生命の力と働きであります。

「徳」という生命霊財産が無くなると、この物質界をはじめ、命霊界・生命界においてもより良く生きることはできなくなります。

「生存するということは生命活動の姿であります」から「徳」というものが無くなると、より良い生命活動、つまりより良い生存が出来なくなります。

現代の地球人は科学知識の発達によって物質的に豊かになりましたが「徳」が無い為により良く生きる事が出来ていません。「徳が無いと争いや戦争などに無駄なお金やエネルギーをかけて殺しあう為の戦争兵器を作っています。国家予算を赤字にしてまでも軍隊をもち軍事兵器開発競争をしています。また、経済摩擦などの経済競争を世界中で行い、金の変動相場制や株式の売買によってマネーゲームを行い、無駄なエネルギーと資源を消費して生きています。

この地球上で、現在、人類がお互いに殺しあう為の軍隊や戦争兵器を持ち、爆弾テロを行い、更に人間が勝手に作った金を奪い合うための経済戦争を行うようなマイナスの生命活動をして、何か価値があるでしょうか。

国民の為の福祉予算を削り、人間同士の殺し合いの軍事費は何兆円も使って、それで幸せに生きることが出来るでしょうか。

マイナスの種を蒔いてプラスの結果は出てまいりません。どうしてこのようなことが判らないのでしょうか。 それは、たった一つ「徳」という親生命霊財産が無いからであります。

昔のことでいうのなら、こちらは刀を研いで、向こうは薙刀を研いでいて、お互いに仲良くしましょうといっているようなものです。仲良くしたいのならお互いの武器はなくして、助け合う為の予算として使うべきだと思います。このようなことが、全然判っていません。

もし、「徳」という親生命霊財産が人類にあれば、お互いに助け合うための生命活動を行い、より良く生きていく事ができる筈であります。

Ⅱ. 「徳」とは、「生命の大親が生命の御子たちの生命そのものにつけて下さっている生命霊財産であります

金は、本来人間がより良く生きる為に便宜上作った人間の財産であります。

生命の大親が認めた生命の真生命霊財産は「徳」であり、生存の本質的価値であり、人間が認めた金は、人間が認めている時にだけ通用する物質的・表面的・刹那的価値であります。これは、この世にのみ通用する価値であります。

Ⅲ. 「徳」であります真生命霊財産は、永遠普遍なる価値であり、生命界(生命そのものの世界) 、命霊界(自分の心、意識の世界)、物質界(形ある世界)の全てに通用いたします。

真生命霊財産はより良く生きる為の全てに通用する価値であります。運命・環境を良くする為にも、あらゆる人間関係を良くする為にも、人や物との関係を良くする為にも、才能や能力の開発発展の為にも、よりプラスの観念や感情を保って生きる為にも、誰にとっても絶対的な必要不可欠の生命の真生命霊財産であります。

より良い運命・環境は人間のお金で買うことは出来ません。お金があってもマイナスの生き方や不幸な生き方を人間はしています。お金は全てに通用する生命の財産では無いからであります。

お金は生命の大親が認めて下さった生命の財産では無いからであります

運命・環境は生命の大親が、それぞれの生命の御子らにお与え下さるものであります。

「徳」がないとマイナスの人生や生存となります。生命活動の全てに通用するもの、それが「徳」という真生命霊財産である事をどうしても悟らなければなりません

「徳」という真生命霊財産は何時・何処でも何にでも通用する生命の大親の親生命霊財産であることから、今生だけではなく来世にも来来世にも通用することになります

「徳」という真生命霊財産を選ぶかそれとも現世的な金を選ぶかは各人の悟り次第であります。

Ⅳ. 「おつなぎ徳積の理は「生命の大親に対して行うべきものであります。何故なら、「生命の大親御自親だけが生命の御子らの生命に生命霊財産であります「徳」をつけて下さるからであります。


如何なる宗教・宗派の神仏でも、生命の財産として「徳」を増やすことは絶対に出来ません。何故なら生命には、宗教・宗派はありません。生命は誰にでも共通普遍のものであるからであります。

物質界の生存の目的はおつなぎ徳積のを行うことにあります


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# by shizennori1 | 2017-07-26 14:09 | 29.真生命霊財産(徳)
2017年 07月 22日

28.「大自然界」の生き方

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「大自然界」
の生き方は、今までに無い全く新しい人類の生き方であります。ですから新しい考え方を身につける為には、先ず素直に理解して見る事が大切であります。理解した上で実生活に役立てゝ見る事が大事であります。自分の人生や実生活の役に立ってこそ、新しい教えや考え方は価値があるのであります。その為には今までの観念や感覚はそのままにして素直に新しい考え方を吸収して見る事が必要であります。

Ⅰ)より良く生きる為の欲求の段階

誰でもより良く生きていこうとしております。より良く生きていこうとするのは生命あるものゝ本質的欲求であります。ではより良く生きるという事は、どの様に生きて行く事でしょうか? より良いとは何にとって良いのでしょうか? 物質的・経済的にだけ恵まれていれば生きる価値があるのでしょうか?                                                その為に先ず「欲求の段階」を表して見ます。上記が欲求の段階ですが、どの段階を満たせばより良く生きる事になるのでしょうか? 

Ⅱ)自己の本質

自分自身の本質は肉体ではありません。肉体は時々刻々と変化していくものであります。赤ちゃんとしてこの世、物質界に肉体的誕生をして以来、今日まで変化し続けているのが肉体であります。やがて肉体は母なる大地へと還元されるのであります。

肉体は母なる大地の土より出でしものです。ですから、必ず土へ帰るのであります。 (塵なれば塵に帰る)の諺どおりです。                             肉体や物質は死んであの世へもっていけません。
物質界を越えた生命界・命霊界へ行くのは、肉体ではなくて、自己の本質である自己の生命・霊魂なのです。

生命や霊魂こそ自己の本質なのであります。

自分の生命力が自分自身の霊的観念を作っていきます。生命の力と働きが霊的観念波動を作り、その霊的観念波動が綜合して自己の霊魂を形成しているのであります。

ですから最終的に自己の本質とは、生命そのものであります。自己の本質とは生命そのものであります。

Ⅲ)生きる事の意味(生存の本質と次元)生命活動と霊的生存・肉体的生存

生きると言う事は、どういう事でしょうか? 生きるとは自己の生命が活動している姿であります。生命が活動しなくなったら一般には肉体的に死んだと言います。

ですから「生存とは生命活動の姿なりと言えるのであります。

※ 肉体的生存

自己の生命が肉体をもって生命活動を行っている場合を肉体的生存と言います。つまり肉体的に生きている事を意味します。生命活動とは、生命の力と働きをもって自己形成を行うことであります。

麦は麦の生命力をもって麦としての植物の体を作ります。魚は魚の生命力をもって魚の体を作ります。牛は牛の生命力をもって牛の肉体を作ります。この様に生命活動とは自己形成なのであります。

換言すれば、肉体的生存とは肉体を作っていく為の生命活動なのであります。これが物質界で肉体的に生きるという意味です。

※ 霊的生存

霊的生存とは、生命が自己の霊的観念を作っていく事であります。自分の性質や観念・感情などを形成して行く事です肉体的生存の体験・経験を通して全ての生命は自己の霊的観念=霊魂を作っていくのです。霊的生存とは肉体的に生きる事を意味しておりません。生命が霊的観念を作る事ですから、生命は肉体的生存を行なっていると同時に霊的生存をもしているのです。 

肉体を土に返して肉体の生命活動を止める事を肉体的死と言います。しかし生命は霊的生命活動を続けます。肉体的死によって命霊界(霊界のこと)に帰るという事は、旅行から家に帰ったと同じことであります。家に帰れば旅行の思い出話をしたり、旅行で撮ってきた写真を整理したり、旅行の思い出を味わいます。命霊界も同じことです。

肉体的誕生とは、自己の霊魂が命霊界から物質界に旅行に出発して来たことなのです。肉体的死とは自己の霊魂が命霊界に帰ることであります。 命霊界に帰ってから霊魂は肉体的生存によって色々収穫した霊的観念を味わい、又次の肉体的旅行に備えて思い出を整理したり致します。命霊界におけるこの様な生命活動を霊的生存というのであります

霊的生存によって自己の本質であります生命は自分の霊的形成を行います。

つまり霊的成長発展をおこなうのであります。生命は常に自己形成の仕事をするのですから肉体的生存の場合も、霊的生存の場合も同じことなのであります。

生命は霊的生存をすることによって自己の霊的観念を広げ、霊魂の成長発展を行うのであります。 ですから、肉体的生死にかかわらず生命は霊的生存を常に行っているのであります。

※ 生命的生存

生命が生命活動を行っている事を生命的生存と言います。しかし、生命は本質的に能動的意志の力と働きですから、生命は常に生命活動を行っております。生命活動自体が生命的生存です。

生命的生存とは、霊的生存肉体的生存の生命活動を行うことを意味します。

生命は本来、常に能動変化する力と働きであり、永遠普遍なる存在であります。

ですから自己の本質であります生命は永遠普遍なのであります。

つまり、自己は本質的に永遠普遍なる存在である、ということです。

Ⅳ)生きる為の価値

より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのであります

より良く生きるという事は、自己の生命・霊魂の成長発展に役に立つ人生を送る事であります。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・霊魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのであります。

今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・霊魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのであります

生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があるのであります。

生きる為の価値

より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのであります

第一段階の肉体的価値というのは、表にあるように、物質的価値であります。いわゆる動物的な本能を満たす為だけの欲求であり価値であります。物質的な段階ですので、物中心の生き方です。

第二段階の社会的価値というのは、この世的な価値を求める段階であります。例えば、魚を収穫したとします。しかし魚を沢山もっていたとしたら、そのままでは腐ってしまいます。だから第二段階の通用範囲の広いお金に変えていきます。お金をもっていても、それでは幸せかというと、必ずしもそうではありません。

第三段階の精神的価値といいますのは、こんどは、お金という段階を、もっと通用範囲の広い信用とか、運命とか、環境などに変える事のできる霊的価値の段階であります。

第四段階の生命的価値と言う事になりますと、永遠普遍なる価値であり、全てに通用するところの価値であります。つまり、与えて与えての、他の為の生き方になり、決して、してもらう段階の価値ではありません。要するに、徳と悟りの親生命霊財産の段階であります。

より良く生きるという事は、自己の生命・霊魂の成長発展に役に立つ人生を送る事であります。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・霊魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのであります。

今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・霊魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのであります。

生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があるのであります。


その為には、どうしても親生命霊財産であります徳と悟りを高める生き方をしなければなりません。




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# by shizennori1 | 2017-07-22 16:36 | 28.「大自然界」の生き方
2017年 06月 24日

27.生命的役割

私達を活かして下さっています「生命の大親」がお与え下さっています生命あるものの全ては、気付こうと、気付かざるとに関わらず、全て生命的役割を与えられています。


生命的役割
とは、生命的次元における役割であります。即ち、自分の生命が果たさなければならない生命の役割であります。この物質界における肉体的生命活動を通して、全ての生物は自己の生命的役割を果たすことが最も大切であります

生命とは本来、能動的力と働きがある存在であります。従って、常に何らかの仕事を行っています。生命とは生命力・生命エネルギーのことであります。

この世における肉体的生存とは、自己の生命の役割機能を果たす為の生命活動であります。

そして、生命活動をして作り上げた自分の体であります魚、肉、野菜、果物なども他の為の生命の役割機能を果たしております。

例えば、秋刀魚、イワシなども大きな魚に食べられて、肉、野菜、果物なども人間に食べられて生命の役割機能を果たしております。

他の生命は、皆食物連鎖の理によって、体を呈して役にたって、徳積を行っています。本当に誠で行っております。ニワトリはフライドチキンになり、卵は食べられて純粋に、人間のお役に立って生命活動を行っているのに、人間は何を考えて殺戮を繰り返したり、戦争兵器を造り、殺し合い、宗教争いをし、怨み、つらみで生きているのでしょうか。どうして「生命の大親」の御親意(みこころ)が判らないのでしょうか。これで果たして、自分達だけが幸せに暮らすことが出来ると思っているのでしょうか。どうして、他の為の役に立つ素晴らしい生き方をしようと思わないのでしょうか


この様に「生命の大親」は、生命が生命を支えあう、助け合いの親世界を親創造して下さっておられます。その事を人間は、弱肉強食と間違った考え方をしています。これでは、他の生物に対しての感謝は生まれません。

生命が生命を支えあう、生命に対する感謝が、大変大事であります

私達を活かして下さっています「生命の大親」御自親は、親生命活動を全ての生命の御子らの為になさっておられます。

「生命の大親」の親生命活動とは、大自然界(生命界・命霊界・物質界)の全ての現象・事柄を行っていてくださる役割機能であります。

「生命の大親」御自親が大親としての役割機能を全ての生命の御子に対して行っていて下さるが故に「親子の原理」により、派生的部分であります全ての生命の御子らも、それぞれの自己の生命的役割を果たさなければなりません。

