2017年 04月 11日

21.「機会・場の理法」

「生命の大親」は御自親の永遠普遍なる親時間空間の理の一部を私達、生命の御子らの御霊(みたま)の親成長発展地球の親性親化発展のために授けていて下さっておられます。

「親時間空間の理」というのは「生命の大親」のお力・お働きにより、この物質界(形ある世界)の「時間と空間の理」を、私達、生命の御子らの為に親現(現していて下さって)お造り下さっておられます。

「生命の流れ」としての「時間の理」を、現していて下さっておられ、更に「生命の広がり」として「空間の理」を現していて下さっておられます。

地球の親性親化発展とは「生命の大親」が、この地球を素晴らしい生命の愛に満ちた、お互いに助け合う、親性という生命性に目覚めた地球に成長発展していく惑星の地球になっていくことであります

生命の御子らの生命活動であります親命霊界(みたま・こころの世界)や親物質界(形あるせかい)の全ての霊的生命活動も、物質体的生命活動も全ては「生命の大親」がお授け下さいました「親時間空間の理」機会・場であります。

「有意味行為の原則」により「生命の大親」が、どういう理由で、この親時間空間を私達にお授けして下さっているのかをしっかりと悟らなければなりません。

「生命の大親」は全ての生命の御子らに「親時間空間の理」真性地球の親性親化発展の為の「真種・真材料の理」としてお授け下さっておられる事をしっかり悟らなければなりません。

「真種・真材料の理とは、自分の行いの種が、真種として地球を良くする為の真材料で通ることであります。

「生命の大親」より、お授け頂いている運命・環境の全ての機会・場の親時間空間を、理に沿って活用しなければなりません

「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿って、地球をより良くする為のお役に立って、親時間空間を使用させて頂かなければなりません

「生命の大親」により、お授け頂いている価値ある貴い機会・場を大事にして、無駄にしてはいけないのであります。
自個自芯の低次元の感情や観念により、親時間空間を無駄にした生き方をしてはいけないのであります

特に今生、「親時間空間の理」を最大・最高・最善に「真種・真材料の理」として真活用して生きなければなりません

「生命の大親」が親現していて下さる「親時間空間の理」の一部を、それぞれの生命の御子は、自分の運命環境の時空間としてお授け頂いております。この事が「機会・場の理法」であります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 14:47 | 21.「機会・場の理法」
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」③

運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしているのでは、本質的に犬猫などの動物と変わらないのです。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからであります。

交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのであります。

親がどういう子供を欲しいといっても
「生命の大親」の大自然から与えて頂くしか授かりません。親が子供をつくるのではなく、大自然から、子供を授けていただくのであります

「生命の大親」は大自然の力と働きによって、全ての生物の霊的成長に最も必要でプラスとなる運命・環境をお与え下さるのであります。

運命・環境は決して悪いものはありません。問題は、その問題をどの様に通るかであります。

必ず通れる問題であります。問題そのものをマイナスにとらえてはいけません。問題があるから努力して伸びていくのであります。何もなかったらおもしろくありません。問題があるのはプラスのことであり、やりがいがあることであります。しかし、なかなかプラスに思えずにマイナスに思ってしまいます。ではマイナスに思ってそのようになってもいいのですかというと、そうなりたくないと言います。それだったらプラスに素直に思えばよいことになっていることになります。

マイナスの否定的な、ネガティブな、悲壮感な考え方に陥りやすいのです。このような観念、意識を、プラスの方へ切り替えなければなりません。このことを意識の真転換と言います。


「生命の大親」より大自然を通して与えられる運命・環境は、全生物にとって、実に重大なものであります。

「生命の大親」は全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのであります。

全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることであります。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのであります。


「生命の大親」は、全生物の生存にとって、そして全ての生物の霊的成長発展にとって必要な事を大自然を通して与えて下さっているのであります。

肉体的生存にとって必要な事、例えば大宇宙を創造して太陽や月、地球をつくり、海山川等の環境を整え、生物の物質的体をつくる等、この物質界で生存する事に必要なすべての行為を「生命の大親」が大自然を通して行っていて下さるのであります。

人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え耳が聞こえ口がきけて、手足を動かせるような人間としての物質体的な体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのであります。

「生命の大親」は全生物の肉体的生存に必要な物質的全てのことを行っていて下さる一方で、霊的成長発展に必要な運命的な事柄も与えて下さっているのであります。


大自然より活かされ生きている人間の親だけが、人間の子に精神的・肉体的に必要な事を与えて、元の
「生命の大親」が運命的・霊的に必要なことを与えないということはあり得ません。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。

「生命の大親」が最も根本的に望んでおられる事は、生命の御子であります全生物の霊的成長発展であり、肉体的生存はそのために必要な経験と味わいを霊魂に与える方法手段なのです。

従って「生命の大親」は、生命をもった御子であります全生物がそれぞれに必要な経験を味わえるようにこの世における様々な運命・環境をお与え下さっておられるのです。


各霊魂(たましい・精神)にとってどの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのであります。


「生命の大親」は親の子であります人間に自由意志を与えてくれています。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのであります。

だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境に生えてくる為の「行いの種」なのであります。

自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのであります。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。

自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのであります。

「原因・結果の理法とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して真理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからであります。

原因・結果とは、正に厳しくて有難い絶対なる理法であります。プラスにもマイナスにも原因どおりに結果が現れなければ、絶対的な大自然の親理(真理法則)とはいえません。

原因・結果永遠普遍なる絶対的な、大自然の親理(真理法則)なのであります。
「生命の大親」
の絶対的掟であり、永遠普遍の決まりなのであります。

運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからであります。

「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切であります。

人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのであります。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と徳と力を残してあげる事が最大の宝物であります。

大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方がずっと大きな価値なのであります。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからであります。

人類の生命的な質と力が高まるためには、人類が生命的絶対の「生命の大親」の御存在に目覚め、「生命の大親」の大自然の力と働きに対してもっともっと素直になるべきであります。

生命も肉体的生存も人間が根源的に創造し営んでいるのではありません。


要するに徳を増やす生き方をしなくてなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:12 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」②

医学が大自然の親理(真理法則)と対立するという考えは明らかな間違いであり、親理(真理法則)を悟っていない非科学者的発想であります。

大自然の全ての営みは総合されております。人間を含め全生物の生存とは肉体的要因だけで生きているのではありません精神的・霊的・運命的・生命的、更に環境的な要因などが全て綜合されて活かされ生きているのであります

病気が治ることを一例として取り上げてみても、医学的な肉体の治療だけがすべてではありません。治るだけの生命力が高まり、治るだけの運命・環境が整い、治るだけの観念となることが必要であります。

たとえ、医学的な治療がうまくいったとしても、そのような治療がたまたま受けられるかどうかは運命的要因が影響してきます。同じ治療や手術でもある人は助かり、ある人は治らないのであります。医学者は治そうとして最大・最善の努力をしますが、それでも結果は違ってくるのであります。

医者の立場にも運命的力は働いています。治り易い患者を多く扱う医者もいれば、幾ら技量が優れていても、間の悪い患者ばかりを扱う医者もおります。問題を起こす患者ばかりを扱っている医者は不運ということになります。

運・不運とは何も医者という職業だけのことではありません。全ての職業・仕事にあてはまります。人間の生存行為だけではなく、全ての生物の生存に事実としてあることなのであります。

大自然が運・不運という運命的現象を現実に起こしている以上は、そこに「原因・結果の理法が厳然として働いている証拠であります。何故なら、大自然の全ての現象や営みに「原因・結果の理法」が働いていて、運命現象にだけは働いていないということはありえないからであります。

運命現象にだけは「原因・結果の理法」がはたらかない、という事になれば、大自然の親理(真理法則)は、もはや大自然の永遠普遍の親理(真理法則)ではなくなります。

大自然の「原因・結果の理法」を否定したならば、一切の科学も学問も、人間の社会生活も成り立たなくなります。第一、この大自然自体の存在と現象が成り立たなくなるのであります。

成り立っている以上は、そこに永遠普遍に働く「原因・結果の理法」を認めざるを得ないのであります。

大自然の力と働きは全て綜合的であるのですから、一部的・部分的・刹那的な見方や感情的・感覚的とらえ方は間違いのもとになります。

特に親子は、体質的、性格的、霊的、運命的などいろいろな要因がつながり、共通しております。人格的、観念的に子が親の影響を受けない筈はありません。むしろ、子に一番影響を与えているのが親なのです。だから、昔から諺に「親の因果が子に報い」と言っているのであります。

親の人格、価値観、行動、観念、情緒など全てが子に影響します。子は親の全てを吸収して自己の人格、観念、性質などの人間性を形成していくのであります。だから、親の念波は九割であると言われているのであります。

子にとって親とは、父母を意味します。親という概念は子にとっては一体性のものであります。従って、両親の仲が悪かったり、価値観が異なっていたりした場合、子供は情緒が不安定になります。父母の意見の対立は、子にとって自己分裂を起こすのです。職業が何であれ、運命・環境がどうであれ、子供にとっては両親が一致していてくれることが大切であります

最近の傾向として、父が仕事だけに一生懸命となり、母が子供の事だけにかまけて、子供を過保護に育ててしまうことがあります。この結果、子供の情緒は不安定となり、子は欠損人格となります。子供自身にストレスがたまってやりきれなくなるのであります。そして遂に家庭内暴力・校内暴力と発展していくのであります。暴走族や非行化していくことも同じ原因です。ただ程度の差と方向性の違いであります。

子供を立派に育てあげるためには、お金や物質を与えることも必要ですが、それだけでは不十分であります。肉体的に子を育てるだけならば、他の動物ですらしていることです。人間の親ならば、両親が一致して人間としてこの世を素晴らしく通る観念や精神を子供に与えるべきなのです。親が自己の人格や観念を子に与えてこそ、人間の親であります。