「生命の大親」が行っていて下さる生命的役割役割といいます。

「生命の大親」の親生命活動のお役に立つ為の生命活動を行う場合は、特に真役割といいます。

私達が、自己の生命的役割機能を果たさない場合は、自己の本質であります「徳」という親生命霊財産を失うことになります。物質界の肉体的生存の目的・意味は「徳」という親生命霊財産を増やして行くためであります


「役割機能の原則」
とは、全ての存在価値は自己の内部に向かって役割機能があるのではなく、他に役立つ為に存在しているという事であります

他に役立つという役割機能を失った場合、自己の存在価値は失われて、後は自然淘汰されて消滅するだけであります。これが「自然淘汰の原則」であります。


更に、自己の生命的役割・真役割を果たす為には、能動的意志をもって、積極的に「おつなぎ徳積みの理」を行う事であります。

「徳」とは、言葉を使い、お金を使い、体を使い、「徳」という運命貯金を増やし、この素晴らしい世界(生命界・命霊界・物質現象界)を生きていく事の出来る各々の生命そのものにつけて下さっている親生命霊財産の事であります。

この様に、親生命霊財産をうんと増やして、自己の生命的役割・真役割を果たさなければなりません

最終的には「生命の大親の親生命活動のお役に立つ為の生命活動を行う生命的真役割を果たすまでにならなくてはなりません。


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# by shizennori1 | 2017-06-24 14:55 | 27.生命的役割
2017年 06月 24日

26.生命の役割と機能

私達をこの世に活かして下さっておられます「生命の大親は、御自親の「大生命力」の全てをかけて親の子の全ての親育成に使っておられるのであります。即ち、生きとし活けるあらゆる動物・植物の全てのものに「親の子」として生命を与え、生命的・霊的・肉体的により良く活かそうとして親育成をしていて下さっているのであります。

生命的生存とは、生命が「生命の本質」であります自己自身の力と働き〔エネルギー〕をもって生命活動を行う事を意味しているのであります

現代の人類は、エネルギーが不生・不滅〔生まれもしない死にもしない〕ものであり、永遠普遍に存在するものであることを「エネルギー保存の法則」として、物理の科学的知識で学んで判っています。

「エネルギー保存の法則」とは、生命の本質を物質的側面から、科学的知識として把握したものです。即ち、生命自体が生命活動を行っているからこそ、物質界における生命活動の姿を観て、「エネルギー保存の法則」として人類は知識的に捉える事が出来たのであります。


生命とは、能動的な力と働きなのであります。自ら何かを行い続けていく力と働き〔エネルギー〕であります。常に何かをしていく力と働きそのもの〔エネルギー〕が、生命の本質です。


「生命の大親」は御自親の「大生命力」の全てを使って「生命界(生命そのものの世界)・命霊界(きもち・意識の世界)・物質界(形ある世界)」の全ての営みをなされております。そして生命の御子らの親育成の為に、全ての「大生命力」を使って下さっておられます。


霊的生存
とは霊的観念(その人の持っている意識)の親成長発展の為の生命活動であります。生命は常に生命活動を何らかの形でおこなっております。自己の霊的観念(その人の持っている意識)を、生命の本質にそって親成長発展させるために行う生命活動が霊的生存であります


霊的生存
は、物質現象界での肉体的生存によってプラスにも、マイナスにも決まります


肉体的生存
とは、色々な人生体験・経験をして霊的観念(その人の持っている意識)を収穫する為にあるのです。即ち、肉体をもって実際に体験・経験した実感こそ、自己の(その人の持っている意識)霊的観念
の収穫となります


この世での生き方が生命の本質に逆らい、物質界の刹那的・部分的な感情や我欲に囚われたなら、せっかく生きたこの世の一生は、マイナスの霊的観念(その人の持っている意識)の収穫となります。やがて霊界に帰ったなら、マイナスの霊的生存をおこなう結果となるのであります

自己のこの世での生命力を何にどう使うべきか? この事を「生命の本質」に沿って真剣に考え、実行しなければなりません

自己の生命の役割機能をしっかりと悟らなければなりません。


「生命の大親」御自親が行っておられる如く、全ての生命ある親の子は、他の全ての生命霊魂の親成長発展に役立つ肉体的生存をおこなう事が最終的絶対なる掟であります。これが「生命の役割・機能」です

「生命の大親」にお受け取り頂くよう徳積みを行い、他の全ての生命にプラスする事が、自己の生命の役割機能なのであります


生命財産である徳積を行う事が「生命の役割・機能」であります。この事により自己の生命や霊魂の親成長発展を始め、全ての生命の御子らの生命・霊魂の親成長発展になります。


しっかりと「生命の役割・機能」を悟って価値ある一生の生命活動を行うべきであります


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# by shizennori1 | 2017-06-24 14:21 | 26.生命の役割と機能
2017年 05月 17日

25.親心と子心

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問題は意識の問題であります。意識が親心であるか、子心であるかであります。

よりプラスの方へ上昇するか、よりマイナスの方へ下降するかであります。

助けてくれ、助けてくれと言えば言うほど助からなくなってしまいます。1回助けてくれと言った人と5回助けてくれと言った人と比較すると、当然5回言った人ほど助からないのであります。
要するに一つマイナスをすれば一つのマイナス現象が起きます。五つのマイナスは五つのマイナス現象を起こします。この様にバランスをとられることになるのであります。


全て自然界はバランスの法則によって成り立っております。だから真実の生き方をしなければならないのであります。

親心は常に
徳を増やす生き方になります。親の意識で考えてみますと問題が生じたときに必ず他を助ける立場をとることになります。

親心のある者は常に他に対して何かしてあげよう、してあげようと言う意識をもっています。
このような意識を持つと、自分の持っている意識が段々高くなり自己拡大につながっていきます。
つまり、親心が広いものになっていきます。そうすると精神的に安堵感が増してきます。


この他に対して行うプラスの生き方は、自分の持っている意識が段々高くなって、自分の観念がプラスの親心を持った、徳の器の大きな貯金の生き方となっていきます。

これに反して不徳の者は、常に愚痴、不足、不満不徳の生き方をしてしまっています。
常に他に対して何かしてもらいたい、してもらいたいと頼ることをしています。
子供が親に、駄々をこねてオモチャを買ってくれ買ってくれといっているようなものであります。


問題は自分の事だけに執着して、自己中心に陥っていることになります。こういう事にだけ、囚われていますと、段々ノイローゼがかってしまいます。そして徳(運命貯金)が減ってしまいます。いわゆる生き方の本質を見失っています。これが自己縮小となっていきます。
その結果自分の存在感が失われてしまう結果となります。そういう徳の無い生き方に陥ってしまいます。

これが借金を作る生き方になります。何をやってもうまくいかないで苦しんでいる境遇であります。
そうすると子心に増々なっていきます。

しかし、どこの境遇にいても、必ず脱することが出来ます。

問題は意識の問題であります。必ず解決するのだと言う強い意志をもって取り組めばそのようになります。自動車を動かすとき、最初は大きな力が必要です。走り出したら大きな力は必要ありません

西郷南洲翁遺訓の中で「生命もいらず名もいらず官位も金もいらぬという人は始末に困るものなり そういう人ならでは艱難をともにして国家の大業はなしえぬものなりと言っています。

だから、自分(自己中心の気持ち)があって行動をすることはよろしくないといっているのであります。
それは政治家だけにいえることではないのであります。

そういうことで生き方が親心でなければならないのであります。

このことから
他の為にと言う気持ちで行う事でなければなりません。

プラスの喜びの収穫とするか、マイナス苦しみの執着とするかであります

要するに、こういうことを認識してくると、この世は
徳積し放題の世界であることになります




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# by shizennori1 | 2017-05-17 19:08 | 25.親心と子心
2017年 05月 09日

24.霊的観念・命霊観念

私達は、生命の祝福を頂いて、親の造られた世界であります親物質界(形ある世界)に生まれさせて頂きました。誰によって生まれさせて頂いたかと言いますと生命の大親によって、特定の両親のもとへ誕生させて頂きました。

そして、この人生旅行をしております。旅行には出発と終わりがあります。では何の為の旅行でしょうか。旅行は、その素晴らしさを味わい収穫する為であります。


それに「生命の大親は無目的に生まれさせるはずはありません。親は、生きる素晴らしさを収穫させる事と共に、親の意識へ成長することを望んでおられます。


それを人間は、マイナスの苦しみの収穫しかしておりません。問題があれば、苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、因縁があるからだとか、おもしろくないだとか、つらいだとか、くるしみだとかいい、決して素晴らしいとは言いません

それに、言葉もマイナスの言葉を使っています。因果応報だとか、自業自得だとか、残念だとか、予期せぬ出来事とか、風上にも置けないとか、必ずマイナスを帯びています。

更にストレスといいますが、その反対語はありません。素晴らしい気持ちが、たまってどうしょうもないという言葉はありません。全てマイナスの表現です。

自業自得とは、プラスの言葉なのにマイナスに使っています。もし使うのなら自業自損と表現すれば良いと思いますがその様な使い方がありませんし、辞書にも載っていません。

残念という言葉も、本来は、思いを残すという言葉であるはずなのに、悪い時にしか使いません。何かおいしいものを食べて家に帰ってきたとします。家に帰ってきてからあれはおいしかったな、残念だったなと使っても良いはずなのに、そのようには使いません。

予期せぬ出来事といっても、必ずマイナスの出来事を予想します。予期せぬ出来事といったら、何か素晴らしいことかなという思いはありません。この様に何をとっても皆、マイナスの気持ちの固まりでありま霊的観念(命霊観念)になっています。

このような意識で幸せに生きようと思っても無理であります。意識、つまり霊的観念(命霊観念がマイナスになってしまっています。

どうしてもプラスの意識でありますプラスの観念を持たなければ、幸せには通れません。問題があった時こそ、プラスの気持ちで通らなければなりません

しかし今日、色々な問題が起きた時に、どうしても自分の持っているマイナスの気持ちであります霊的観念(命霊観念)が出てきます

このようなマイナスの気持ちを収穫すると、それが自分自身の気持ちの固まりである精神、御霊、性格となっていきます。このことを霊的観念(命霊観念)といいます其の人だからその様な気持ちをもつということであります。

どうしても問題があった時にプラスの意識で通れる事が出来ますように、日頃からプラスの意識作りが大事であります。それには生命の大親に願って徳積を行い、徳を増やして通るべきであります

そうして、プラスの意識の収穫をして、その様な気持ちの固まりである霊的観念(命霊観念)を作り上げるべきであります。

そうするといつの間にか、そこを通れるようにして下さいます。つまり、いい事をすれば、その様に通れます。これが悟りであります

要するにプラスの意識で通るのか、それともマイナスの意識で通るのか、それが問題であり、その様に通れる徳と悟りが大変大事なことになります


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# by shizennori1 | 2017-05-09 15:58 | 24.霊的観念・命霊観念
2017年 05月 09日

23.「悟り」と「苦しみ」

ムンクの叫び

物事の良い面を観てプラスに考えるのと、悪い面を観てマイナスに考えるのとでは、全く正反対の結果が、自分の気持ちや行動に現れてくるものです。

たとえ同じ相手の人であっても、その人の良い面を観るか悪い面を観るかでは、人間関係が全く違ったものになってきます。

嫁姑の仲が悪い場合、それは当人同士の仲が悪いのであって夫婦仲が悪いのだという事ではありません。むしろ夫婦仲は良いのかも知れません。嫁の立場になれば、自分の実の親や兄弟、友人知人達とは良い人間関係を保っており、姑以外の他の人達からは好感を持って見られているのかも知れません。

この事は姑の場合にも当てはまります。姑は自分の実の娘や息子達にとっては良き母親であり、孫達にとってはやさしいおばあちゃんであり、お茶のみ友達である親友達や知人からは良い人として見られているのかも知れません。

お互いに嫁・姑としての仲だけが悪いのであって、他の人達との仲が悪いのではないのです。同じ人間に対しても、その人と見る立場が異なると違ってくるのです。この事は親子、夫婦などあらゆる人間関係にあてはまります。

物事をプラスに考えるのか、マイナスに考えるかという事は自分自身の気持ちに大きく影響してきます。自分の気持(感情)は自分自身に大きく影響してきます。と言うよりはむしろ、自分の気持こそ自分自身であり、他人がどう考え感じていようと、それはあくまで他人の気持であって、自分自身では無いのです。

自分自身とは、自分の気持(観念)そのものであるという事を良く理解しておく事が大切です。同じ事柄であってもプラスの気持を持つか、マイナスの気持を持つかは、自分自身にとって最も重大なことです

一般の人達ならば、きれいな夕焼けをながめて美しいと感じるのが普通のことです。しかし、近代表現派を確立したノルウェーの画家エドワルド・ムンクは、夕焼けの赤色を見て恐怖の「叫び」という題の有名な絵をかきました。

ムンクが5歳の時に、結核にかかっていた母親が血を吐いて死に、彼にとって日没の光景は母親の喀血を感じさせるものでした。その時の夕日に染まった雲の印象をムンクは“凝固した血液”のようであったと 言いました。彼にとって赤色は、母親の命を奪った吐血の色であり、ムンクの潜在的観念の中には強くその印象が残っておりました。

ムンクは「叫び」と題するこの絵の中で、彼の持つ恐怖のイメージを無意識のうちに表現したのでした。従って彼は、赤を恐怖・苦しみ・不安を表す色として使いました。

恐怖と苦痛に満ちた過去のイメージにとらわれていたムンクは、自分の恐怖の気持(観念)を絵に表す事によって、自分自身の中にある不安や恐怖や苦悩と戦い続けてきたのですが、ついに45歳を過ぎてからは精神病が強まり、分裂病の状態が続き、晩年には現実の世界と、自分の観念(気持)の 世界である絵の世界とが入れ替わってしまい、自分の作品の中に埋もれて生涯を終わりました。ムンクは「肉体と精神の病は、ゆりかごを守る黒い天使であった。」と語っておりました。

「自己の観念の世界」

夕焼けという大自然の同一の事実を、ある人は美しいと実感し、他の人は恐怖を実感し、又ある人は人生のたそがれとわびしさを実感いたします。

私達の心はどの様にでも同一の事実を感じる事が出来るのであります。つまり、心というものは同一の事実をどの様にでも実感できる自由選択を持っているのであります

同一の事実を私達はどの様にでも感じる事が自由選択性によってできるのですが、しかし、自分がひとたび実感してしまうとそれが自分自身の気持という事になります。

心というものは、自分が実感している世界にのみ住んでいます。自分が感じている世界が自分の気持であり、自分の心が住んでいる自分の気持の世界を自己の観念の世界と言います。

自己の観念の世界とは、自分が認識し、判断し、実感している世界の事です。

夕焼けを美しいと感じたり、恐怖に感じたり、親子・夫婦・兄弟・嫁姑でお互いに素晴らしいと感じたり、逆に憎らしいと感じたりしている自分の気持ちの世界が「自己の観念の世界」なのであります。

相手の人を憎らしいと感じた場合、その憎しみは相手の人にあるのではなく、その様に認識・判断・実感している自分自身の心の世界にあるのであります。相手の気持がどうであれ、自分が憎しみを感じなければ、自分にとって憎しみの実感は無いのであります


悟りの世界とは、自分自身の観念の世界が喜びや味わいや感謝であふれた世界なのであります。自分自身の観念の世界に不足不満・苦しみ・憎しみなどのマイナスの感情が無い世界であります。


悟りとは、苦しみを喜びと感謝に変える力であり、悟りが無ければ自己の観念の世界は、何時までたっても素晴らしくならないのであります

凡そ人の行動というものは、全て自分の欲求を満たす為であり、欲求を満たす事によって喜びと味わいのプラスの実感を持つ為であります。

旅行に行って良かった。美味しいものを食べてよかった。一緒に暮らして良かった。今日一日生きて良かった。この世に生まれて良かったという生存の喜びと味わいの実感を持つ為に、生存の全ての行為はあるのであります。

良かったというプラスの実感を得んが為に全ての努力も行動もあるのであります

もし、旅行に行ってつまらなかったら、高いお金を出して食べたものがまずかったなら、一緒に暮らしている相手がいやだったなら、今日一日生きる事が苦しみだったなら、それはこの世に生まれて生きる「生きがい」が無いのであります。

更に生きる事で、眼が見える事、耳が聞こえる事、口がきける事は、大変な喜びと感謝であるはずであります。もしも、失明したり、聴力を失ったり、声が全く出なくなったりしたなら、誰でも死ぬほど苦しみ、悩む事になるのであります。

だから、見えて聞こえて話せる事は、最大の喜びと感謝であります。

無くなれば最大に苦しむのですから、有る事に最大の喜びと感謝を持つ事が悟りのコツであります。

凡そ悟りというのは、一般の人々が見落としたり、或いは当たり前であると思っている現実の事柄の中に、生きる最大の喜びと感謝を見い出し、自己の観念の世界をプラスの実感で満たす事なのであります

見ざる聞かざる言わざる(話さざる)の三猿のたとえは、否定的に解釈されていますが、本来の意味は、見え聞こえ話せる事に対する積極的な喜びと感謝の悟りを教えているはずのものなのであります。見え聞こえ話せるからこそ、私達は生きている事の色々な喜びや味わいを体験できるのであって、見え聞こえ話しあう事ができなければ、たとえ、人生の如何なる事柄や問題があっても、生きる味わいとしての体験や経験は出来ないのであります。

映画や芝居やテレビ・ドラマを見聞きする場合、それが喜劇であれ、悲劇であれ、悲惨な戦争ものであれ、活劇・スリラー、お化け映画などの奇怪ものであれ、それぞれを生存の味わいとして楽しんで見ています。自分が直接体験できない人生の色々な味わいや感情を、映画やテレビによって経験し、生きているからこそ味わえる色々な感情を楽しんでいるのであります。

悟りがあれば、この地球という人生劇場に生まれてきて、自らが人生劇場の主演男優・主演女優として自分自身の人生劇を演じ、現実の人生体験を通して色々な感情の味わいを楽しむ事が出来るのであります

それは丁度、私達が映画やテレビ・ドラマを見て色々な感情を楽しむ様に、実生活における自らの生存の体験から得る種々な実感を生存の味わいあるものとして喜びと感謝をもって楽しむ事ができるのであります。

悟りとは、生きる事の味わいと価値を高める能力であり、悟りが無ければ、如何に物質や人間関係に恵まれていても、自らの観念の中に幸せの実感を持てずに一生涯を通ってしまうことになるのであります

物質的に豊かになっている現代人達に最も必要なものは、自らを不安やストレスから開放する悟りの力と働きということになります。


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# by shizennori1 | 2017-05-09 12:32 | 23.「悟り」と「苦しみ」
2017年 05月 03日

22.プラス善とマイナス悪

問題は考え方にあります。その様に考えた結果、どのような感情になるかであります。思考からーーーーー→その様な実感(感情)が出てきてーーーーー→そういった行動・行為になります。その場合善悪の価値基準は何かという事になります。

例えば、あの人は変な人だと考えている時に、その相手に出会ったとしますと、その時マイナスの感情になり、マイナスの顔つきになります。
画家であるムンクが、赤い色を見て恐怖を感じました。その実感を表現したら、その様な行動をしました。この場合は、マイナスを表現した世界であると言えます。この事から、実感をつねに表現しているという事になります。

         ムンクの「叫び」という絵

この親物質界では、何かを常に表現しています。マイナスを表現したら自分が苦しむのであります。自分自身がマイナスを感じたことにより苦しむのであります


例えば、商売はどうですかと尋ねますと、いやー大変ですよと、会社はどうですかと尋ねても、いやーうちの会社は大変ですよと、おたくの会社はいいでしょうと、何もその様に損して通る必要は無いのであります。お宅の奥さん素晴らしいですねというと、そんな風に見えますかとか、必ず否定的なマイナスを表現しております。

日本人は、本音と建前があります。マイナス思考をすると世の中それがいいとして解釈しています。
女性に貴方のご主人を褒めると、どう言うかといいますと、とんでもないという。普通はとんでもない相手と結婚するかと言いたくなります。

そうすると職場でプラスの方を言う人が何人ぐらいおりますかと言いたくなります。夫婦の褒め合い、プラス思考がなかなか出来ません。

季節の事でも暑いときは暑いと、寒い時は寒いといい現実が素晴らしいから、現実の素晴らしさを受け入れる事が大事であります。こういうのを思考といいます。


要するに、現実にある今日一日生きる現実の運命、環境を素晴らしく生きる事であります。

プラス思考というのは、理性的判断力であります理性的判断力がプラスであれば己自身に実感としてプラスの実感を持つことが出来るのであります。

行動が行いの種であります。行動は自己生存の表現であります。これは「実行実現の原則」で、行いの種となります。
そのように行えばそのような結果が出るのであります。麦まけば麦が生えてくるのであります。今日一日素晴らしく生きたら絶対その様になってきます。

人間関係でも、相手のプラスの方を見ているのか、マイナスの方を見ているのかであります。
マイナスの行いをしたら、その事が自分の運命・環境に必「循環の理法」でめぐってきます

東西陣営で、外国がお互いに対立の種を蒔いています。相手をやっつける為、核兵器を開発しています人類が毎日マイナスの種を蒔きますと地球の運命がマイナスの結果を招く結果となります。

つまり、自分がマイナスの事をしていますと、累積して地球の運命がマイナスの運命となるのであります

自分だけが、助かるだとか、浮かばれるだとか、金が儲かるとか、罪を許してもらうとか、それで助かる訳は無いのであります。

私達は、丸い宇宙船地球号に乗っていることになります「生命の大親」が、この地球を回し、空気を飛ばないように、引力で引っ張って下さっておられます。しかし、私達は、この宇宙船の空気を汚染しています。それにもかかわらず、自然と言う名の「生命の大親」が、ジェット気流や偏西風などで換気をしていて下さっておられます。人間がしているのではありません。

今、活かされている時は、肉体的に精神的に、生きているのですから心配しても運命は変わりません。愚痴言っても変わりません。因縁があるとか、方位が悪いとかマイナス思考をやっていたらノイローゼになるだけであります。そこで理性的判断をプラスにしなければなりません。

善悪の価値基準はどうなのかと言いますと、人類は全然わかっていないのであります。一体、何をと考えるのでしょう。
そこで、肉体的生存を考えてみますと、思考という考え方、何をどう認識したか、これで実感が出てきます。認識の問題であります。

    ルイスウェインの3匹の猫

ルイスウェインという画家が描いた猫、この猫を怖いと判断した。そして恐怖となりました。自分に害を与えるのかと思い、段々怖くなって恐怖でとおりました。猫を見て、最初かわいいというふうに感じていました。それを恐怖に感じて通りましたから、ルイスウェインは不幸な一生となりました。恐怖で通りましたから増々運命・環境が恐怖になっていきました。

     ルイスウェインの猫の絵       

ここにマイナスに思考してマイナスの感情となりマイナスの行動をして、生存の表現をしています。
だから本気になってプラスを表現できるかということであります。

要するに、猫をマイナスに考えマイナスに表現したら、マイナスの生存となる結果をもたらすのをといいます。

というのは、マイナスの生存の結果をもたらします

というのは、プラスの結果をもたらします。そのような思考であり、感情であり、行いの種であります。これをプラス善と言っております。

目先で欲求を満たす事をしてしまった。この目先のマイナスの感情に流されてマイナスをした事が本当に自分の一生にプラスかどうかであります。

とは、そのときはつらいけれども、後で結果的にはプラスになる事であります。
感情は、常に刹那的であります。熱いという感情は、喉元すぎれば、実感はそのときしかありません。

例えば、おいしいお菓子を食べて、プラスの実感を持つと、食べて良かったな、ああ良かったなとなるのであります。これが、心豊かに、生きる味わいとなるのであります。そして生存がプラスとなるのであります。

生存を、より広く、より長くプラスにしていかなければなりません。
より広くとは、己だけではなく、一家だけではなく、全人類、全生物に、他のものに、よりプラスを与えていくことであります。今は、一寸つらいけれども、頑張ってもっと大きなプラスをもたらすことであります。これをといいます
種をまき、一生懸命育て、素晴らしい収穫をたくさんしました。これをといいます

目先で感情を満たしたとしても、後で結果的にもっとつらい事がきます。これをといいます。今、目先の感情で、ああだ、こうだといい、そして結果的には人間関係をその感情で駄目にする。これをといいます。

自己防衛と自分の我を満たしたいが為に、己の感情に左右されて、その感情をコントロールできない。これをといいます。そして己自身をマイナスにしてしまいます。


地球という宇宙船の中で、核兵器を造って、宇宙船をぶっこわそうとしています。

理性的判断力をプラスにして、行いの種を人生に蒔けばプラスに生きられます。
何を基準にしていくかといいますと大自然の親理法則であります。親理に沿って助けあえば、地球が平和になります。

教育改革にしても、其の人の意識であります御霊、つまり命霊観念を切り換えなければ、制度をいくら変えても人間は変わりません

己の人間性、己の中身を変えないと制度を変えても本当の改善はありえません。本当に中身から、根本から変えようとするのは、1000人に一人もいません。制度が問題ではなく、私達の実感が問題であります

しかし、その実感は理性的判断力、思考という問題に由来します

マイナスの思考は、マイナスしか考えられません。そしてマイナスの実感を持ちます。癪にさわりますとその行動しかしません。マイナスの感情の行動しかしません。感情に左右されてその様になってしまいます。それが全てになってしまっています。