現在、ほとんどの親達が子に物質的なものを与える事だけに関心をもち、自分達が持っている大切な心を与えることを忘れてしまっています。

大人達が、次の時代を担う子供たちの心を育て、人格を高めることを、家庭でも、学校でも怠っているのです。

その為には、まず自らが人格を高め、感謝と喜びを持った豊かな心を開発発展させなければならないのであります。自らが心の豊かさをもたずして、子に素晴らしい心や情感を与える事は出来ません。

自らが豊かな心と感動をもってこそ、子に与えることが出来るのです。

大自然の「生命の大親」に対して、自らが「生存の感謝と喜び」をもってこそ、その感謝と感動の心を子に与える事ができるのです。

「生命の大親」の生命の祝福を受け、子供を授けて戴いた人間の親達にとって最大・最高・最善の仕事は、次の時代の人類である子供たちに精神的財産を与えていく事です。

精神的財産とは、悟りと徳のことです。つまり、子供達が良い運命・環境で通れるような良い行いの種をしっかりと蒔いて行くことです。

親が蒔いた行いの種が原因となり、その結果が子供の運命・環境に確実に生えてくるのであります。

親が人格的に崇高であり、親の行いが大自然の親理(真理法則)に叶ったものであるならば、親が子に残してあげる運命的財産は素晴らしいものであります。

人間の親が残す最大のものは運命的・精神的財産です。「子孫へ美田を残すな」という諺があります。たとえ子孫に物質的財産を残しても、その財産を維持してゆけるだけの力と徳が子供になければ、子供は財産を全て失う結果となってしまいます。

子供自身の手で財産を立派にきずく事が出来るだけの運命的財産を残してあげるのが、親が子に与える最大の財産であります。

親の作った物質的財産に執着する子供よりも、自らの力でこの世を立派に生きていける力と徳を持った子供に育てあげる事が、人間の親としての最大の義務であります。

子供にとって親からの最大の精神的遺産とは、親が行った人生の事実と、親の人格そのものなのであります。親の行いは事実の種として、子供の人生に必ず運命的に生えてきます。

親のプラスの行いの種もマイナスの行いの種も、必ず子供達の人生にめぐり巡って生えてくるのであります。これが「循環の理法」であります。もし、麦という行いの種を蒔けば、好むと好まざるとにかかわらず、気付こうと気付かざるとにかかわらず、絶対に麦という運命の結果がやがて生えてくるのであります。

原因を行っておいて、運命・環境にだけは結果が現れない、という考え方は最も非科学的であり、矛盾しております。

大自然が与える運命的要因だけには、原因・結果を認めようとしないのは、大自然の「生命の大親」に対する冒瀆であります。大自然に逆らう事になるのであります。

「生命の大親」の大自然の力と働きによって生命を与えられて活かされ生きている人間が大自然に逆らっては良い運命・環境になる理由がありません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:11 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」①

科学は大自然の事実を事実としてとらえて、その原因・結果を探求していくものです。例えば医学は肉体的なことの原因・結果を究明していくものです。しかし、肉体的なことが精神や情緒に影響されるという事の事実が判明すれば、医学は肉体的な物質面からだけの原因・結果を調べるだけではすまされないのです。


生命あるもの、感情あるものは、総てその心の状態が肉体に影響します。これは当然の事ですが、最も大切で絶対に犯すことができない大自然の原理原則です。

もし心配事があれば、ぐっすりと安眠は出来ません。常に不安でいらいらしていれば、心臓にも良くないし、胃にも悪いのは当たり前のことです。ストレスが体に悪いことは当然です。

情緒が不安定であれば、心を紛らす為に酒を飲んだりすることは自己保存の本能による精神安定を求めた姿ですが、却って酒で肉体的健康を害したりして何の徳にもならないのです。しかし、こんな事はよく判っていながら感情にながされて酒を飲み体を悪くするケースが多いのです。だが、心を紛らわそうとして酒に逃げて肉体を悪くしても、心身ともになんのプラスも解決もないのです。
「原因・結果の理法」は、大自然の総てにあてはまります。物質的現象にも、肉体的ことがらにも、心や感情の面にもあてはまるのです。そして大切なことは、運命的な原因・結果もあるのです。

大自然がそのような現象を起こす以上は、そこに運命的原因・結果が厳然として働いているのです。

今迄、人間は運命的原因・結果を白蛇・悪霊・方位方角・易・家相・墓相・印鑑・お経・仏像・お札・手相・人相等々の所為だとしてきました。これらのものは人間が勝手に観念の産物として創造したものです。人間自身の勝手な錯覚なのであります。


運命的原因・結果
は大自然の「生命の大親」の親理法則の力と働きによってなされるものであり、それぞれの運命・環境を与えられて、全生物の生存が40億年にも亘りこの惑星地球で続いて居るのであります。

何時・何処でどの様な親の許にどんな状態でこの世に生まれてくるのか、いつ誰と出会いどのような事を行うか、何歳の時にどんな病気をするか、事故にあうのか等は全て運命・環境として大自然の「原因・結果の理法」のお力と働きによって与えられるものであります。
大自然の全ての現象にはそれぞれの原因・結果が厳然としてあるのであります。
ただ、今まで人間がこの運命的原因・結果の事実を認識していなかっただけの事なのです。

人間が科学として行っていることは、大自然の色々な事実を「原因・結果の理法」によって認識・理解することなのであります。

原因・結果を肉体面にあてはめて認識・理解をおこなっているのが医学であり、認識・理解の対象を天体にした場合は天文学となるのであります。心理学でも、原子物理学でも、あらゆる学問・科学とは「原因・結果の法則」にあてはめて認識・理解を行うことなのであります。

しかし、人間は未だ運命現象を対象とした原因・結果の研究も、認識・理解もしていないのであります。

大自然が行っている総ての現象に「原因・結果の理法」が働いている事を人間は認識・理解しているのにもかかわらず、大自然が与えてくれている運命的現象にだけは原因・結果がないと考えるのは、大変な矛盾であります。

「生命の大親」が大自然をとおして行って下さっている運命現象の原因・結果を人間が未だ認識・理解していないが故に、運命・環境に働く「原因・結果の理法」が信じられないのです。

しかし、大自然の親理(真理法則)とは、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、何時・何処でも、誰にでも、何にでも事実として絶対に働いている原則であります。


人間の認識・理解を越えて事実その原因通りに結果が現れるのであります。

人間に自由意志を与え、知性・理性・感性を与えて科学、芸術、哲学、宗教 などを発達させるようにしている根源的力と働きは大自然にあるのであります。即ち、人間のあらゆる生存行為すらその根源は大自然の「生命の大親」にあるのだ、ということであります。


人間は
「生命の大親」によってこのように発達する運命・環境を本質的に与えられているのであるということであります。


従って、科学も、医学も,全ての学問は大自然のそれぞれの部分を対象として、大自然の親理(真理法則)を認識・理解する人間の生存行為であるといえるのであります。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:10 | 20.「原因・結果の理法」①
2017年 04月 11日

19.「作用総合の理法」

「生命の大親」の親創造された「親理」という無形なるものがあります。この事が一般的に言われる掟、決まりということであります。

「生命の大親」生命的段階から捉えると――親理という事になります。

霊的な段階から捉えますと――――真理・摂理という事であります

物質的段階から捉えますと――――法則という事です。

例えば、道路交通法は、人間が作った掟であり、自然界に最初からあったものではありません。

この世の掟として、地球が回るとか、麦を蒔いたら麦が生えるとか、という掟は「生命の大親」が造られたものであります。

大自然の中に活かされている限り、この「生命の大親」の決まりによって造られ存在させて頂いています。だから、大自然の掟に従わざる負えないのであります。それが「親理」であります。

しかし私達は、物質的に知識、学問や科学として探求してくると、物理法則として今、捉えているだけであります。

「親理」は、何時、如何なる時も、如何なることにも通用するのであります。これは、永遠普遍性であり、全てに通用するのであります

「生命の大親」は大自然の全て、大宇宙の全てを「親理」によって構成して下さっておられます。全てがそれで出来ている普遍法則であります。それを宗教では部分的に捉えています。万有引力の法則が、特定のところだけに働いている事はありえません

「親理」は誰にでも永遠普遍に働いているのであります。又「親理」を知識として捉えるのではなく、実感として捉えなければなりません。実感にするには、自ら努力して能動的に生命の力を出していかないとそうはなりません。何かを行う力を出さないとそうなりません。

物質としての米とか秋刀魚を取ったら、通用範囲の広いお金に換金します。そのお金を運命環境を良くする「徳」に換えなければなりません。この「徳」は盗むことも、貸すことも、あげる事も出来ません。

この運命財産であります「徳」があれば素晴らしく生きていけるのであります。

しかし、人間は、この世界を創造して下さった「生命の大親」に対して、この世は苦の娑婆だとか、因縁があるとか、先祖が浮かばれていないとか、悪の世界だとか言って、決して素晴らしい世界であるとは言っていません。だから、現代人は、物はありますが、より良く生きていける「徳」という運命貯金がありません。

「徳」のないものは、知識で捉えてしまいます。

「徳」のあるものは、実際の生活で役に立つように身につけるのであります。

素晴らしく生きて行けるよう「生命の大親」の造られた「理法」「作用総合の理法」というのがあります

「作用総合の理法」とは、「あらゆる存在は、全部が総合され何らかの作用性をもってのみ存在している」ということで作用性のないものはありえませんということです。

つまり、何らかの影響がないということはあり得ないということであります

例えば、着物一枚でも、作った人もいれば、販売する人もいます。更にその人達の食料を作った人もいれば、その食料を作った人の農家の家を作った人もいます。この様に考えていきますと全部が関連していますし、影響しない人はありえません。

このような考え方に立つと、自分一人がマイナスで通ると地球をマイナスにする事になります。今日一日、頭にきたと人生で思っても影響します。

現在があるのは過去が全部総合してあったからであります。家庭の中でも一人のひとが機嫌が悪いと家族全部に影響します。

しかし、そこで相手が変な顔をしても、こちらは、にこっとして絶対親念で接する事が大事であります。問題はその時がチャンスであります

私達がプラスで生きるか生きないか、私達が一銭一厘も、お金の使い方が生命にとって、プラスになるように使うか使わないかによって、地球全体の「徳」という事についての作用性ももっています。全ては作用されて総合的になっています。