感情がより広く、より長くなるのがといいます。自己の生存は他の生存に直結しています。自他一如であります。
つまり、
他のことも我が事であります。


感情がより刹那的、より短く、より自分だけ、より小さいものをといいます。猫が目先で魚を取るように、人類も長い目で見たらその様な事をしています。


生命性に目覚めた親性意識のある親性人は「生命の大親」の大きな生命によって親の子として活かされております。そして生きるのは素晴らしいと、その前提と感動にたって親理に沿って生きられるのであります。

同じ一日生きる生き方が恐怖に生きるのではなく、今日一日を感動で生きるのであります。
生存を感動で生きなければなりません


与えられている人間関係、職場や家庭、今、与えられている運命・環境のこの中で最大の、最高の、最善の喜びと感動をもって通るのが悟りであります

その為には、実際プラスの種まきをするのであります。その為には実感がプラスでなければ出来ません。感情がプラスになるのには、プラスの思考をしなければなりません。プラスで判断しなければなりません

プラス思考、プラス善、マイナス悪、一人一人がマイナスの行いをするとマイナスの蓄積となる地球となってしまいます。

今この生きている感動を真実感してみる事が大切であります。思い方一つ、感じ方一つ、判断し方一つ、プラスでもっともっと判断してみる必要があります。


その為に、プラスの思考をし、理性的判断をプラスにし、プラスの実感をもって生きていかなければなりません

「生命の大親」にお受け取り頂く事が出来ますよう、如何なる運命・環境でも、とにかく最大にプラスで生きていくことであります。
お受け取り頂かなければ、その様な現象は、起こりません。

何故なら、全てこの世を親創造し、より良く生きて活けるようにして下さっておられるのが「生命の大親」であるからであります。
自然と言う「生命の大親」は、あらゆる宗教宗派、人種、民族を越えて誰にでもあてはまる、永遠(時間を越えた、いつでもという事)なる、また普遍(空間を越えた、何処でもという事)なる存在であるからであります。

つまり、親生命界(生命の世界)も、親命霊界(御霊・意識の世界)も、親物質界(形ある物質の世界)も、全ての全てを行っていて下さっているからであります。

この御存在は、あらゆる宗教宗派、人種、民族の、その中だけで通用する神仏では無いからであります。

要するに、宗教宗派、人種、民族の問題ではなく、この事を越えた生命の問題であり、生きる問題であるからであります


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# by shizennori1 | 2017-05-03 12:17 | 22.プラス善とマイナス悪
2017年 04月 11日

21.「機会・場の理法」

「生命の大親」は御自親の永遠普遍なる親時間空間の理の一部を私達、生命の御子らの御霊(みたま)の親成長発展地球の親性親化発展のために授けていて下さっておられます。

「親時間空間の理」というのは「生命の大親」のお力・お働きにより、この物質界(形ある世界)の「時間と空間の理」を、私達、生命の御子らの為に親現(現していて下さって)お造り下さっておられます。

「生命の流れ」としての「時間の理」を、現していて下さっておられ、更に「生命の広がり」として「空間の理」を現していて下さっておられます。

地球の親性親化発展とは「生命の大親」が、この地球を素晴らしい生命の愛に満ちた、お互いに助け合う、親性という生命性に目覚めた地球に成長発展していく惑星の地球になっていくことであります

生命の御子らの生命活動であります親命霊界(みたま・こころの世界)や親物質界(形あるせかい)の全ての霊的生命活動も、物質体的生命活動も全ては「生命の大親」がお授け下さいました「親時間空間の理」機会・場であります。

「有意味行為の原則」により「生命の大親」が、どういう理由で、この親時間空間を私達にお授けして下さっているのかをしっかりと悟らなければなりません。

「生命の大親」は全ての生命の御子らに「親時間空間の理」真性地球の親性親化発展の為の「真種・真材料の理」としてお授け下さっておられる事をしっかり悟らなければなりません。

「真種・真材料の理とは、自分の行いの種が、真種として地球を良くする為の真材料で通ることであります。

「生命の大親」より、お授け頂いている運命・環境の全ての機会・場の親時間空間を、理に沿って活用しなければなりません

「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿って、地球をより良くする為のお役に立って、親時間空間を使用させて頂かなければなりません

「生命の大親」により、お授け頂いている価値ある貴い機会・場を大事にして、無駄にしてはいけないのであります。
自個自芯の低次元の感情や観念により、親時間空間を無駄にした生き方をしてはいけないのであります

特に今生、「親時間空間の理」を最大・最高・最善に「真種・真材料の理」として真活用して生きなければなりません

「生命の大親」が親現していて下さる「親時間空間の理」の一部を、それぞれの生命の御子は、自分の運命環境の時空間としてお授け頂いております。この事が「機会・場の理法」であります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 14:47 | 21.「機会・場の理法」
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」③

運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしているのでは、本質的に犬猫などの動物と変わらないのです。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからであります。

交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのであります。

親がどういう子供を欲しいといっても
「生命の大親」の大自然から与えて頂くしか授かりません。親が子供をつくるのではなく、大自然から、子供を授けていただくのであります

「生命の大親」は大自然の力と働きによって、全ての生物の霊的成長に最も必要でプラスとなる運命・環境をお与え下さるのであります。

運命・環境は決して悪いものはありません。問題は、その問題をどの様に通るかであります。

必ず通れる問題であります。問題そのものをマイナスにとらえてはいけません。問題があるから努力して伸びていくのであります。何もなかったらおもしろくありません。問題があるのはプラスのことであり、やりがいがあることであります。しかし、なかなかプラスに思えずにマイナスに思ってしまいます。ではマイナスに思ってそのようになってもいいのですかというと、そうなりたくないと言います。それだったらプラスに素直に思えばよいことになっていることになります。

マイナスの否定的な、ネガティブな、悲壮感な考え方に陥りやすいのです。このような観念、意識を、プラスの方へ切り替えなければなりません。このことを意識の真転換と言います。


「生命の大親」より大自然を通して与えられる運命・環境は、全生物にとって、実に重大なものであります。

「生命の大親」は全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのであります。

全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることであります。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのであります。


「生命の大親」は、全生物の生存にとって、そして全ての生物の霊的成長発展にとって必要な事を大自然を通して与えて下さっているのであります。

肉体的生存にとって必要な事、例えば大宇宙を創造して太陽や月、地球をつくり、海山川等の環境を整え、生物の物質的体をつくる等、この物質界で生存する事に必要なすべての行為を「生命の大親」が大自然を通して行っていて下さるのであります。

人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え耳が聞こえ口がきけて、手足を動かせるような人間としての物質体的な体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのであります。

「生命の大親」は全生物の肉体的生存に必要な物質的全てのことを行っていて下さる一方で、霊的成長発展に必要な運命的な事柄も与えて下さっているのであります。


大自然より活かされ生きている人間の親だけが、人間の子に精神的・肉体的に必要な事を与えて、元の
「生命の大親」が運命的・霊的に必要なことを与えないということはあり得ません。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。

「生命の大親」が最も根本的に望んでおられる事は、生命の御子であります全生物の霊的成長発展であり、肉体的生存はそのために必要な経験と味わいを霊魂に与える方法手段なのです。

従って「生命の大親」は、生命をもった御子であります全生物がそれぞれに必要な経験を味わえるようにこの世における様々な運命・環境をお与え下さっておられるのです。


各霊魂(たましい・精神)にとってどの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのであります。


「生命の大親」は親の子であります人間に自由意志を与えてくれています。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのであります。

だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境に生えてくる為の「行いの種」なのであります。

自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのであります。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。

自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのであります。

「原因・結果の理法とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して真理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからであります。

原因・結果とは、正に厳しくて有難い絶対なる理法であります。プラスにもマイナスにも原因どおりに結果が現れなければ、絶対的な大自然の親理(真理法則)とはいえません。

原因・結果永遠普遍なる絶対的な、大自然の親理(真理法則)なのであります。
「生命の大親」
の絶対的掟であり、永遠普遍の決まりなのであります。

運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからであります。

「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切であります。

人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのであります。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と徳と力を残してあげる事が最大の宝物であります。

大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方がずっと大きな価値なのであります。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからであります。

人類の生命的な質と力が高まるためには、人類が生命的絶対の「生命の大親」の御存在に目覚め、「生命の大親」の大自然の力と働きに対してもっともっと素直になるべきであります。

生命も肉体的生存も人間が根源的に創造し営んでいるのではありません。


要するに徳を増やす生き方をしなくてなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:12 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」②

医学が大自然の親理(真理法則)と対立するという考えは明らかな間違いであり、親理(真理法則)を悟っていない非科学者的発想であります。

大自然の全ての営みは総合されております。人間を含め全生物の生存とは肉体的要因だけで生きているのではありません精神的・霊的・運命的・生命的、更に環境的な要因などが全て綜合されて活かされ生きているのであります

病気が治ることを一例として取り上げてみても、医学的な肉体の治療だけがすべてではありません。治るだけの生命力が高まり、治るだけの運命・環境が整い、治るだけの観念となることが必要であります。

たとえ、医学的な治療がうまくいったとしても、そのような治療がたまたま受けられるかどうかは運命的要因が影響してきます。同じ治療や手術でもある人は助かり、ある人は治らないのであります。医学者は治そうとして最大・最善の努力をしますが、それでも結果は違ってくるのであります。

医者の立場にも運命的力は働いています。治り易い患者を多く扱う医者もいれば、幾ら技量が優れていても、間の悪い患者ばかりを扱う医者もおります。問題を起こす患者ばかりを扱っている医者は不運ということになります。

運・不運とは何も医者という職業だけのことではありません。全ての職業・仕事にあてはまります。人間の生存行為だけではなく、全ての生物の生存に事実としてあることなのであります。

大自然が運・不運という運命的現象を現実に起こしている以上は、そこに「原因・結果の理法が厳然として働いている証拠であります。何故なら、大自然の全ての現象や営みに「原因・結果の理法」が働いていて、運命現象にだけは働いていないということはありえないからであります。

運命現象にだけは「原因・結果の理法」がはたらかない、という事になれば、大自然の親理(真理法則)は、もはや大自然の永遠普遍の親理(真理法則)ではなくなります。

大自然の「原因・結果の理法」を否定したならば、一切の科学も学問も、人間の社会生活も成り立たなくなります。第一、この大自然自体の存在と現象が成り立たなくなるのであります。

成り立っている以上は、そこに永遠普遍に働く「原因・結果の理法」を認めざるを得ないのであります。

大自然の力と働きは全て綜合的であるのですから、一部的・部分的・刹那的な見方や感情的・感覚的とらえ方は間違いのもとになります。

特に親子は、体質的、性格的、霊的、運命的などいろいろな要因がつながり、共通しております。人格的、観念的に子が親の影響を受けない筈はありません。むしろ、子に一番影響を与えているのが親なのです。だから、昔から諺に「親の因果が子に報い」と言っているのであります。

親の人格、価値観、行動、観念、情緒など全てが子に影響します。子は親の全てを吸収して自己の人格、観念、性質などの人間性を形成していくのであります。だから、親の念波は九割であると言われているのであります。

子にとって親とは、父母を意味します。親という概念は子にとっては一体性のものであります。従って、両親の仲が悪かったり、価値観が異なっていたりした場合、子供は情緒が不安定になります。父母の意見の対立は、子にとって自己分裂を起こすのです。職業が何であれ、運命・環境がどうであれ、子供にとっては両親が一致していてくれることが大切であります

最近の傾向として、父が仕事だけに一生懸命となり、母が子供の事だけにかまけて、子供を過保護に育ててしまうことがあります。この結果、子供の情緒は不安定となり、子は欠損人格となります。子供自身にストレスがたまってやりきれなくなるのであります。そして遂に家庭内暴力・校内暴力と発展していくのであります。暴走族や非行化していくことも同じ原因です。ただ程度の差と方向性の違いであります。

子供を立派に育てあげるためには、お金や物質を与えることも必要ですが、それだけでは不十分であります。肉体的に子を育てるだけならば、他の動物ですらしていることです。人間の親ならば、両親が一致して人間としてこの世を素晴らしく通る観念や精神を子供に与えるべきなのです。親が自己の人格や観念を子に与えてこそ、人間の親であります。

現在、ほとんどの親達が子に物質的なものを与える事だけに関心をもち、自分達が持っている大切な心を与えることを忘れてしまっています。

大人達が、次の時代を担う子供たちの心を育て、人格を高めることを、家庭でも、学校でも怠っているのです。

その為には、まず自らが人格を高め、感謝と喜びを持った豊かな心を開発発展させなければならないのであります。自らが心の豊かさをもたずして、子に素晴らしい心や情感を与える事は出来ません。

自らが豊かな心と感動をもってこそ、子に与えることが出来るのです。

大自然の「生命の大親」に対して、自らが「生存の感謝と喜び」をもってこそ、その感謝と感動の心を子に与える事ができるのです。

「生命の大親」の生命の祝福を受け、子供を授けて戴いた人間の親達にとって最大・最高・最善の仕事は、次の時代の人類である子供たちに精神的財産を与えていく事です。

精神的財産とは、悟りと徳のことです。つまり、子供達が良い運命・環境で通れるような良い行いの種をしっかりと蒔いて行くことです。

親が蒔いた行いの種が原因となり、その結果が子供の運命・環境に確実に生えてくるのであります。

親が人格的に崇高であり、親の行いが大自然の親理(真理法則)に叶ったものであるならば、親が子に残してあげる運命的財産は素晴らしいものであります。

人間の親が残す最大のものは運命的・精神的財産です。「子孫へ美田を残すな」という諺があります。たとえ子孫に物質的財産を残しても、その財産を維持してゆけるだけの力と徳が子供になければ、子供は財産を全て失う結果となってしまいます。

子供自身の手で財産を立派にきずく事が出来るだけの運命的財産を残してあげるのが、親が子に与える最大の財産であります。

親の作った物質的財産に執着する子供よりも、自らの力でこの世を立派に生きていける力と徳を持った子供に育てあげる事が、人間の親としての最大の義務であります。

子供にとって親からの最大の精神的遺産とは、親が行った人生の事実と、親の人格そのものなのであります。親の行いは事実の種として、子供の人生に必ず運命的に生えてきます。

親のプラスの行いの種もマイナスの行いの種も、必ず子供達の人生にめぐり巡って生えてくるのであります。これが「循環の理法」であります。もし、麦という行いの種を蒔けば、好むと好まざるとにかかわらず、気付こうと気付かざるとにかかわらず、絶対に麦という運命の結果がやがて生えてくるのであります。

原因を行っておいて、運命・環境にだけは結果が現れない、という考え方は最も非科学的であり、矛盾しております。

大自然が与える運命的要因だけには、原因・結果を認めようとしないのは、大自然の「生命の大親」に対する冒瀆であります。大自然に逆らう事になるのであります。

「生命の大親」の大自然の力と働きによって生命を与えられて活かされ生きている人間が大自然に逆らっては良い運命・環境になる理由がありません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:11 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」①

科学は大自然の事実を事実としてとらえて、その原因・結果を探求していくものです。例えば医学は肉体的なことの原因・結果を究明していくものです。しかし、肉体的なことが精神や情緒に影響されるという事の事実が判明すれば、医学は肉体的な物質面からだけの原因・結果を調べるだけではすまされないのです。


生命あるもの、感情あるものは、総てその心の状態が肉体に影響します。これは当然の事ですが、最も大切で絶対に犯すことができない大自然の原理原則です。

もし心配事があれば、ぐっすりと安眠は出来ません。常に不安でいらいらしていれば、心臓にも良くないし、胃にも悪いのは当たり前のことです。ストレスが体に悪いことは当然です。

情緒が不安定であれば、心を紛らす為に酒を飲んだりすることは自己保存の本能による精神安定を求めた姿ですが、却って酒で肉体的健康を害したりして何の徳にもならないのです。しかし、こんな事はよく判っていながら感情にながされて酒を飲み体を悪くするケースが多いのです。だが、心を紛らわそうとして酒に逃げて肉体を悪くしても、心身ともになんのプラスも解決もないのです。
「原因・結果の理法」は、大自然の総てにあてはまります。物質的現象にも、肉体的ことがらにも、心や感情の面にもあてはまるのです。そして大切なことは、運命的な原因・結果もあるのです。

大自然がそのような現象を起こす以上は、そこに運命的原因・結果が厳然として働いているのです。

今迄、人間は運命的原因・結果を白蛇・悪霊・方位方角・易・家相・墓相・印鑑・お経・仏像・お札・手相・人相等々の所為だとしてきました。これらのものは人間が勝手に観念の産物として創造したものです。人間自身の勝手な錯覚なのであります。


運命的原因・結果
は大自然の「生命の大親」の親理法則の力と働きによってなされるものであり、それぞれの運命・環境を与えられて、全生物の生存が40億年にも亘りこの惑星地球で続いて居るのであります。

何時・何処でどの様な親の許にどんな状態でこの世に生まれてくるのか、いつ誰と出会いどのような事を行うか、何歳の時にどんな病気をするか、事故にあうのか等は全て運命・環境として大自然の「原因・結果の理法」のお力と働きによって与えられるものであります。
大自然の全ての現象にはそれぞれの原因・結果が厳然としてあるのであります。
ただ、今まで人間がこの運命的原因・結果の事実を認識していなかっただけの事なのです。

人間が科学として行っていることは、大自然の色々な事実を「原因・結果の理法」によって認識・理解することなのであります。

原因・結果を肉体面にあてはめて認識・理解をおこなっているのが医学であり、認識・理解の対象を天体にした場合は天文学となるのであります。心理学でも、原子物理学でも、あらゆる学問・科学とは「原因・結果の法則」にあてはめて認識・理解を行うことなのであります。

しかし、人間は未だ運命現象を対象とした原因・結果の研究も、認識・理解もしていないのであります。

大自然が行っている総ての現象に「原因・結果の理法」が働いている事を人間は認識・理解しているのにもかかわらず、大自然が与えてくれている運命的現象にだけは原因・結果がないと考えるのは、大変な矛盾であります。

「生命の大親」が大自然をとおして行って下さっている運命現象の原因・結果を人間が未だ認識・理解していないが故に、運命・環境に働く「原因・結果の理法」が信じられないのです。

しかし、大自然の親理(真理法則)とは、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、何時・何処でも、誰にでも、何にでも事実として絶対に働いている原則であります。


人間の認識・理解を越えて事実その原因通りに結果が現れるのであります。

人間に自由意志を与え、知性・理性・感性を与えて科学、芸術、哲学、宗教 などを発達させるようにしている根源的力と働きは大自然にあるのであります。即ち、人間のあらゆる生存行為すらその根源は大自然の「生命の大親」にあるのだ、ということであります。


人間は
「生命の大親」によってこのように発達する運命・環境を本質的に与えられているのであるということであります。


従って、科学も、医学も,全ての学問は大自然のそれぞれの部分を対象として、大自然の親理(真理法則)を認識・理解する人間の生存行為であるといえるのであります。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:10 | 20.「原因・結果の理法」①
2017年 04月 11日

19.「作用総合の理法」

「生命の大親」の親創造された「親理」という無形なるものがあります。この事が一般的に言われる掟、決まりということであります。

「生命の大親」生命的段階から捉えると――親理という事になります。

霊的な段階から捉えますと――――真理・摂理という事であります

物質的段階から捉えますと――――法則という事です。

例えば、道路交通法は、人間が作った掟であり、自然界に最初からあったものではありません。

この世の掟として、地球が回るとか、麦を蒔いたら麦が生えるとか、という掟は「生命の大親」が造られたものであります。

大自然の中に活かされている限り、この「生命の大親」の決まりによって造られ存在させて頂いています。だから、大自然の掟に従わざる負えないのであります。それが「親理」であります。

しかし私達は、物質的に知識、学問や科学として探求してくると、物理法則として今、捉えているだけであります。

「親理」は、何時、如何なる時も、如何なることにも通用するのであります。これは、永遠普遍性であり、全てに通用するのであります

「生命の大親」は大自然の全て、大宇宙の全てを「親理」によって構成して下さっておられます。全てがそれで出来ている普遍法則であります。それを宗教では部分的に捉えています。万有引力の法則が、特定のところだけに働いている事はありえません

「親理」は誰にでも永遠普遍に働いているのであります。又「親理」を知識として捉えるのではなく、実感として捉えなければなりません。実感にするには、自ら努力して能動的に生命の力を出していかないとそうはなりません。何かを行う力を出さないとそうなりません。

物質としての米とか秋刀魚を取ったら、通用範囲の広いお金に換金します。そのお金を運命環境を良くする「徳」に換えなければなりません。この「徳」は盗むことも、貸すことも、あげる事も出来ません。

この運命財産であります「徳」があれば素晴らしく生きていけるのであります。

しかし、人間は、この世界を創造して下さった「生命の大親」に対して、この世は苦の娑婆だとか、因縁があるとか、先祖が浮かばれていないとか、悪の世界だとか言って、決して素晴らしい世界であるとは言っていません。だから、現代人は、物はありますが、より良く生きていける「徳」という運命貯金がありません。

「徳」のないものは、知識で捉えてしまいます。

「徳」のあるものは、実際の生活で役に立つように身につけるのであります。

素晴らしく生きて行けるよう「生命の大親」の造られた「理法」「作用総合の理法」というのがあります

「作用総合の理法」とは、「あらゆる存在は、全部が総合され何らかの作用性をもってのみ存在している」ということで作用性のないものはありえませんということです。

つまり、何らかの影響がないということはあり得ないということであります

例えば、着物一枚でも、作った人もいれば、販売する人もいます。更にその人達の食料を作った人もいれば、その食料を作った人の農家の家を作った人もいます。この様に考えていきますと全部が関連していますし、影響しない人はありえません。

このような考え方に立つと、自分一人がマイナスで通ると地球をマイナスにする事になります。今日一日、頭にきたと人生で思っても影響します。

現在があるのは過去が全部総合してあったからであります。家庭の中でも一人のひとが機嫌が悪いと家族全部に影響します。

しかし、そこで相手が変な顔をしても、こちらは、にこっとして絶対親念で接する事が大事であります。問題はその時がチャンスであります

私達がプラスで生きるか生きないか、私達が一銭一厘も、お金の使い方が生命にとって、プラスになるように使うか使わないかによって、地球全体の「徳」という事についての作用性ももっています。全ては作用されて総合的になっています。

大宇宙の全て(物質界)も、命霊界(霊界のこと、意識の世界)の全ても、生命界(いのちの世界のこと)の全ても、生命の世界は元々全てが総合された作用の中に存在している世界であります。これが生命の自他一体の世界であります。一即多、多即一であります。一つが全体、全体が一つであります。

時計もいろんな部品で成り立っていますが、でも一つの時計としての総合された時計であります。いわゆる部品が総合されたものであります。

大自然、大宇宙の全ての存在、全ての生命は「作用総合の理法」によってつながっているのであります。

全人類の全生物のアリ一匹でも、アリの生命も全体としての存在であります。

元々、全てがつながっているのが「生命の大親」だけであります。全て「生命の大親」につながっています。基本的に繋がらなければならないのは「生命の大親」であります

物質も生命の一つの生命の形であります。物質も生命の理が働いています。

全部「生命の大親」は総合して下さっておられます。

時間的に総合しているのが永遠性であります。

空間的に総合しているのが普遍性であります。全部ひとつのもので関係ないものはありません

素晴らしい生命の感謝をもって感動をもって生きたら全てに影響していきます。全部に本当に影響いたします。

時間的にも、今のこの一瞬を生命の感謝で通ったら、自分の全体の運命や環境にも影響するのであります。

「親理」は、全てに通用するのであります。こういうことから、親理を悟る為に生きているといっても過言ではありません。

より素晴らしく「生命の大親」につながるべきです。

「作用総合の理法」は、あらゆる個の存在、全体としての存在が作用総合されてのみ存在しうるということであります。個々があるということは、全体としてまとまらなければならないということであります。

この世界を造られたのは「作用総合の理法」と表裏一体のことであります。

これからは、あらゆることに関連があるということから、一瞬一瞬、今日の気持ち一つ、個々のこと、全体として全部影響があるという事で「親理」に沿って、プラス、プラスの気持ちで大いなる親発展を遂げなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:59 | 19.「作用総合の理法」
2017年 04月 11日

18.「終止限界の理法」

人間の世界にだけ法律・秩序があって、大自然界の営みの中に絶対的な掟がないことはありえません。むしろ、大自然界の中に掟があるからこそ、全ての営みがなされています。掟・秩序は、一つの決まりがあるからこそ存在している。

体の中にも秩序があります。一つのきちんとした働きがあります。私達も口から食べています。口以外から食べてはいません。

つまり、秩序がなければ、この世界は混沌としている世界であります。例えば、電子がまわっているとか、生まれて死ぬとか、野球をやっているとき掟がなかったら成り立ちません。要するに、ルールを壊したら存在できないという事であります。

大自然の存在があり、地球も太陽を中心に回っています。銀河系も1回転するのに2億4000万年かかって回っています。

大自然の掟を否定したら成り立たなくなります

「生命の大親」の親創造された「終止限界の理法」という基本的ルールがあります。これは、必ず、全てに区切りがありますよという事であります。

前世に死んだから今生、生まれたのであります。昼ごはんが終わったから夕食が食べられるのであります。テレビも一つのシーンが終わるから次のシーンになります。

終わりがなかったら、どういう事になるのでしょうか。野球も終わりがなかったらどういうことになるかというと成り立ちません。

「終止限界の理法」は自然現象を現わすのに必要な理法であります。私達がこの物質界へ生まれてきて終わりがあるという事は素晴らしい事であります。最後は「生命の大親」がお造り下さいました「終止限界の理法」へ到達するのであります。