大宇宙の全て(物質界)も、命霊界(霊界のこと、意識の世界)の全ても、生命界(いのちの世界のこと)の全ても、生命の世界は元々全てが総合された作用の中に存在している世界であります。これが生命の自他一体の世界であります。一即多、多即一であります。一つが全体、全体が一つであります。

時計もいろんな部品で成り立っていますが、でも一つの時計としての総合された時計であります。いわゆる部品が総合されたものであります。

大自然、大宇宙の全ての存在、全ての生命は「作用総合の理法」によってつながっているのであります。

全人類の全生物のアリ一匹でも、アリの生命も全体としての存在であります。

元々、全てがつながっているのが「生命の大親」だけであります。全て「生命の大親」につながっています。基本的に繋がらなければならないのは「生命の大親」であります

物質も生命の一つの生命の形であります。物質も生命の理が働いています。

全部「生命の大親」は総合して下さっておられます。

時間的に総合しているのが永遠性であります。

空間的に総合しているのが普遍性であります。全部ひとつのもので関係ないものはありません

素晴らしい生命の感謝をもって感動をもって生きたら全てに影響していきます。全部に本当に影響いたします。

時間的にも、今のこの一瞬を生命の感謝で通ったら、自分の全体の運命や環境にも影響するのであります。

「親理」は、全てに通用するのであります。こういうことから、親理を悟る為に生きているといっても過言ではありません。

より素晴らしく「生命の大親」につながるべきです。

「作用総合の理法」は、あらゆる個の存在、全体としての存在が作用総合されてのみ存在しうるということであります。個々があるということは、全体としてまとまらなければならないということであります。

この世界を造られたのは「作用総合の理法」と表裏一体のことであります。

これからは、あらゆることに関連があるということから、一瞬一瞬、今日の気持ち一つ、個々のこと、全体として全部影響があるという事で「親理」に沿って、プラス、プラスの気持ちで大いなる親発展を遂げなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:59 | 19.「作用総合の理法」
2017年 04月 11日

18.「終止限界の理法」

人間の世界にだけ法律・秩序があって、大自然界の営みの中に絶対的な掟がないことはありえません。むしろ、大自然界の中に掟があるからこそ、全ての営みがなされています。掟・秩序は、一つの決まりがあるからこそ存在している。

体の中にも秩序があります。一つのきちんとした働きがあります。私達も口から食べています。口以外から食べてはいません。

つまり、秩序がなければ、この世界は混沌としている世界であります。例えば、電子がまわっているとか、生まれて死ぬとか、野球をやっているとき掟がなかったら成り立ちません。要するに、ルールを壊したら存在できないという事であります。

大自然の存在があり、地球も太陽を中心に回っています。銀河系も1回転するのに2億4000万年かかって回っています。

大自然の掟を否定したら成り立たなくなります

「生命の大親」の親創造された「終止限界の理法」という基本的ルールがあります。これは、必ず、全てに区切りがありますよという事であります。

前世に死んだから今生、生まれたのであります。昼ごはんが終わったから夕食が食べられるのであります。テレビも一つのシーンが終わるから次のシーンになります。

終わりがなかったら、どういう事になるのでしょうか。野球も終わりがなかったらどういうことになるかというと成り立ちません。

「終止限界の理法」は自然現象を現わすのに必要な理法であります。私達がこの物質界へ生まれてきて終わりがあるという事は素晴らしい事であります。最後は「生命の大親」がお造り下さいました「終止限界の理法」へ到達するのであります。

地球にも、私達の体も区切りがあります。従って、春夏秋冬の四季にしても、一日の区切りにしても、一時間、一年という区切りにしても、全「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」がなければ自然界の全ては成り立ちません

元々は生命的な世界には区切りがないのに物質界の為にわざわざ「終止限界の理法」「生命の大親」はお造りになったのであります。

普通の細胞には区切りがあります。しかし、がん細胞には区切りがありません。細胞増殖が続いていき、区切りがありません。ですから区切りがあるから有り難いのであります

区切りがないと大自然界は成り立たないのであります。区切りがあるからこそ有り難いのです。

物質界の区切りがあるという事で、いろんな物質現象が行われる事の素晴らしさがあります。区切りがあるという事が判りますと、区切りの無いことがわかります。

区切りがないというのは何かといいますと、形のない生命の方で、目に見えない生命の本質であります。

生命の本質は、永遠性であり、永遠なる生命の生きる感動をわざわざ区切りのある物質界で味わせてもらっているのであります。

出会いがあれば別れがあります。出会いが素晴らしければ別れも素晴らしいのであります。始めがあれば、終わりがあります「終止限界の理法」があるから全てのものが味わいがあります

全ての現象は「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」を悟りますと

①死に対する恐怖がなくなります

②あらゆるマイナスのことを切ることが出来ます。

③自分のマイナスの観念をプラスに切り換える事が出来ますしかし、頑固に自分の観念を主張して切り換えようとしない人は、別であります。

態度、言葉もよりプラスに積極的に行わなければなりません。

こういうことから、人生の終わりの時、喜びと親感謝で迎える方がよいか、それとも恐怖と不安といらだたしさと苦しみで迎えた方がよいかという事になります。つまり、終わりがあるという事、終わりが無いと生まれても死なない事になります。映画が始まっても終わらない事になりますし、御飯を食べだしたら終わらない事になります。終わらないと苦しみになります。だから、終わる事は有り難いのであります。何故なら死んでも又生まれてくるからであります。生命エネルギーは無くなりません。

私達が生きているのは、この物質界であります地球に旅行に来ているのであります。だから、人生劇場といっているのであります。つまり、一人一人が役をもらって劇をしているのであります。

「終止限界の理法」は時々刻々と働いております。赤ちゃんも時々刻々と過去の姿に、お別れして現在の体に変化しております。結婚も「終止限界の理法」で独身時代の過去に終わりを告げております。

自分の過去と「終止限界の理法」で別れ、けじめをつけるのであります。小学生から中学生になったら区切りをつけます。

しかし、困った事に最近、区切りがなくなってきているのが問題であります「終止限界の理法」に逆らった生き方をしています。男性でも、自分が夫や父親である区切りをつけないものがあります。

夫婦喧嘩でも、関係の無い、過去のことを持ち出して喧嘩しております。その時には「終止限界の理法」を使って終わりにしなければなりません。過去の事を持ち出しますと際限がありません。自分のマイナスの性格には、さよならして思い切ってプラスの方へ向かわなければなりません。面白い事に、夫婦のほめあいが続いているという事は聞いたことがありません。いい事には、思い切ってやらないのに、悪い事は、一生懸命やっています。

「終止限界の理法」で切れ目が良い人は発展性があります。4,5歳の子供の愚痴をあまり聞いたことがありません。今泣いたカラスが、もう笑ったといいます。しかし、年を取ってきますと、愚痴が始まると長いです。なかなか、スパッと切り換えられません。

「問題にしている人に、問題にしている分だけの、問題があります」ということで、切り換えが難しいです。

切り換える時は、思い切ってやらなければなりません「清水の舞台から飛び降りる」という諺どおりの気持ちで行わなければなりません

なかなか、決断の付かない人は「終止限界の理法」の弱い人であります。ぐずぐず悩んだ時に「終止限界の理法」を活用しなければなりません。理を活用するのは、実際の生活に当てはめて見ますと一つの発展があります。

要するに、其の人の運命的な「徳」の力しか働きません

一番大事なことは、私達は「生命の大親」に祝福を頂いて、この親物質界に生まれさせて頂いております。私達は「生命の大親」につながり「生命の大親」にお受け取り頂く事ができますよう、生きる生命の感動で生きなければなりません。

生きる生命の感動なしに生きても価値はありません。生きる生命の感動の為にあらゆる生存行為は行われております。

あえて困難な事に挑戦して「終止限界の理法」を活用し、運命財産であります「徳」を高めて、地球が良くなる為の生き方を絶対なる親念(信じる、信じないの信念ではありません)をもって行わなければなりません


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:51 | 18.「終止限界の理法」
2017年 04月 11日

17.「循環の理法」

私達は生命の大親が親創造されたこの親世界に、生命の祝福を頂いて誕生させて頂いております。誰も意味なく生まれてきた人はおりません。

私達はどこの家に、第何番目に、性は男性か女性か、自分で決めて生まれてきたわけではありません。全て生命の大親の御親意(みこころ)によって生まれさせて頂いております

何の為にかというと、親の意識になるためであります。肉体は黙っていても成長していきます。しかし、精神である意識は、そのままでは成長いたしません。

意識は、その人それぞれによって皆、違います。その意識を高める為に、若い時に問題を与えられる人、中年期に問題を与えられる人、晩年に問題を与えられる人、いずれにしても、その人の一番より良い時期に、魂の成長する問題が与えられます。

それは悩みではなく、其の人が努力すれば必ず解決できる問題であります

このような問題、言い換えれば、事状(あえて事情といわない)とか身状(身情といわない)の問題が誰にでも与えられます。

決して生まれた星が悪いとか、名前が悪いとか、住んでいる方位が悪いとか、先祖が浮かばれていないとか、この世が苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、誰かの因縁があるだとか、そういうことは一切関係ありません。誰のせいでもありません。

自分の意識を高めるための問題であり、決して他のせいではありません。そのような悪い世界を生命の大親が造るわけはありません。親は苦しめるために、この世界を創造致しません。

問題を解決するに当たり、この大自然界を構成している原理、原則があります。この原理・原則・掟も生命の大親が親創造して下さっておられます
このような原理である理法は、何人が知ろうと知るまいと、何人が気付こうと気付くまいと、好むと好まざるとにかかわらず、いつでも、どこでも、誰にでも、何にでも、働いている大自然の力と働きであります

しかし、この力と働きは、事実であり、もろもろの言葉で表現しても、それは言葉であり、事実ではありません。例えばリンゴと表現しても、言葉は言葉であり、リンゴは、リンゴという事実をもって現されています。これを自明の理」といいます

自明の理とは、事実が事実をもって事実を証明し、現しているということです


こういうことからいくらこのような理法を知ってもより良くはなりません

そのような生き方をしなければ、そのようにはなりません。このような事が判って、理法を生命に刻まなければなりません。

その一つの原理が循環の理法であります。

この循環の理法は誰にでも当てはまる原理・原則・掟であります。私達の生きているこの地球は、春夏秋冬と自転、公転をしています。血液も心臓から出て、心臓に帰ってきます。種を蒔くと芽が出て、葉が現れ、花を咲かせ、実を付け、やがて枯れてまた種になっていきます。人間も息を吸ってまた息を吐き、寝ては起き寝ては起きます。言葉も「させて→頂きます」「行って→いらっしゃいませ」と循環しております。輪廻転生という言葉も、生まれ変わるという意味です。この様に循環しております。

大自然界の全ては、目に見えるものも、目に見えないものも、全部循環しております。いわゆる形があろうと形がなかろうとも全て循環しております。しかし、人類は、形あるものには循環していることが判っても、形ないものにも循環していることが判っていません

だから悪い種を蒔いて自己中心の生き方をすれば、まわりまわって、その種が我が身に帰ってくることが判っていません。何故なら自分たちの行いが、目には見えないから循環してくるということが判らないでいます

このことは宗教宗派に入っていようといまいと男性女性も関係なく、人種も年齢も動物人間も一切関係ありません。つまり自然界の原則・原理・掟は誰にでも当てはまるということです

循環の理法によりプラスの種を蒔くと、その結果プラスの結果が現れてきます。しかし、マイナスの種を蒔くと、循環してきてマイナスの結果になります。

このような循環の理法』は、「生命の大親が、私達がより良く生きていく為に親創造してくださった親理である理法であります親理は、要するに、親の理であります

だから、私達も生命の一部を頂いていることから、肉親の親に親孝行をしなければなりませんが、それ以上、どうしても生命の大親に対して親孝行をしなければなりません。これが一番の生き方の根本であります。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:45 | 17.「循環の理法」
2017年 04月 11日

16.「強度継続の理法」

この世の全ての存在・現象は、その存在・現象をあらしめる為に絶対時間的な継続が必要であります。即ち「存在する」という事は、絶対時間の上で何らかの継続があるからであります。

絶対時間とは、相対的この世の時間を超越したものであります。時間の本質的理を意味するものであります

もし「強度継続の理法」の働きがなくて、時間的に「0秒」の存在であれば、その存在は有りえないのであります。つまり存在している時間がなくては存在していないことなのであります

存在・現象をあらしめる理の力と働きが無くては、絶対時間に於ける瞬時の存在・現象の継続も有りえません

凡ての存在・現象は、それを時間の継続としてあらしめる理の力と働き、あってこそ有りえるのであります。

継続させる強度は意志の強さによります。意志の堅さは強度継続の強さに通じます。例えば、鉄は堅いものであるから、何十階建のビルでも建てることができます。しかし、豆腐ではたてられません

意志をどこまで貫くかによって、どれだけ困難なことを克服できるかが決まるのであります

「強度継続の理法」は時間的な長さでありますから、より永遠に継続するためには、意志の力と働きを強くしなければなりません

どこまでも努力し続けることが、この理法では最も大切であります。

求め続ける事によって「生命の大親」「強度継続の理法」の力が働くのであります。

意志の強さというものは、自己の生命エネルギーの開発発展によってなされるものであります

「生命の大親」のすべての親理の理用は、自己の生命力の開発発展によってなされるものであります

ここでいう理用とは「生命の大親」の親創造された原理・原則であります親理に沿った生き方をすることであります。

要するに「生命の大親」「強度継続の理法」に沿って、どんな困難な問題であっても、強い意志の力と働きを使って継続的努力をすることであります

諺でいいますと「千里の道も一歩から」であり「ローマは一日にして成らず」であります

その結果として、自己の生命力の開発発展となり「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った素晴らし霊的観念の親の意識になる事に決定しているのであります


つまり
「強度継続の理法」に沿って、困難な問題を克服する努力をすることにより、人の気持ちの判る、他を思いやることのできる、やさしい親の意識へと成長発展することになります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:39 | 16.「強度継続の理法」
2017年 04月 11日

15.「種類分化の理法」

この世に存在する全ての物は、みんなそれぞれに違っています。全く同じものは、この世に二つと存在いたしません。この様に生命の大親は親創造して下さっておられます。たとえ、双子であっても全く同じ顔ではありません。

「十人十色」「田で食う虫も好きずき」「割れ鍋にとじぶた」「人みて法をとけ」「豚に真珠」などの種々な諺も、種類分化の理法を基にした考え方であります。

もし、この世の全ての事柄が、種類分化の理法によって異なっていないならば、「十人十色」という考え方は出てきません。

「十人十色」とは、種類・分化されて、この世は存在している事を悟らせる為の一つの例にしか過ぎません。人の顔も、指紋も、浜辺の砂の一粒一粒も、一つ一つの雪の結晶も、みんな違うものであります

この世は、「種類分化の理法によって、全て個々の異なったもの(個有性)で成立していることを悟らなければなりません。この様に生命の大親は、親創造して下さっています。

種類分化の理法」で、この世は成立しているという事は、もしこの理法が働かなければ、この世は成立し得ないということになります。

もし、この理法の働きがなければという仮定で、この世の姿を想定してみますと、例えば、もし種類分化の理法が働かなければ、リンゴやバナナという種々な果物は存在し得ない。更に、果物・野菜・穀類・などの食物の種類すら、存在し得ない事になります。。

種類分化していく働きを無くしたら、食物と非食物の違いも無くなるし、更に種々な物質の違いも無く、分子・原子・種々な素粒子の種類も違いも無くなってしまい、更に又、物質と非物質(物質と形而上的存在)の違いも無くなってしまい、もはやこの世は成り立たなくなります。

理法とは、この世を成立させている最も根元的かつ基本的なこの世の掟であります。

従って理法は、この世の全てにあてはまるのが当然であります。すなわち、理法は永遠・普遍の存在であります。

理性的価値判断・・・・・・「理の判断」・・・・・・理法の価値観

理の判断とは、いつでも、どこでもあてはまる理法を基にして、理性的に物事を判断する事をいいます理法を基準とした価値観であります。永遠普遍の価値観であります。この世の大自然の事実が事実をもって証明している価値観であります。

要するに、大自然という生命の大親の絶対的価値体系を大自然の理法(真理法則)をもって理性的に判断し、悟っていくことが理の判断であります。

この世は「種類分化の理法」でそれぞれが個有性を持ち成立しているのでありますから、互いに個を認めあい、尊重しあう事は理法に適したことであります。

人種差別や宗教宗派で互いに争い、けなしあうことは理法に逆らったことであり、間違いであります。自分が気にいらないからと、感情で相手を非難し否定する事は間違いであります

種類分化の理法が悟れたなら、人類は互いの生存を脅かす様な争いを止め、国家のエゴをここまでむき出しにせず、もっと平和の住み良い世界にすることが出来ます

「種類分化の理法」による「理の判断」

種類分化の理法」によって、この世は色々のものが、それぞれ個の特色をもって存在しています。色々のものを色々と味わう為に、「生命の大親」は、色々と味わう為のもろもろの器官を授けられました。この器官とは、眼や耳や鼻、舌などの五感といわれているものであります。

眼は色々なものを、良く見分ける為の器官であります。眼の使い方が理に適っているなら、眼は、眼としての役割機能を増々良くはたすようになり、問題は起こりませんが、逆に理に逆らっている場合は、色々と障害が起こります。

例えば「あんな人は見たくない、会いたくない」とか嫁姑が互いに「顔も見たくない」などと見ることに対してマイナスの意識を常に持ち、眼の役割機能に対して否定的な心使いをしていれば、その様な精神波動が潜在的に意識の中に蓄積して、次第に肉体的眼の機能に障害が起きます。

耳に関しても同じ事であります。耳を使いより良く人様の言うことを聞き分ける事は、理に適った行いであります。

理に反した行いとは、自分が一方的いこじな固定観念(ステレオタイプのアイデア)をもち、他人の言う事には耳をかさず、がんとして自分の固定観念だけを押し通すような場合であります一般的に“つんぼのガンコ親父”といわれるのは固定観念によって、人の言う事に耳を傾けなくなり、耳の役割機能を失った姿であります。

お年寄りでも、耳の良く聞こえる人も居れば、聞こえない人も居るという差が出てくる理由は、耳の役割機能を十分に肯定的に使っているか、それとも否定的に使っているかによるものであります

私は絶対にお前の言うことなんか聞かないよ」とか「そんな事は聞きたくない」と言って、聞けることに感謝がなく、不足していると、耳は遠くなります。

この世は種類分化の理法によって、個々の特色ある存在によって成立しているのであるから、見分け、聞き分けを良くして差を認識しあって通る事が、理に適った生き方であります。

差を認め合うからこそ、調和を保つために更に大きな心へと人格の成長発展がなされるのであります

色々な個性の差を認識することにより、それを包含する為のより大きな、より本質的な考えが必然的に必要とされてくるのであります。この事が悟りであり人格の成長発展であります。

人生において、人が色々の困難な問題にぶつかった時、人は新たなる体験や認識を行います。新しい体験や認識は、自分の今までの考えを拡大し、人生問題を解決する為には、どうしても自分から脱皮して自分の考え、態度、行いを改善改良せざるを得なくなります。「苦労は買ってでもせよ」という事は苦労すれば、するほど、自分の成長発展に結局は還元されるからであります

このような理法を知識として身につけたとしても、或いはこの理法がああだ、こうだと色々のところで話したとしても、その様な生き方をしなければ本当の「生命の大親を悟らなければ、その様な現象は現れないし、その様な理は働きません

真摯に生命の大親の御親意(みこころ)に沿った生き方が大変重要 になるわけであります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 10:41 | 15.「種類分化の理法」
2017年 04月 10日