地球にも、私達の体も区切りがあります。従って、春夏秋冬の四季にしても、一日の区切りにしても、一時間、一年という区切りにしても、全「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」がなければ自然界の全ては成り立ちません

元々は生命的な世界には区切りがないのに物質界の為にわざわざ「終止限界の理法」「生命の大親」はお造りになったのであります。

普通の細胞には区切りがあります。しかし、がん細胞には区切りがありません。細胞増殖が続いていき、区切りがありません。ですから区切りがあるから有り難いのであります

区切りがないと大自然界は成り立たないのであります。区切りがあるからこそ有り難いのです。

物質界の区切りがあるという事で、いろんな物質現象が行われる事の素晴らしさがあります。区切りがあるという事が判りますと、区切りの無いことがわかります。

区切りがないというのは何かといいますと、形のない生命の方で、目に見えない生命の本質であります。

生命の本質は、永遠性であり、永遠なる生命の生きる感動をわざわざ区切りのある物質界で味わせてもらっているのであります。

出会いがあれば別れがあります。出会いが素晴らしければ別れも素晴らしいのであります。始めがあれば、終わりがあります「終止限界の理法」があるから全てのものが味わいがあります

全ての現象は「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」を悟りますと

①死に対する恐怖がなくなります

②あらゆるマイナスのことを切ることが出来ます。

③自分のマイナスの観念をプラスに切り換える事が出来ますしかし、頑固に自分の観念を主張して切り換えようとしない人は、別であります。

態度、言葉もよりプラスに積極的に行わなければなりません。

こういうことから、人生の終わりの時、喜びと親感謝で迎える方がよいか、それとも恐怖と不安といらだたしさと苦しみで迎えた方がよいかという事になります。つまり、終わりがあるという事、終わりが無いと生まれても死なない事になります。映画が始まっても終わらない事になりますし、御飯を食べだしたら終わらない事になります。終わらないと苦しみになります。だから、終わる事は有り難いのであります。何故なら死んでも又生まれてくるからであります。生命エネルギーは無くなりません。

私達が生きているのは、この物質界であります地球に旅行に来ているのであります。だから、人生劇場といっているのであります。つまり、一人一人が役をもらって劇をしているのであります。

「終止限界の理法」は時々刻々と働いております。赤ちゃんも時々刻々と過去の姿に、お別れして現在の体に変化しております。結婚も「終止限界の理法」で独身時代の過去に終わりを告げております。

自分の過去と「終止限界の理法」で別れ、けじめをつけるのであります。小学生から中学生になったら区切りをつけます。

しかし、困った事に最近、区切りがなくなってきているのが問題であります「終止限界の理法」に逆らった生き方をしています。男性でも、自分が夫や父親である区切りをつけないものがあります。

夫婦喧嘩でも、関係の無い、過去のことを持ち出して喧嘩しております。その時には「終止限界の理法」を使って終わりにしなければなりません。過去の事を持ち出しますと際限がありません。自分のマイナスの性格には、さよならして思い切ってプラスの方へ向かわなければなりません。面白い事に、夫婦のほめあいが続いているという事は聞いたことがありません。いい事には、思い切ってやらないのに、悪い事は、一生懸命やっています。

「終止限界の理法」で切れ目が良い人は発展性があります。4,5歳の子供の愚痴をあまり聞いたことがありません。今泣いたカラスが、もう笑ったといいます。しかし、年を取ってきますと、愚痴が始まると長いです。なかなか、スパッと切り換えられません。

「問題にしている人に、問題にしている分だけの、問題があります」ということで、切り換えが難しいです。

切り換える時は、思い切ってやらなければなりません「清水の舞台から飛び降りる」という諺どおりの気持ちで行わなければなりません

なかなか、決断の付かない人は「終止限界の理法」の弱い人であります。ぐずぐず悩んだ時に「終止限界の理法」を活用しなければなりません。理を活用するのは、実際の生活に当てはめて見ますと一つの発展があります。

要するに、其の人の運命的な「徳」の力しか働きません

一番大事なことは、私達は「生命の大親」に祝福を頂いて、この親物質界に生まれさせて頂いております。私達は「生命の大親」につながり「生命の大親」にお受け取り頂く事ができますよう、生きる生命の感動で生きなければなりません。

生きる生命の感動なしに生きても価値はありません。生きる生命の感動の為にあらゆる生存行為は行われております。

あえて困難な事に挑戦して「終止限界の理法」を活用し、運命財産であります「徳」を高めて、地球が良くなる為の生き方を絶対なる親念(信じる、信じないの信念ではありません)をもって行わなければなりません


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:51 | 18.「終止限界の理法」
2017年 04月 11日

17.「循環の理法」

私達は生命の大親が親創造されたこの親世界に、生命の祝福を頂いて誕生させて頂いております。誰も意味なく生まれてきた人はおりません。

私達はどこの家に、第何番目に、性は男性か女性か、自分で決めて生まれてきたわけではありません。全て生命の大親の御親意(みこころ)によって生まれさせて頂いております

何の為にかというと、親の意識になるためであります。肉体は黙っていても成長していきます。しかし、精神である意識は、そのままでは成長いたしません。

意識は、その人それぞれによって皆、違います。その意識を高める為に、若い時に問題を与えられる人、中年期に問題を与えられる人、晩年に問題を与えられる人、いずれにしても、その人の一番より良い時期に、魂の成長する問題が与えられます。

それは悩みではなく、其の人が努力すれば必ず解決できる問題であります

このような問題、言い換えれば、事状(あえて事情といわない)とか身状(身情といわない)の問題が誰にでも与えられます。

決して生まれた星が悪いとか、名前が悪いとか、住んでいる方位が悪いとか、先祖が浮かばれていないとか、この世が苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、誰かの因縁があるだとか、そういうことは一切関係ありません。誰のせいでもありません。

自分の意識を高めるための問題であり、決して他のせいではありません。そのような悪い世界を生命の大親が造るわけはありません。親は苦しめるために、この世界を創造致しません。

問題を解決するに当たり、この大自然界を構成している原理、原則があります。この原理・原則・掟も生命の大親が親創造して下さっておられます
このような原理である理法は、何人が知ろうと知るまいと、何人が気付こうと気付くまいと、好むと好まざるとにかかわらず、いつでも、どこでも、誰にでも、何にでも、働いている大自然の力と働きであります

しかし、この力と働きは、事実であり、もろもろの言葉で表現しても、それは言葉であり、事実ではありません。例えばリンゴと表現しても、言葉は言葉であり、リンゴは、リンゴという事実をもって現されています。これを自明の理」といいます

自明の理とは、事実が事実をもって事実を証明し、現しているということです


こういうことからいくらこのような理法を知ってもより良くはなりません

そのような生き方をしなければ、そのようにはなりません。このような事が判って、理法を生命に刻まなければなりません。

その一つの原理が循環の理法であります。

この循環の理法は誰にでも当てはまる原理・原則・掟であります。私達の生きているこの地球は、春夏秋冬と自転、公転をしています。血液も心臓から出て、心臓に帰ってきます。種を蒔くと芽が出て、葉が現れ、花を咲かせ、実を付け、やがて枯れてまた種になっていきます。人間も息を吸ってまた息を吐き、寝ては起き寝ては起きます。言葉も「させて→頂きます」「行って→いらっしゃいませ」と循環しております。輪廻転生という言葉も、生まれ変わるという意味です。この様に循環しております。

大自然界の全ては、目に見えるものも、目に見えないものも、全部循環しております。いわゆる形があろうと形がなかろうとも全て循環しております。しかし、人類は、形あるものには循環していることが判っても、形ないものにも循環していることが判っていません

だから悪い種を蒔いて自己中心の生き方をすれば、まわりまわって、その種が我が身に帰ってくることが判っていません。何故なら自分たちの行いが、目には見えないから循環してくるということが判らないでいます

このことは宗教宗派に入っていようといまいと男性女性も関係なく、人種も年齢も動物人間も一切関係ありません。つまり自然界の原則・原理・掟は誰にでも当てはまるということです

循環の理法によりプラスの種を蒔くと、その結果プラスの結果が現れてきます。しかし、マイナスの種を蒔くと、循環してきてマイナスの結果になります。

このような循環の理法』は、「生命の大親が、私達がより良く生きていく為に親創造してくださった親理である理法であります親理は、要するに、親の理であります

だから、私達も生命の一部を頂いていることから、肉親の親に親孝行をしなければなりませんが、それ以上、どうしても生命の大親に対して親孝行をしなければなりません。これが一番の生き方の根本であります。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:45 | 17.「循環の理法」
2017年 04月 11日

16.「強度継続の理法」

この世の全ての存在・現象は、その存在・現象をあらしめる為に絶対時間的な継続が必要であります。即ち「存在する」という事は、絶対時間の上で何らかの継続があるからであります。

絶対時間とは、相対的この世の時間を超越したものであります。時間の本質的理を意味するものであります

もし「強度継続の理法」の働きがなくて、時間的に「0秒」の存在であれば、その存在は有りえないのであります。つまり存在している時間がなくては存在していないことなのであります

存在・現象をあらしめる理の力と働きが無くては、絶対時間に於ける瞬時の存在・現象の継続も有りえません

凡ての存在・現象は、それを時間の継続としてあらしめる理の力と働き、あってこそ有りえるのであります。

継続させる強度は意志の強さによります。意志の堅さは強度継続の強さに通じます。例えば、鉄は堅いものであるから、何十階建のビルでも建てることができます。しかし、豆腐ではたてられません

意志をどこまで貫くかによって、どれだけ困難なことを克服できるかが決まるのであります

「強度継続の理法」は時間的な長さでありますから、より永遠に継続するためには、意志の力と働きを強くしなければなりません

どこまでも努力し続けることが、この理法では最も大切であります。

求め続ける事によって「生命の大親」「強度継続の理法」の力が働くのであります。

意志の強さというものは、自己の生命エネルギーの開発発展によってなされるものであります

「生命の大親」のすべての親理の理用は、自己の生命力の開発発展によってなされるものであります

ここでいう理用とは「生命の大親」の親創造された原理・原則であります親理に沿った生き方をすることであります。

要するに「生命の大親」「強度継続の理法」に沿って、どんな困難な問題であっても、強い意志の力と働きを使って継続的努力をすることであります

諺でいいますと「千里の道も一歩から」であり「ローマは一日にして成らず」であります

その結果として、自己の生命力の開発発展となり「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った素晴らし霊的観念の親の意識になる事に決定しているのであります


つまり
「強度継続の理法」に沿って、困難な問題を克服する努力をすることにより、人の気持ちの判る、他を思いやることのできる、やさしい親の意識へと成長発展することになります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:39 | 16.「強度継続の理法」
2017年 04月 11日

15.「種類分化の理法」

この世に存在する全ての物は、みんなそれぞれに違っています。全く同じものは、この世に二つと存在いたしません。この様に生命の大親は親創造して下さっておられます。たとえ、双子であっても全く同じ顔ではありません。

「十人十色」「田で食う虫も好きずき」「割れ鍋にとじぶた」「人みて法をとけ」「豚に真珠」などの種々な諺も、種類分化の理法を基にした考え方であります。

もし、この世の全ての事柄が、種類分化の理法によって異なっていないならば、「十人十色」という考え方は出てきません。

「十人十色」とは、種類・分化されて、この世は存在している事を悟らせる為の一つの例にしか過ぎません。人の顔も、指紋も、浜辺の砂の一粒一粒も、一つ一つの雪の結晶も、みんな違うものであります

この世は、「種類分化の理法によって、全て個々の異なったもの(個有性)で成立していることを悟らなければなりません。この様に生命の大親は、親創造して下さっています。

種類分化の理法」で、この世は成立しているという事は、もしこの理法が働かなければ、この世は成立し得ないということになります。

もし、この理法の働きがなければという仮定で、この世の姿を想定してみますと、例えば、もし種類分化の理法が働かなければ、リンゴやバナナという種々な果物は存在し得ない。更に、果物・野菜・穀類・などの食物の種類すら、存在し得ない事になります。。

種類分化していく働きを無くしたら、食物と非食物の違いも無くなるし、更に種々な物質の違いも無く、分子・原子・種々な素粒子の種類も違いも無くなってしまい、更に又、物質と非物質(物質と形而上的存在)の違いも無くなってしまい、もはやこの世は成り立たなくなります。

理法とは、この世を成立させている最も根元的かつ基本的なこの世の掟であります。

従って理法は、この世の全てにあてはまるのが当然であります。すなわち、理法は永遠・普遍の存在であります。

理性的価値判断・・・・・・「理の判断」・・・・・・理法の価値観

理の判断とは、いつでも、どこでもあてはまる理法を基にして、理性的に物事を判断する事をいいます理法を基準とした価値観であります。永遠普遍の価値観であります。この世の大自然の事実が事実をもって証明している価値観であります。