14.「出発発展の理法」

この親物質界を親創造された生命の大親の御親意(みこころ)によって、親設定されました大自然の親理(真理法則)の一つに「出発発展の理法」があります。

この理法は、大自然の基本的原理・原則であり、この世の全てを構成している絶対的な掟であります

親のこの親理を、人類は科学知識によって大自然の物理的側面からのみ捉えて、自然の物理法則として認識してきました。また、宗教では、自己の宗教の真理や仏法・道などとして観念的に捉えてきました。

この様な捉え方は部分的であり、表面的なものです。決して本質を把握したものではありません。

生命の大親の永遠普遍の貴き親理として悟る事が唯一の本質的捉え方であります。

宗教での真理や仏法などは、その宗教の真理や仏法がなくても、大自然の全ての存在や営みには何ら関係ありません。

大自然の大いなる生命の営みや存在に絶対に必要不可欠なるものの一つが「出発発展の理法」という親理であります。

この親理である出発発展の理法は、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、大自然のあらゆる全てを構成し全ての営みを行うために、何時、何処でも、誰にでも何にでも働いてい生命の大親の大生命エネルギーによる永遠普遍なる生命的な掟であります

出発発展の理法」は、この世のあらゆる存在・現象は時々刻々と常に新しい形状に向かって出発発展しているということです。つまり、この世は全てが常に変化しており、前の古い形や状態から新たなる形や状態になっていきますというのがこの理法であります。

昨日の自分と、今日の自分とでは一日分違います。「出発発展の理法」によって何事も常に昨日までの古い形や状態を脱皮して、今日は新しい形や状態に変化して行っているのであります。

生命の大親によって肉体的・物理的には常に変化発展しているにもかかわらず、自分の精神面だけが、何時までたっても自己のマイナスの観念から変化せずに停滞していたのでは、日々の生存の価値はありません。

その為にはプラスに向かって思い切った出発発展が必要であります。

生命の大親の御親意(みこころ)に適った出発発展することを観念の真転換といいます。自己の古いマイナスの観念を切り換えて、思い切った真転換を出発発展の理法に沿って行わなければなりません。

+の観念に真転換する意識(真性意識といいます)とは

Ⅰ.生命の大親の生命の子として生きる真念をもつこと

Ⅱ. 生命の大親に永遠普遍に活かされているという生命の真実感を持つ

Ⅲ. 真成長発展の種としての事状身状があるということ                                                                    

Ⅳ. 親世界に活かされ生きているという生存の真感動がある

-の古い伝統的観念・伝統意識は停滞・後退・自己消滅への道であり

Ⅰ. 因縁・罪の子の観念 

Ⅱ. この世は苦の娑婆・相性が悪い・水子の霊が付いている・悪魔

Ⅲ. 宗教宗派・易等の人間の教えにすがる・現世御利益・世間体・この世的 

Ⅳ. 恨み・つらみ・ねたみ・憎しみ・そねみ・悲しみなどのマイナスの意識であります

この様にマイナスの意識からプラスの意識へ観念の真転換するのは、ちょうど、天動説を地動説のように、コペルニクスの観念の真転換をするようなものであります。

要するに生命の大親の御親意(みこころ)に適った観念の真転換を行い、マイナスの意識をプラスの意識へと出発発展の理法に沿った生き方をしなければなりません。



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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:14 | 14.「出発発展の理法」
2017年 04月 10日

13.「平均調和安定の理法」

この素晴らしい親世界を親創造された「生命の大親」が私達をより良く活かそうとして「平均調和安定の理法」の理の世界を造って下さいました。

「生命の大親」がお造り下さいました「平均調和安定の理法」は、宗教宗派、人種、民族、年齢、性別、動物、植物の差は無く、誰にでも何時でも働いております。

「平均調和安定の理法」とはバランスの法則であります。

この親世界は、このような理によって出来ている世界で、この理に逆らった行いをすれば、より良く生きて行けないのであります。

「生命の大親」が、このような理法をもって造って下さっておられます。

しかし、このような理法を誰も悟っておりません。ましてや「生命の大親」の親御存在を誰もわかっておりません。もう本当の事をわかって生きていかねばなりません。

伝統的過古のことに、とらわれて生きている人は「利」ということで生きております。これは、利用という、得して用いるということになります。

これに反して、親理という「理」を用いることのできる人は、親理を悟った親性意識を持ったものしか、理用できません。悟ったものが行うと、その理が働きます

もし悟って無いものが、知識だけで実際の生活の中で、その様な生き方をしないで、まねしても理は、働かないのであります。だから普段の生活が大事なのであります。

この「平均調和安定の理法」というバランスの法則で、世の中治まっています。

例えば、地球が太陽の周りを回っていることも「平均調和安定の理法」であります。遠心力と求心力がつりあって、そしてまわっています。
この地球上の民衆の暴動も、安定するのにもバランスが取られるのであります。
呼吸だって、吸う息と吐く息とがバランスを取っています。しかし、バランスの理法がくずれると死ぬ前になると、吐く息が長くなり、吸う息が短くなっていきます。
内臓でも五臓六腑がバランスをとって調和しております。バランスが壊れますと下痢と便秘となってきます。
「平均調和安定の理法」がないと、胃腸の働きも肝臓の働きもバランスが崩れます。全部が調和で成り立っています。音楽でも、オーケストラでも調和で成り立っています。
夫婦間でも、ケンカして相手に言い過ぎてしまうと、今度は、ご機嫌をとろうとします。

今はバランスのくずれた世界になってしまっています。自分の気持ちだけで通ったり、自分の考えだけで通って行きますとバランスが崩れることになります。

自分の気持ちだけで結婚すると後は、いやとなります。恋愛結婚で、結婚しますと、そこに親理の意味がわからずにいますと、我慢しなければならなくなっていきます。

今の地球人みたいに、物、金、地位、名誉などに執着した生き方をしていますと
バランスを崩してきます。つわりも母親と子供のバランスを取ろうとして、つわりがあるのであります。つわりのひどい時が、バランスの壊れていることをとくに現しています。
現在の地球人は、心のバランスが崩れてきています。人間関係、友人、知人、親子、兄弟、姉妹、会社の同僚、上司など、いろんなところに現れています。
自己中心の生き方は、調和が崩れていきます。家の中、様々なところで、気持ちのバランスがくずれてきています。

物事の全て、子心でありますとうまくいきません。してもらいたい人はその様になりません。子供の気持ちが荒れますと、その分、先生がバランスを取らなければならなくなってしまいます。

親理を学んだものが、相手の気持ちを抱えて通っていくようにしないとバランスが取れません。

これは親理を理用して実際にプラスの現象を実生活に現して生きていくのが、親理を実践した姿であります

こういう意味で「平均調和安定の理法」を用いるということであります。

この世界は全て「平均調和安定の理法」であるバランスの法則が働いております。

プラスをした分プラスの現象が起きます。逆にマイナスをした分マイナスの現象が起きます。当然の如くバランスが働くからであります。

どうしても他の為に役にたつ「平均調和安定の理法」に沿った生き方をして、素晴らしい生存の一生を送らなければなりません。



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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:12 | 13.「平均調和安定の理法」
2017年 04月 10日

12.能動変化の理法

私達が住んでいるこの大自然界における全ての存在や現象は、自分の方から他に働きかけるという能動的意志の「能動変化の理法によって、時時刻々と親化発展しています。

この大自然界において、常に親化発展していないものは、存在しえないということになります。

大自然界におけるあらゆる変化・現象の根源は、全て能動的な意志の働きによってなされています。何かしようと思う意志があって、そこに変化発展していくことになっています。


能動変化の理法とは、大自然界の全ての現象・変化の根源的な力と働きであります。

この世界の全ては生命の大親御自親の貴き能動的意志でありますお力お働きによってなされています

私達を活かして下さっています生命の大親能動的意志でありますお力お働きによってして下さっておられますから、私達、派生的部分であります生命の御子らも自己の能動的意志をもって、全ての運命・環境を変化発展させることが大切であります。

私達を活かして下さっています生命の大親のお力お働きを頂く為には、自らの能動的意志による積極的努力が必要であります

能動変化の理法」とは、自己の本質であります生命そのものの理法であります。生命の本質とは、生命のお力お働きであり、生命エネルギーそのものであります。

生命とは常に何かをしようとする能動的意志の力と働きでありますから、生命ある全ての生命の御子が、自己の運命・環境を積極的に、より価値ある生き方に向かって努力し続けることが、生命の本質に叶った生き方であります。

私達を活かして下さっています生命の大親は、能動的意志によって自らの運命・環境をよりプラスの方へと努力する生命の御子にプラスの親化発展のお力お働きをお与えて下さいます

人間社会でも、会社において役職を頂いた課長、部長に、部下を纏める力のあるものに、そのことが出来る役職である力を与えることと同じであります。

この事を現している諺に天は自ら助ける者を助ける」「意志ある所に道あり」「求めよ、さらば与えられん」「一心巌も通す」「精神一到火もまた涼しなどがあります。

能動変化の理法」とは、能動的意志による積極的生命力の使用によって、そのような変化、発展が行われるという理法であります。

この世の全ての物事は生命の大親御自親の「能動変化の理法」によって常に親化発展しています。

こういうことから、「生命の大親の生命の一部を頂いて、霊的肉体的に活かされ生きている全ての生命の御子らも自己の本質であります生命の力と働きを積極的に使って、「生命の大親の御親意(みこころ)に叶った素晴らしい生命活動を行い生命の本質に叶った価値ある人生を送らなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-10 20:07 | 12.「能動変化の理法」
2017年 04月 03日

※西郷南洲翁遺訓

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西郷隆盛(南洲翁)の到達した意識
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西郷隆盛(南洲翁)の心得のある生き方

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# by shizennori1 | 2017-04-03 11:27 | ※西郷南洲翁遺訓
2017年 03月 29日

11.「生命の親」の御存在

大自然界には自然界の大きな大きな生命の営みがあります。そこには、宗教宗派だとか、人種区別とか、動物とか、植物という差もありません。そこで私達は、生命を頂いて誕生させて頂きました。この大自然の大きな営みによって、寝ている間も心臓が動き、こうやっている間も一秒間、一秒間5000万の細胞が生まれ変わっています。これが大自然界の事実であります。