要するに、大自然という生命の大親の絶対的価値体系を大自然の理法(真理法則)をもって理性的に判断し、悟っていくことが理の判断であります。

この世は「種類分化の理法」でそれぞれが個有性を持ち成立しているのでありますから、互いに個を認めあい、尊重しあう事は理法に適したことであります。

人種差別や宗教宗派で互いに争い、けなしあうことは理法に逆らったことであり、間違いであります。自分が気にいらないからと、感情で相手を非難し否定する事は間違いであります

種類分化の理法が悟れたなら、人類は互いの生存を脅かす様な争いを止め、国家のエゴをここまでむき出しにせず、もっと平和の住み良い世界にすることが出来ます

「種類分化の理法」による「理の判断」

種類分化の理法」によって、この世は色々のものが、それぞれ個の特色をもって存在しています。色々のものを色々と味わう為に、「生命の大親」は、色々と味わう為のもろもろの器官を授けられました。この器官とは、眼や耳や鼻、舌などの五感といわれているものであります。

眼は色々なものを、良く見分ける為の器官であります。眼の使い方が理に適っているなら、眼は、眼としての役割機能を増々良くはたすようになり、問題は起こりませんが、逆に理に逆らっている場合は、色々と障害が起こります。

例えば「あんな人は見たくない、会いたくない」とか嫁姑が互いに「顔も見たくない」などと見ることに対してマイナスの意識を常に持ち、眼の役割機能に対して否定的な心使いをしていれば、その様な精神波動が潜在的に意識の中に蓄積して、次第に肉体的眼の機能に障害が起きます。

耳に関しても同じ事であります。耳を使いより良く人様の言うことを聞き分ける事は、理に適った行いであります。

理に反した行いとは、自分が一方的いこじな固定観念(ステレオタイプのアイデア)をもち、他人の言う事には耳をかさず、がんとして自分の固定観念だけを押し通すような場合であります一般的に“つんぼのガンコ親父”といわれるのは固定観念によって、人の言う事に耳を傾けなくなり、耳の役割機能を失った姿であります。

お年寄りでも、耳の良く聞こえる人も居れば、聞こえない人も居るという差が出てくる理由は、耳の役割機能を十分に肯定的に使っているか、それとも否定的に使っているかによるものであります

私は絶対にお前の言うことなんか聞かないよ」とか「そんな事は聞きたくない」と言って、聞けることに感謝がなく、不足していると、耳は遠くなります。

この世は種類分化の理法によって、個々の特色ある存在によって成立しているのであるから、見分け、聞き分けを良くして差を認識しあって通る事が、理に適った生き方であります。

差を認め合うからこそ、調和を保つために更に大きな心へと人格の成長発展がなされるのであります

色々な個性の差を認識することにより、それを包含する為のより大きな、より本質的な考えが必然的に必要とされてくるのであります。この事が悟りであり人格の成長発展であります。

人生において、人が色々の困難な問題にぶつかった時、人は新たなる体験や認識を行います。新しい体験や認識は、自分の今までの考えを拡大し、人生問題を解決する為には、どうしても自分から脱皮して自分の考え、態度、行いを改善改良せざるを得なくなります。「苦労は買ってでもせよ」という事は苦労すれば、するほど、自分の成長発展に結局は還元されるからであります

このような理法を知識として身につけたとしても、或いはこの理法がああだ、こうだと色々のところで話したとしても、その様な生き方をしなければ本当の「生命の大親を悟らなければ、その様な現象は現れないし、その様な理は働きません

真摯に生命の大親の御親意(みこころ)に沿った生き方が大変重要 になるわけであります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 10:41 | 15.「種類分化の理法」
2017年 04月 10日

14.「出発発展の理法」

この親物質界を親創造された生命の大親の御親意(みこころ)によって、親設定されました大自然の親理(真理法則)の一つに「出発発展の理法」があります。

この理法は、大自然の基本的原理・原則であり、この世の全てを構成している絶対的な掟であります

親のこの親理を、人類は科学知識によって大自然の物理的側面からのみ捉えて、自然の物理法則として認識してきました。また、宗教では、自己の宗教の真理や仏法・道などとして観念的に捉えてきました。

この様な捉え方は部分的であり、表面的なものです。決して本質を把握したものではありません。

生命の大親の永遠普遍の貴き親理として悟る事が唯一の本質的捉え方であります。

宗教での真理や仏法などは、その宗教の真理や仏法がなくても、大自然の全ての存在や営みには何ら関係ありません。

大自然の大いなる生命の営みや存在に絶対に必要不可欠なるものの一つが「出発発展の理法」という親理であります。

この親理である出発発展の理法は、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、大自然のあらゆる全てを構成し全ての営みを行うために、何時、何処でも、誰にでも何にでも働いてい生命の大親の大生命エネルギーによる永遠普遍なる生命的な掟であります

出発発展の理法」は、この世のあらゆる存在・現象は時々刻々と常に新しい形状に向かって出発発展しているということです。つまり、この世は全てが常に変化しており、前の古い形や状態から新たなる形や状態になっていきますというのがこの理法であります。

昨日の自分と、今日の自分とでは一日分違います。「出発発展の理法」によって何事も常に昨日までの古い形や状態を脱皮して、今日は新しい形や状態に変化して行っているのであります。

生命の大親によって肉体的・物理的には常に変化発展しているにもかかわらず、自分の精神面だけが、何時までたっても自己のマイナスの観念から変化せずに停滞していたのでは、日々の生存の価値はありません。

その為にはプラスに向かって思い切った出発発展が必要であります。

生命の大親の御親意(みこころ)に適った出発発展することを観念の真転換といいます。自己の古いマイナスの観念を切り換えて、思い切った真転換を出発発展の理法に沿って行わなければなりません。

+の観念に真転換する意識(真性意識といいます)とは

Ⅰ.生命の大親の生命の子として生きる真念をもつこと

Ⅱ. 生命の大親に永遠普遍に活かされているという生命の真実感を持つ

Ⅲ. 真成長発展の種としての事状身状があるということ                                                                    

Ⅳ. 親世界に活かされ生きているという生存の真感動がある

-の古い伝統的観念・伝統意識は停滞・後退・自己消滅への道であり

Ⅰ. 因縁・罪の子の観念 

Ⅱ. この世は苦の娑婆・相性が悪い・水子の霊が付いている・悪魔

Ⅲ. 宗教宗派・易等の人間の教えにすがる・現世御利益・世間体・この世的 

Ⅳ. 恨み・つらみ・ねたみ・憎しみ・そねみ・悲しみなどのマイナスの意識であります

この様にマイナスの意識からプラスの意識へ観念の真転換するのは、ちょうど、天動説を地動説のように、コペルニクスの観念の真転換をするようなものであります。

要するに生命の大親の御親意(みこころ)に適った観念の真転換を行い、マイナスの意識をプラスの意識へと出発発展の理法に沿った生き方をしなければなりません。



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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:14 | 14.「出発発展の理法」
2017年 04月 10日

13.「平均調和安定の理法」

この素晴らしい親世界を親創造された「生命の大親」が私達をより良く活かそうとして「平均調和安定の理法」の理の世界を造って下さいました。

「生命の大親」がお造り下さいました「平均調和安定の理法」は、宗教宗派、人種、民族、年齢、性別、動物、植物の差は無く、誰にでも何時でも働いております。

「平均調和安定の理法」とはバランスの法則であります。

この親世界は、このような理によって出来ている世界で、この理に逆らった行いをすれば、より良く生きて行けないのであります。

「生命の大親」が、このような理法をもって造って下さっておられます。

しかし、このような理法を誰も悟っておりません。ましてや「生命の大親」の親御存在を誰もわかっておりません。もう本当の事をわかって生きていかねばなりません。

伝統的過古のことに、とらわれて生きている人は「利」ということで生きております。これは、利用という、得して用いるということになります。

これに反して、親理という「理」を用いることのできる人は、親理を悟った親性意識を持ったものしか、理用できません。悟ったものが行うと、その理が働きます

もし悟って無いものが、知識だけで実際の生活の中で、その様な生き方をしないで、まねしても理は、働かないのであります。だから普段の生活が大事なのであります。

この「平均調和安定の理法」というバランスの法則で、世の中治まっています。

例えば、地球が太陽の周りを回っていることも「平均調和安定の理法」であります。遠心力と求心力がつりあって、そしてまわっています。
この地球上の民衆の暴動も、安定するのにもバランスが取られるのであります。
呼吸だって、吸う息と吐く息とがバランスを取っています。しかし、バランスの理法がくずれると死ぬ前になると、吐く息が長くなり、吸う息が短くなっていきます。
内臓でも五臓六腑がバランスをとって調和しております。バランスが壊れますと下痢と便秘となってきます。
「平均調和安定の理法」がないと、胃腸の働きも肝臓の働きもバランスが崩れます。全部が調和で成り立っています。音楽でも、オーケストラでも調和で成り立っています。
夫婦間でも、ケンカして相手に言い過ぎてしまうと、今度は、ご機嫌をとろうとします。

今はバランスのくずれた世界になってしまっています。自分の気持ちだけで通ったり、自分の考えだけで通って行きますとバランスが崩れることになります。

自分の気持ちだけで結婚すると後は、いやとなります。恋愛結婚で、結婚しますと、そこに親理の意味がわからずにいますと、我慢しなければならなくなっていきます。

今の地球人みたいに、物、金、地位、名誉などに執着した生き方をしていますと
バランスを崩してきます。つわりも母親と子供のバランスを取ろうとして、つわりがあるのであります。つわりのひどい時が、バランスの壊れていることをとくに現しています。
現在の地球人は、心のバランスが崩れてきています。人間関係、友人、知人、親子、兄弟、姉妹、会社の同僚、上司など、いろんなところに現れています。
自己中心の生き方は、調和が崩れていきます。家の中、様々なところで、気持ちのバランスがくずれてきています。

物事の全て、子心でありますとうまくいきません。してもらいたい人はその様になりません。子供の気持ちが荒れますと、その分、先生がバランスを取らなければならなくなってしまいます。

親理を学んだものが、相手の気持ちを抱えて通っていくようにしないとバランスが取れません。

これは親理を理用して実際にプラスの現象を実生活に現して生きていくのが、親理を実践した姿であります

こういう意味で「平均調和安定の理法」を用いるということであります。

この世界は全て「平均調和安定の理法」であるバランスの法則が働いております。

プラスをした分プラスの現象が起きます。逆にマイナスをした分マイナスの現象が起きます。当然の如くバランスが働くからであります。

どうしても他の為に役にたつ「平均調和安定の理法」に沿った生き方をして、素晴らしい生存の一生を送らなければなりません。



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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:12 | 13.「平均調和安定の理法」
2017年 04月 10日

12.能動変化の理法

私達が住んでいるこの大自然界における全ての存在や現象は、自分の方から他に働きかけるという能動的意志の「能動変化の理法によって、時時刻々と親化発展しています。

この大自然界において、常に親化発展していないものは、存在しえないということになります。

大自然界におけるあらゆる変化・現象の根源は、全て能動的な意志の働きによってなされています。何かしようと思う意志があって、そこに変化発展していくことになっています。


能動変化の理法とは、大自然界の全ての現象・変化の根源的な力と働きであります。

この世界の全ては生命の大親御自親の貴き能動的意志でありますお力お働きによってなされています

私達を活かして下さっています生命の大親能動的意志でありますお力お働きによってして下さっておられますから、私達、派生的部分であります生命の御子らも自己の能動的意志をもって、全ての運命・環境を変化発展させることが大切であります。

私達を活かして下さっています「生命の大親」のお力お働きを頂く為には、自らの能動的意志による積極的努力が必要であります

能動変化の理法」とは、自己の本質であります生命そのものの理法であります。生命の本質とは、生命のお力お働きであり、生命エネルギーそのものであります。

生命とは常に何かをしようとする能動的意志の力と働きでありますから、生命ある全ての生命の御子が、自己の運命・環境を積極的に、より価値ある生き方に向かって努力し続けることが、生命の本質に叶った生き方であります。

私達を活かして下さっています生命の大親は、能動的意志によって自らの運命・環境をよりプラスの方へと努力する生命の御子にプラスの親化発展のお力お働きをお与えて下さいます

人間社会でも、会社において役職を頂いた課長、部長に、部下を纏める力のあるものに、そのことが出来る役職である力を与えることと同じであります。

この事を現している諺に天は自ら助ける者を助ける」「意志ある所に道あり」「求めよ、さらば与えられん」「一心巌も通す」「精神一到火もまた涼しなどがあります。

能動変化の理法」とは、能動的意志による積極的生命力の使用によって、そのような変化、発展が行われるという理法であります。

この世の全ての物事は生命の大親御自親の「能動変化の理法」によって常に親化発展しています。

こういうことから、「生命の大親の生命の一部を頂いて、霊的肉体的に活かされ生きている全ての生命の御子らも自己の本質であります生命の力と働きを積極的に使って、「生命の大親の御親意(みこころ)に叶った素晴らしい生命活動を行い生命の本質に叶った価値ある人生を送らなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:07 | 12.「能動変化の理法」
2017年 04月 03日