また、細胞の生まれ変わりによって、垢が出てきます。これも新陳代謝によって自分の皮膚を守ってくれた細胞の一つ一つの生命であったはずであります。全生物がこの生命の営みによって生かされております。このことは、いつでも、どこでも、誰にとっても、何にとっても、本当に大事なことであります。

私達が活かされ生きることには、宗教宗派も、人種も、民族も、動物、植物も関係なく活かされております

この大自然の大きな営みには、形がありません。しかし、この形がなくても、その力と働きはあります。エネルギーといっても、生命力といっても、生命エネルギーといっても、それは大きな生命の営みです。この生命エネルギーを頂いて、新陳代謝や血液循環をして頂いております。私達も、この大いなる生命の一部を頂いて活かされ生きております。つまり、大自然の事実から言いますと、私達の生命が活動している姿、生命活動の姿と言えるのであります。

そうすると大自然の大いなる生命は、これだけの大きな大きな生命の営み、つまり、大いなる生命活動をしていて下さっています。その内容というとは、全生物に生命を与え、全生物を活かしているという大きな生命活動をしていて下さるということになるわけです。

本当は、宗教宗派じゃなくて大いなる大自然の生命のお力お働きがありますということそのことを意味したのであります。

だから、形ないから釈迦が「色即是空」と空と言い、キリストが「天にまします我らが父よ」と言ったので、本当は、形ない大いなる生命の力と働きですよという意味がこの様になったわけであります

そうすると、この大いなる生命は、全ての生命あるものに生命を与えています。だから、生命の元といえます。私達が子供を産んだら、親というのは、我が子を通して生命が与えられたわけであります。そうすると、この大自然の大いなる生命というのは、全生物の生命の大親ということになります。そこで自然の生命の大親であることから大親である大生命ということになります。

この「自然の大いなる力と働きである大親である大生命のお力お働きは、なくてはならない必要不可欠なものであります。この力と働きがなければ、全てが成り立ちません。

この様に大自然の事実に鑑みて、誰にでも共通普遍のこととして考えていくと大親である大生命」が自然の創造主と言うことになります。
地球を回し、血液を循環させ、新陳代謝をして下さっているのは自然の創造主がして下さっていることになり、人間がしていることではないから、あえて表現すると、「生命の大親」ということになります。しかし神様の名前ではなく意味であります。いわゆるパパとかママと言う概念になります。そうすればお互いに宗教宗派で喧嘩する必要はないはずであります。誰にでも当たり前のことになります。

人間の作った宗教宗派は、自分たちの拝んでいる神様が違うと言って喧嘩をしています。神様を、キリスト教では、天なる父といい、仏教では空、大日如来といい、イスラム教では、アラーといい、ユダヤ教では、エホバといって、歴史的にお互いに殺し合い憎しみあって来ました。人間が勝手に作った神様が違うと言って争ってきました。そのような神は存在いたしません。

の本質は宗教宗派を越えた誰にでも当てはまる共通普遍なものであります

この事が判りますと
「生命の大親」から見ると私達は生命の御子ということになります。そうすると生命の親子となり、全生物が生命の家族ということになります。
そしたら、生命に宗教宗派も人種差別も動物植物の差もありませんということになるわけであります。 このような考え方になると、そこには生命の愛があり、助け合って生きていくことになるわけであります。こういうことをどうしても悟らなければなりません。真実であるからであります

だから宗教は、集狂(しゅうきょう)であり、事実に違反していることに気が付いていません
私たちは皆、同じ力と働きを頂いて活かされ生きております。


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# by shizennori1 | 2017-03-29 17:48 | 11.「生命の親」の御存在
2017年 03月 17日

10.運命を良くする生命霊財産(徳)②

「生命の親」が生命そのものにつけて下さっている運命財産・徳の事が生きて行くのに大変重要なことであります。素晴らしく生きていくのに この事が分かって生きて行かなければなりません。
それに己の意識を高めるのには知性・理性・感性を更に高めていかなければなりません。

「生命の親」よりお授け頂いた誠に貴い親理をここに伝えさせて頂きます。
お授けを頂いて、教えて頂かないと何一つ分かりません。自分の持っている意識には無い意識であるからであります。

     徳積みの理

とは「生命の親」が保証して下さった生命的クレジットカードの如きものであります。
「生命の親」の生命的保証カードは通用範囲が広く大自然の全ての事柄に通用します。

何日何処で誰にでも何にでも通用し自分が願った通りの運命や現象を現す事ができるという
「生命の親」の生命的クレジットカードは 永遠普遍に価値あるものであります。

という形而上的クレジットカードは大変便利なものでありますが便利だからと言って使いすぎるとの取り過ぎとなり天の差し引き勘定がなされます。

生命的徳の保証カードは1回使用する毎に自己の天の徳の貯蓄は減っていきます
の貯金が無くなりますと不徳人となります。
人間の金を貯金するところは銀行でありますが徳を貯金するところは生命的次元の世界であります天の金行であります。

〝汝ら心して天に徳を積め〞とキリストも天国への徳積を教えていった。

不徳な者がこの地上での金や宝物財産を持つとかえってこれらのものに執着し失う事の不安と増々物質的現世的なものにとりついて霊的観念波動が欲望の奴隷となっていく
やがて消え去っていく物質界の現象に囚われた霊魂となって地上での金や物や権力を持った事がかえって霊的災いの種となりマイナスとなります。

凡そ大宇宙 物質現象界の全ては生命の御子らの霊的成長発展の為に創造されたものであります。
地上の全ての物事は 他に対して役に立ててこそ真価が発揮されます。
金も物も肉体も心も 霊的観念波動も 生命力も 役割機能の原則に沿って使用してこそ価値があります。

「生命の親」の御親意に沿って他の為に役立ててゆくことが徳積であります。
「生命の親」の親理のお力お働きによって創造された世界に
「生命の親」の生命の一部を生命の御子として頂き 親の理によってこの世に活かされ生きているのが全生物の姿であります。


この世で得る全てのものは 元来「生命の親」より与えられたものであり 徳積とはこの世の物事をどれだけ多く 「生命の親」の御親意(みこころ)に沿って役立てる事ができるかということであります。
それ故に 金や物や権力を自分のためだけに取り込んで執着していたのでは増々不徳な者となります。
金や物や権力など自分のために取り込んで欲望の奴隷となった者は自己の霊的段階を下げて生命的原動力の徳を失い 下位落するものであります。
己の魂を売って世俗の快楽を得たというゲーテのファーストと同じことです。
蛸が己の足を食べ目先で食欲を満たすのと同じ事であります。砂漠で喉が渇いたと言って持っている水を全部飲んでしまうのと同じ事です。
一時的満足はありますが砂漠を渡りきるまでに最も大切な生命を失う事になります。

物質文明におぼれている現代の人類は目先で物を得て己れ自しんのと自己の霊的段階を下位落させているです。

地球という自然資源に限りがあると判っていながら増々物質的豊かさのみを追い求め      
人口を増加させていっています。


「生命の親」
の御親意に叶い他にプラスを行った種が自ら徳として帰ってくる
この事が
徳積の原理であります。


情けは人の為ならずという諺があります。 他の人のために行った善行は結局自分自しんの大いなるプラスとして循環してめぐってくるという事であります。だから人のために情けをかけた事は人のためではなく むしろ自分自しんのためなのだという意味であります。これを循環の理法というのであります。
この世の全ては循環の理法によって成り立っています。
大宇宙もすべてが循環しているのであります。

他にプラスを与えた行いが種となって 自らにプラスが返ってきます。
他のためにプラス行わずして 神仏に願ったとしても絶対にプラスは自分に返ってはきません。
種を蒔かずして米を生やす神仏などはどこにも居ません。
原因なくして結果はないのであります。 
これは

「生命の親」
の絶対的な親理(真理法則)であり 必要不可欠な理法であります。
麦を蒔けば麦が生え 柿をまけば柿が生える
全ての事は種通りに増えて 結果として戻ってくるのであります。


「生命の親」の親理のお力お働きは正確無比であり循環の理法は絶対であります。

行いの種がプラスであれば絶対プラスが返りマイナスならばマイナスが生えてきます。
種まかずしてしては何事も生えてきません。
日々プラスの種をまいていく徳積を 日々おつなぎといいます。
日々 親理のお力お働きによって活かされ生きて居ります。

生命の御子らの全ての生命を代表してその感謝と喜びを「生命の親」にお受け取り頂き
真性地球親化発展の為に役立つ最大の徳積の理
日々のおつなぎであります。


この地上の全ては生命の御子らが徳積を行い生命的霊的自己の本質を向上発展させる為の材料であり 金は徳積のための材料であり 物も材料であります。
肉体も心も才能も全て徳積を行うための材料であります。

自らが自らの自由意思で使用できるものは全て役割機能の原則に沿って役立て徳積を行うための材料であります。

真性地球親化発展に役立ってこそ自己の存在価値が高まり増々向上発展します。
日々のおつなぎを行って徳を積んでこそ自らの事情身情も見事に親御守護頂けます。

徳積を行って事情身情諸々の願い事などの親御守護を頂いた場合は人生の充実感と生存の価値が一段と高まり霊的観念の向上発展と生命力の開発が更になされていきます。
おつなぎとは親縁をつなぐ理であります

「生命の親」と真性なる意識の悟りにより生命の御子として生命的親縁で直結されたものである証明であります。


◎この物質現象界で徳の事について表した記述があります
 松下幸之助の遺した言葉として徳行というのがあります
 
 徳行
人間としていちばん尊いものは徳である
だが徳は、教えることも習うこともできない
自分で身につけるしかない

   松下幸之助は、いくら知識やお金や、そのほかいろいろなものがあったとしても、
徳がなければそれらは生きてこないと考えていましたが、次の言葉は、ある青年から、
「徳を高めるにはどうすればいいのですか」と問われて答えたものです。

 それは私のほうが聞きたいな。私自身がいちばんそれを知りたい。むしろ、君から教えて
欲しい。こっちで聞きたいくらいです。
 しかし、徳というものは、漫然としているけれども、何よりこれがいちばんの宝でしょう。
技術も大事だし、学問も大事だけれど、徳を持たずして学問も成り立たないわけです。だから、本当の学者というのは、非常に徳の高い人でしょう。
仮に、高徳の聖といわれるようなお坊さんがいたとするでしょう。その弟子が五人いるとしたら、その五人が五人とも高徳のお坊さんになるというものではないわけです。なかにはお師匠さんに反対する人もあるし、いろいろ出てくる。だから、いかに高徳のお坊さんでも、それを人に教えることはできない。やはり、〝これが人の道だな〞というものを自分で探し求めて、悟るしかないのでしょう。その参考にいろいろ教えを聞くということはいいわけです。いま、きみは参考に聞いているのだと思いますから、参考に話をしてあげられたらいいのですが、私もはっきりいってまだ分からない。今、求道中です。
 〝君が徳が大事である.何とかして徳を高めたい〞ということを考えれば、もうそのことが徳の道にはいっているといえます。しかし技術は教えることも習うこともできるけれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。御釈迦さんでも修行して、いかに艱難辛苦しても、悟れないときは悟れなかったわけです。悟れるときは何の苦労もせずに悟れた。
私が思うには、御釈迦さんは終始一貫、〝悟りをひらきたい。この宇宙というものについての道を知りたい〞という要求だけは強かったわけですね。死にかけて、倒れて気絶するという瞬間でも、それだけは忘れずに求めていたのだとは思います。それで、菩提樹の下でほっと悟りをひらいた。
そんなもんですからね、君がそういうことを考えることはいいと思うし、私に質問
していることも、その過程を踏んでいるわけです。だから、そういう心がまえでやっていってください。
私もしっかりやるから。

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# by shizennori1 | 2017-03-17 17:07 | 10.運命を良くする生命霊財産(徳)②
2017年 01月 14日

9.運命を良くする生命霊財産(徳)①

これより述べさせて頂く生命的財産(徳)のことを是非分かって頂きたいです。しかしこの様な事が分からないで生きても何ら価値がありません。どんなに知識をいくらもったとしても、知ったとしてもがないと何にもなりません。

私達をこの世に活かして下さっているという「生命の親」が生命そのものにつけて下さっている運命財産・徳のことをしっかり悟らなければなりません。は目に見えません。

私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」とは自然界をお創り下さっている創り主そのものの御存在であります。

人間のいう宗教宗派には一切関係ありません。生命そのもののことであります。

何故なら宗教宗派を知らなくても動物は活かされ生きて居ります。
だから、生きる事に、宗教宗派は関係ないことになるのであります。

その上でどの様に生きたらよいのかと言うことになります。
「生命の親」が私達の生命につけて下さっておられます徳の事が非常に大事になるのであります。

徳とは、生命そのものについている運命貯金・運命財産であります。このことを悟って生きていかなければなりません。

   お供えの理

お供えとは、自らの備えの事であります 運命環境が増々良くなるための備えの事であります。
大自然に蓄えた運命貯金の事であります。 永遠普遍の無形財産の事であります。 自己の生命的本質となった生命的財産の事であります。

私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」が認めて下さった永遠普遍の無形財産の事であります。

私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」親理のお力お働きにより 如何なる現象も変化も可能ならしめる創造的能力の財産であります。

この無形なる永遠普遍の生命的財産をといいます。

とは 私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」が認めたものであります。大自然の全てに通用するものであります。
生命界(生命の世界)・霊界(意識の世界)・物質現象界(形ある世界)のあらゆる事柄に通用するものであります。

生命力の増強も 霊的向上発展も 運命の開発も 人生の充実も社会的肉体的向上発展も 全てという無形財産によってなされます。 とは全ての原動力であります。

金は人間が認めた社会的財産であり 人間が認めている範囲でしか通用いたしません。
人間によって創造された金は 人間がその価値を認めなくなれば もはや金として通用しなくなります。
徳に比べれば金や物が如何に多くあったとしても 自己の運命には通用いたしません。

運命環境を良くする力は生命的財産である徳にあります。

とは私達をこの世に活かして下さっているという「生命の親」が自己の生命的本質に与えて下さった永遠普遍の財産であります。

という生命的財産がなくなると たとえ老後のために社会的財産である金や物を如何に沢山たくわえておいたとしても 老後の運命環境が悪くなり 不慮のマイナスの出来事が次から次と起こり たくわえた金や物を失う結果となり不幸で孤独な生涯をとじる事になります。
人間は何日何処でどの様な事故にあうか病気になるか予測できません。
あるいは又 どんな素晴らしい出来事にあうかの予測も出来ません。

プラス・マイナスの出来事は運・不運であり 運・不運は徳・不徳によるものであります。

徳人はたとえマイナスの出来事にあったとしても その事がかえってプラスの結果を生む事になります。

災い転じて福となるのが徳人 災いが更に災いの種として増々不幸になるのが不徳人であります。

徳人は子孫に美田を残さず 
という永遠普遍の生命的財産を残す
不徳人はを残さず 美田を残す

猫に小判という諺があります。
猫に小判の価値は理解できず 不徳人の価値を理解する事はむずかしいのであります。
子孫に美田を残しても がなく不運であれば結局全てを失ってしまう結果となります

の価値と貴さを理解できるのは徳人なり

徳人は永遠普遍の生命的財産であるの価値と貴さを理解できるが不徳人には理解できません。
それは猫に小判の価値がわからぬのと同じことであります。
私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」が認めて下さった真性なる生命的財産であるの価値と貴さを理解し悟ることは人間にはむずかしいのであります。

真性を開発した生命の御子であるならば、それは容易であり、当然な事として徳積ができます。即ち 真性なる意識と人間的目先の意識の違いであります。

真性なる生命の意識は 永遠普遍の生命本来の財産である徳を求めます。
物質現象界の人間の意識は今生だけの目先の社会的欲求だけを満たそうとするのであります。


私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」が認めて下さったという価値と人間が認めた金という価値の相違を判るのが生命の御子であります。

真性を開発した生命の御子は徳積みを行って最高最善の備えを行うことになります。
人間は金という社会的第二次段階の価値の備えしか判らないのであります。

人間は老後の備えしか考えないが真性を開発した生命の御子は霊的意識に戻った世界の事 更に又 再び肉体を与えられてこの物質現象界に誕生する来生 再来生のこと迄を考慮して永遠普遍に通用する備えを行うのであります。

今世 この世に生を受けて誕生した事も 今日まで活かされ生きてきた事も種々な運命や環境が与えられてきた事も 全てが大自然における私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」のお力お働きの賜であります。

私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」の親理のお力お働きを無視して人間考えで老後の備えを行う事は幼稚園の子供が親の愛の力と働きを無視して自分の小遣銭をためて生きてゆこうとするが如きものであります。

自分を育ててくれる親の力と働きを無視しては生きて行けません。同様に
私達をこの世に活かして下さっている「生命の親」の大自然のお力お働きを無視しては全生物の全存在はあり得ません。

今生の老後だけの金銭的物質的備えは自己の本質的備えとはなりません。
しんの本質的備えとは 自己の生命的向上発展と霊的観念の高まりのために
永遠普遍の生命的財産であるを積むことであります。

大自然の全ては私達をこの世に活かして下さっているという「生命の親」の親理のお力お働きによって成立し営まれています。

とは 私達をこの世に活かして下さっているという「生命の親」 の親理のお力お働きをどれだけ自由に使用させて頂けるかという分量であります。
あるいは どれだけ自分の望みを達成させてもらえるかという分量であります。


が十分に備蓄されているならばどうしてもこの様な運命になりたいと願えばその様な運命として現れるのであります。
良縁を望めば良縁となって現れる。 仕事を望めば望んだ仕事が与えられる。 どうしてもこの病気を治してもらいたいと願えば病気がなおることになります。 一般世間の人間考えではそれを奇跡と呼ぶが それは決して奇跡ではなく「原因結果の理法」にかなった当然の結果であります。
誰でも理にかなって行えばできることであります。

運が良かった悪かったとか間が良かった悪かったという事は全て徳・不徳の結果であります。
徳人であれば如何なる人生を通ろうともその人生を味わいある喜びと感謝の生涯とすることができます。
人生を充実させ自己の霊的観念の高まりと「生命の法則」に沿った向上発展を行うことができます。
不徳な者は如何に恵まれた運命や環境であろうとも不足不満の苦しみの人生を送る結果となってしまいます。

物質的に多量の消費を行い豊かに恵まれている筈の現代人が生存の喜びや感謝の念を持つ事ができずむしろ不足や不安感を抱いて暮らしているのは不徳なるが故であります。

不徳な者は如何に物や金があろうとも喜びと感謝にあふれた人生を送れません


不徳な者は如何に素晴らしい人間関係や環境が与えられようとも それを素晴らしいものとして受け取ることができず、むしろ不足と不満で通ることになります。

徳とは人生を如何に幸せに通れるかを決める本質的要因であります。

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# by shizennori1 | 2017-01-14 18:56 | 9.運命を良くする生命霊財産(徳)
2016年 12月 30日

8.有意味行為の原則

この素晴らし親の世界を親創造して下さっている「生命の大親」がより良く生きて行く為につくられた「有意味行為の原則」という原理・原則があります。

私達を活かして下さっておられます「生命の大親」の存在は、決して宗教宗派でいう神様ではありません。誰にでも当てはまる共通普遍の「生命の大親」であります。この様な「生命の大親」が存在しないと、この世が成り立たなくなってしまいます。必要不可欠なる存在であります。

しかし、宗教宗派の神は、その宗教を信じて行っている人達にだけしか通用しない神の概念であるからであります。こういう神の概念は、狭い概念であるからであります。この様な神の概念では、人種・民族・宗教宗派の対立を生みだします。