※西郷南洲翁遺訓

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西郷隆盛(南洲翁)の到達した意識
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西郷隆盛(南洲翁)の心得のある生き方

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# by shizennori1 | 2017-04-03 11:27 | ※西郷南洲翁遺訓
2017年 03月 29日

11.「生命の親」の御存在

大自然界には自然界の大きな大きな生命の営みがあります。そこには、宗教宗派だとか、人種区別とか、動物とか、植物という差もありません。そこで私達は、生命を頂いて誕生させて頂きました。この大自然の大きな営みによって、寝ている間も心臓が動き、こうやっている間も一秒間、一秒間5000万の細胞が生まれ変わっています。これが大自然界の事実であります。

また、細胞の生まれ変わりによって、垢が出てきます。これも新陳代謝によって自分の皮膚を守ってくれた細胞の一つ一つの生命であったはずであります。全生物がこの生命の営みによって生かされております。このことは、いつでも、どこでも、誰にとっても、何にとっても、本当に大事なことであります。

私達が活かされ生きることには、宗教宗派も、人種も、民族も、動物、植物も関係なく活かされております

この大自然の大きな営みには、形がありません。しかし、この形がなくても、その力と働きはあります。エネルギーといっても、生命力といっても、生命エネルギーといっても、それは大きな生命の営みです。この生命エネルギーを頂いて、新陳代謝や血液循環をして頂いております。私達も、この大いなる生命の一部を頂いて活かされ生きております。つまり、大自然の事実から言いますと、私達の生命が活動している姿、生命活動の姿と言えるのであります。

そうすると大自然の大いなる生命は、これだけの大きな大きな生命の営み、つまり、大いなる生命活動をしていて下さっています。その内容というとは、全生物に生命を与え、全生物を活かしているという大きな生命活動をしていて下さるということになるわけです。

本当は、宗教宗派じゃなくて大いなる大自然の生命のお力お働きがありますということそのことを意味したのであります。

だから、形ないから釈迦が「色即是空」と空と言い、キリストが「天にまします我らが父よ」と言ったので、本当は、形ない大いなる生命の力と働きですよという意味がこの様になったわけであります

そうすると、この大いなる生命は、全ての生命あるものに生命を与えています。だから、生命の元といえます。私達が子供を産んだら、親というのは、我が子を通して生命が与えられたわけであります。そうすると、この大自然の大いなる生命というのは、全生物の生命の大親ということになります。そこで自然の生命の大親であることから大親である大生命ということになります。

この「自然の大いなる力と働きである大親である大生命のお力お働きは、なくてはならない必要不可欠なものであります。この力と働きがなければ、全てが成り立ちません。

この様に大自然の事実に鑑みて、誰にでも共通普遍のこととして考えていくと大親である大生命」が自然の創造主と言うことになります。
地球を回し、血液を循環させ、新陳代謝をして下さっているのは自然の創造主がして下さっていることになり、人間がしていることではないから、あえて表現すると、「生命の大親」ということになります。しかし神様の名前ではなく意味であります。いわゆるパパとかママと言う概念になります。そうすればお互いに宗教宗派で喧嘩する必要はないはずであります。誰にでも当たり前のことになります。

人間の作った宗教宗派は、自分たちの拝んでいる神様が違うと言って喧嘩をしています。神様を、キリスト教では、天なる父といい、仏教では空、大日如来といい、イスラム教では、アラーといい、ユダヤ教では、エホバといって、歴史的にお互いに殺し合い憎しみあって来ました。人間が勝手に作った神様が違うと言って争ってきました。そのような神は存在いたしません。

の本質は宗教宗派を越えた誰にでも当てはまる共通普遍なものであります

この事が判りますと
「生命の大親」から見ると私達は生命の御子ということになります。そうすると生命の親子となり、全生物が生命の家族ということになります。
そしたら、生命に宗教宗派も人種差別も動物植物の差もありませんということになるわけであります。 このような考え方になると、そこには生命の愛があり、助け合って生きていくことになるわけであります。こういうことをどうしても悟らなければなりません。真実であるからであります

だから宗教は、集狂(しゅうきょう)であり、事実に違反していることに気が付いていません
私たちは皆、同じ力と働きを頂いて活かされ生きております。


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# by shizennori1 | 2017-03-29 17:48 | 11.「生命の親」の御存在
2017年 03月 17日

10.運命を良くする生命霊財産(徳)②

「生命の親」が生命そのものにつけて下さっている運命財産・徳の事が生きて行くのに大変重要なことであります。素晴らしく生きていくのに この事が分かって生きて行かなければなりません。
それに己の意識を高めるのには知性・理性・感性を更に高めていかなければなりません。

「生命の親」よりお授け頂いた誠に貴い親理をここに伝えさせて頂きます。
お授けを頂いて、教えて頂かないと何一つ分かりません。自分の持っている意識には無い意識であるからであります。

     徳積みの理

とは「生命の親」が保証して下さった生命的クレジットカードの如きものであります。
「生命の親」の生命的保証カードは通用範囲が広く大自然の全ての事柄に通用します。

何日何処で誰にでも何にでも通用し自分が願った通りの運命や現象を現す事ができるという
「生命の親」の生命的クレジットカードは 永遠普遍に価値あるものであります。

という形而上的クレジットカードは大変便利なものでありますが便利だからと言って使いすぎるとの取り過ぎとなり天の差し引き勘定がなされます。

生命的徳の保証カードは1回使用する毎に自己の天の徳の貯蓄は減っていきます
の貯金が無くなりますと不徳人となります。
人間の金を貯金するところは銀行でありますが徳を貯金するところは生命的次元の世界であります天の金行であります。

〝汝ら心して天に徳を積め〞とキリストも天国への徳積を教えていった。

不徳な者がこの地上での金や宝物財産を持つとかえってこれらのものに執着し失う事の不安と増々物質的現世的なものにとりついて霊的観念波動が欲望の奴隷となっていく
やがて消え去っていく物質界の現象に囚われた霊魂となって地上での金や物や権力を持った事がかえって霊的災いの種となりマイナスとなります。

凡そ大宇宙 物質現象界の全ては生命の御子らの霊的成長発展の為に創造されたものであります。
地上の全ての物事は 他に対して役に立ててこそ真価が発揮されます。
金も物も肉体も心も 霊的観念波動も 生命力も 役割機能の原則に沿って使用してこそ価値があります。

「生命の親」の御親意に沿って他の為に役立ててゆくことが徳積であります。
「生命の親」の親理のお力お働きによって創造された世界に
「生命の親」の生命の一部を生命の御子として頂き 親の理によってこの世に活かされ生きているのが全生物の姿であります。


この世で得る全てのものは 元来「生命の親」より与えられたものであり 徳積とはこの世の物事をどれだけ多く 「生命の親」の御親意(みこころ)に沿って役立てる事ができるかということであります。
それ故に 金や物や権力を自分のためだけに取り込んで執着していたのでは増々不徳な者となります。
金や物や権力など自分のために取り込んで欲望の奴隷となった者は自己の霊的段階を下げて生命的原動力の徳を失い 下位落するものであります。
己の魂を売って世俗の快楽を得たというゲーテのファーストと同じことです。
蛸が己の足を食べ目先で食欲を満たすのと同じ事であります。砂漠で喉が渇いたと言って持っている水を全部飲んでしまうのと同じ事です。
一時的満足はありますが砂漠を渡りきるまでに最も大切な生命を失う事になります。

物質文明におぼれている現代の人類は目先で物を得て己れ自しんのと自己の霊的段階を下位落させているです。

地球という自然資源に限りがあると判っていながら増々物質的豊かさのみを追い求め      
人口を増加させていっています。


「生命の親」
の御親意に叶い他にプラスを行った種が自ら徳として帰ってくる
この事が
徳積の原理であります。


情けは人の為ならずという諺があります。 他の人のために行った善行は結局自分自しんの大いなるプラスとして循環してめぐってくるという事であります。だから人のために情けをかけた事は人のためではなく むしろ自分自しんのためなのだという意味であります。これを循環の理法というのであります。
この世の全ては循環の理法によって成り立っています。
大宇宙もすべてが循環しているのであります。

他にプラスを与えた行いが種となって 自らにプラスが返ってきます。
他のためにプラス行わずして 神仏に願ったとしても絶対にプラスは自分に返ってはきません。
種を蒔かずして米を生やす神仏などはどこにも居ません。
原因なくして結果はないのであります。 
これは

「生命の親」
の絶対的な親理(真理法則)であり 必要不可欠な理法であります。
麦を蒔けば麦が生え 柿をまけば柿が生える
全ての事は種通りに増えて 結果として戻ってくるのであります。


「生命の親」の親理のお力お働きは正確無比であり循環の理法は絶対であります。

行いの種がプラスであれば絶対プラスが返りマイナスならばマイナスが生えてきます。
種まかずしてしては何事も生えてきません。
日々プラスの種をまいていく徳積を 日々おつなぎといいます。
日々 親理のお力お働きによって活かされ生きて居ります。

生命の御子らの全ての生命を代表してその感謝と喜びを「生命の親」にお受け取り頂き
真性地球親化発展の為に役立つ最大の徳積の理
日々のおつなぎであります。


この地上の全ては生命の御子らが徳積を行い生命的霊的自己の本質を向上発展させる為の材料であり 金は徳積のための材料であり 物も材料であります。
肉体も心も才能も全て徳積を行うための材料であります。

自らが自らの自由意思で使用できるものは全て役割機能の原則に沿って役立て徳積を行うための材料であります。

真性地球親化発展に役立ってこそ自己の存在価値が高まり増々向上発展します。
日々のおつなぎを行って徳を積んでこそ自らの事情身情も見事に親御守護頂けます。

徳積を行って事情身情諸々の願い事などの親御守護を頂いた場合は人生の充実感と生存の価値が一段と高まり霊的観念の向上発展と生命力の開発が更になされていきます。
おつなぎとは親縁をつなぐ理であります

「生命の親」と真性なる意識の悟りにより生命の御子として生命的親縁で直結されたものである証明であります。


◎この物質現象界で徳の事について表した記述があります
 松下幸之助の遺した言葉として徳行というのがあります
 
 徳行
人間としていちばん尊いものは徳である
だが徳は、教えることも習うこともできない
自分で身につけるしかない

   松下幸之助は、いくら知識やお金や、そのほかいろいろなものがあったとしても、
徳がなければそれらは生きてこないと考えていましたが、次の言葉は、ある青年から、
「徳を高めるにはどうすればいいのですか」と問われて答えたものです。

 それは私のほうが聞きたいな。私自身がいちばんそれを知りたい。むしろ、君から教えて
欲しい。こっちで聞きたいくらいです。
 しかし、徳というものは、漫然としているけれども、何よりこれがいちばんの宝でしょう。
技術も大事だし、学問も大事だけれど、徳を持たずして学問も成り立たないわけです。だから、本当の学者というのは、非常に徳の高い人でしょう。
仮に、高徳の聖といわれるようなお坊さんがいたとするでしょう。その弟子が五人いるとしたら、その五人が五人とも高徳のお坊さんになるというものではないわけです。なかにはお師匠さんに反対する人もあるし、いろいろ出てくる。だから、いかに高徳のお坊さんでも、それを人に教えることはできない。やはり、〝これが人の道だな〞というものを自分で探し求めて、悟るしかないのでしょう。その参考にいろいろ教えを聞くということはいいわけです。いま、きみは参考に聞いているのだと思いますから、参考に話をしてあげられたらいいのですが、私もはっきりいってまだ分からない。今、求道中です。
 〝君が徳が大事である.何とかして徳を高めたい〞ということを考えれば、もうそのことが徳の道にはいっているといえます。しかし技術は教えることも習うこともできるけれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。御釈迦さんでも修行して、いかに艱難辛苦しても、悟れないときは悟れなかったわけです。悟れるときは何の苦労もせずに悟れた。
私が思うには、御釈迦さんは終始一貫、〝悟りをひらきたい。この宇宙というものについての道を知りたい〞という要求だけは強かったわけですね。死にかけて、倒れて気絶するという瞬間でも、それだけは忘れずに求めていたのだとは思います。それで、菩提樹の下でほっと悟りをひらいた。
そんなもんですからね、君がそういうことを考えることはいいと思うし、私に質問
していることも、その過程を踏んでいるわけです。だから、そういう心がまえでやっていってください。
私もしっかりやるから。

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# by shizennori1 | 2017-03-17 17:07 | 10.運命を良くする生命霊財産(徳)②