ここで言う親の概念は、宗教宗派に入っていようが入っていまいが、その宗教宗派の神の存在があろうとなかろうと一切関係なく、私達の心臓は動かされていますし、動物の心臓も動かされています。更に活きとし生きる全ての生命は、動物植物の差も無く活かされています。この親の概念は、宗教宗派を超えて、ありとあらゆる存在に通用しています。人間の意識をこえた存在であります。自然界にはその意味の言葉がありません。神様というと一宗教宗派の事となり正確ではありません。
何故なら宗教宗派の神の存在をしらなくても生きているからであります。

生命(いのち)には宗教宗派はありません。

何故なら、心臓を動かし血液を循環させ、新陳代謝をしてもらっている力と働きには動物・植物などの差は一切ありません。全て活かされ生きております。何の宗教をしておろうとも一切関係ありません。皆、同じであります。

何人であろうとも、男性であろうとも、女性であろうとも、皆等しく活かされ生きて居ります。

このような事について、概念が無いために、かってに宗教・宗派を作り神様が違うと言って争い、対立してしまっています
本質は何かといえば生命そのもののことであります。


生命には宗教宗派が無いことが事実であります。事実が一番大事であります。

だから、親の存在は、何人が知ろうと知るまいと、何人が気付こうと気付くまいと、好むと好まざるとにかかわらず、いつでも、どこでも、誰にでも、何にでもあてはまらなければなりません。

この様な存在であります自然を創っている「生命の親」がより良く生きて行く為につくられた意味行為の原則というのがあります

例えば、電車に乗る時に、誰かの病気のお手伝いをしに行く為に電車に乗った時と、誰かと喧嘩をする為に電車に乗った時と、その電車を降りた後の価値が違いますよということであります。
電車に乗っている行いは同じであります。しかしその中身が違います。

だからよく職人さんが物をつくる時に、魂をこめて作ったときと、適当に作った時と、その見た目は同じように見えても中身が違うということになります。

料理を作る時も、ただ機械的に作った料理と、美味しく食べてもらいたいと一生懸命に作った料理とは味が違います。これが中身が違うという事です。

同じように、この親世界を素晴らしく感動的に、より良く生きて行くのか、それとも、この世は苦の娑婆だと、悪の世界だと、面白くない因縁の世界だと生きて行くのか、同じ生きることについてもプラスの生き方をするのか、それともマイナスの生き方をするのかという、その生き方の中身が問題であります。

同じ生きるのにも「生命の親」は素晴らしく生きて行くことを望んでおられます。これは当然のことであります。

食事をするのも、美味しく食べることが本質であり、美味しくなく食べることが本質ではありません。だから何も苦しく生きる必要はありません。素晴らしく生きていくべきであります。その為には他の為の生き方をすることにより徳積の生き方をしないと、つまり、いいことをしないとその様な生き方は出来ません。

最終的には徳の問題であります


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# by shizennori1 | 2016-12-30 19:39 | 8.有意味行為の原則
2016年 12月 24日

7.③知性・理性・感性

理性的判断で作り上げていったものが宗教、倫理、道徳であります。理性的判断力をずっと判断する能力で作り上げていったものを宗教といいます。一つの価値観を、価値の体系を作っていったのであります。
しかし、お互いに、これが大事だ、あれが大事だと、資本主義だ、共産主義だと価値観が違う事で喧嘩をするのであります。

そこで価値観をどうすればよいかということになります。このことから人間の作った価値観ではなく
大自然の事実の価値観にしたら問題はなくなるのであります。

生命には宗教宗派も、人種差別もありません。生命の尊厳性という事から、草木一本でも大事であります。
麦とか米が枯れて全部なくなったら生きて行けません。全ての生き物は生きていけなくなります。
如何なる生物の生命も大事であります。

お互いに生命をより高めあっていくことが自然の価値観であります。

自然と言う作り主がとすると自然が与えて下さっている我々の生命はということになります。こういうこと事実を踏まえて、そこに素晴らしい生き方があるのだなというプラスの判断をすることであります。

結婚だって、出会いだって、
自然と言う作り主のがしていて下さっておられます。
心臓を動かして下さり、寝ている間も血液を循環して下さっておられます。
自然の大きな生命の力によってしていて下さっておられます。

こういう理性的な判断が出来たら、生きる生き方がずっと高くなります。

知性理性を無意識に使うのではなく、今度は意識的に感動を高めていくことであります。
どんな相手であっても、こちらが本当にプラスの実感を持ち、本当にプラスの意識で接すると如何なる人間関係も解決していきます。

アメリカや諸々の国々がお互いに敵対心をもって接しています。これでは永遠に争いは無くならないでしょう。科学が発達しただけ敵対心をもてば、攻撃兵器は、ますます、ひどい殺人兵器となるのであります。

人類の中に愛を持たないで敵対心や憎しみを持ったときには、永久に解決にはなりません。そうすると生きる事が喜びではなく悲惨となります。
マイナスの意識で会社に行ったらいやであります。いやだって一日生きるのであります。
感性がプラスでありますと、相手のいい点を見て、或いは生きる喜びの方を見て、あゝこれは素晴らしい生きる喜びだと判断するでしょう。そしてそう判断すると気持ちがそうなるでしょう。
どちらの気持ちを掴むかは自分次第であります。次第と言うことになります。

知性という知る力を使って開発していったものを科学といいます。

理性を、つまり価値判断する能力を使って人類が開発していったものが宗教・倫理・道徳であります。

感性を使って開発していったものが芸術であります。

でもそれは大自然という事実があるからであります。例えば、バラの花の絵あったとします。バラがないとバラの絵は描けません。
人生がなかったらどんなドラマもかけないのであります。

そうすると、どちらが元といいますと現実が元であります。
自然が活かしてくれている人生が元であります。この元を良くしなければ人間が、その能力を使って開発していった、科学、倫理、道徳観、芸術も良くなりません


元の方が大事であります。元の方を良くするためには、その元を与えてくれているのは自然そのものであります。つまり、自然とは生命を与え活かしてくれている「生命の親」であります。
このことは生命そのもののことであり、どの人にも通用することであります。

どの宗教宗派でも、どういう年齢でも、男女をこえて動物・植物に関係なく全てに通用する事であります。
「生命の親」に生きる感謝をして、知性・理性・感性を高めて地球の為に、より良い生き方をすることが大事であります。


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# by shizennori1 | 2016-12-24 20:20 | 7.③知性・理性・感性について
2016年 12月 23日

6.②知性・理性・感性について

知性---事実を知る力、事実を認識する力であります。事実を事実として認識する力を知性といいます

知性
という能力を使って大自然の事実を事実として認識した。これが科学であります。

理性---事実を価値判断する能力をいいます

ここにプラスチックでつくられたリンゴがあるとします。これは食べられない。この様に事実として掴んで食べられないと判断したら、これを理性といいます。私達は、毎日判断しています。

理性として何がプラスであるか、何がマイナスであるかを判断しています。買い物に行って買おうか買うまいかと判断しています。人に会って挨拶するかしないかも判断します。

防衛庁の事について言いますと、現在、まだ意識が低い為に争う考え方しか持っておりません。
助け合う親の意識がありません。
もし、武器なしにロシアの軍隊がアメリカの中西部の砂漠地帯を緑にしたり、アメリカの軍隊や日本の自衛隊がシベリアを開発したらどうでしょうか。お互いに助け合う事が出来るのに!!

ところが、お互いの敵対心というこの意識、理性が低いから、わざわざ科学の力で人類を滅ぼしてしまうような、人類破滅のような事をやっています。

理性が低いとお互いが殺し合うような事をやってしまうというのであります。知性で原爆をつくれるとか、原子力を使えると判っていても、理性が低いとマイナスをやってしまいます。だから、理性を高めなくてはならないのです。

金儲けの為に何をやってもかまわないとか、自分の妻や夫を、また子供を殺してしまうとか、理性が低いと今日一日通るのにマイナスで通ってしまいます。

理性が低いとせっかく一緒に幸せに通ろうと思っていても、夫婦で仲たがいして通ったり、親子で対立して通ることになります。また、自分の知識を親と喧嘩して通るため使う場合があります。
理屈を言う為、人間と人間が、親子や夫婦、兄弟、家族で対立するために知識を使っても何にもなりません。
また、人類滅亡の為に、科学を使っても何にもなりません。理性を高めないと生きる価値を見出さないことになります。価値判断する能力を
理性といいます。

例えば、目に見えないものまで価値判断すると掴むことが出来ます。リンゴが落ちたという事から、万有引力の目に見えない法則を掴んだという事があります。同じ様に、自然が自分に生命を与えてくれているんだなと、生命は目に見えないエネルギーであるなと・・・・・・
そうすると自然という親が自分に対する愛情をもってくれているのだなと!!

自然の大きな生命の愛が働いて、私達全ての生命あるものに生命を与え活かしてくれているのだなと言うふうな感動を持つことが出来るのだなと判断したら、そこへ感性と言うものがあります。

感性ーーー感じる力、存在の感じる力をいいます。理性的にプラスに判断することが出来た時に感性がプラスになります。

理性を高めると生きる喜びと感動が違ってきます。

どの様に感じるかで、顔つき、雰囲気、言葉、行動が違います。

知性・理性・感性を総合的に生命の力として与えられています。プラスに使えば、生き方自体がプラスになるのであります。この三つはバラバラには働いていません。総合されています。

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# by shizennori1 | 2016-12-23 19:47 | 6.②知性・理性・感性について
2016年 12月 03日

5.①知性・理性・感性について

物の考え方について、どのように考えていけば素晴らしく生きて行けるのでしょうか?それは、意識がプラスにならなければならないという事です。食事をするときも美味しく食べたほうが良いのであります。それは美味しさを意識して食べるからです。同じ様に今日一日生きるのに素晴らしく生きているのだという、実感を持ったらいいのではないでしょうか。旅行に行って良かったという気持ちを持つことが一番大事ではないでしょうか。 

仕事でもやりがいがあるといったら価値があります。しかし、つまらないと言ったら価値がありません。
要するに意識の違いであります

或いは結婚する人たちは、あの人は素晴らしい、結婚したいと言います。しかし、結婚した、素晴らしいとしたその結婚の幸せ感が何年続くのでしょうか?4~5年すると感動がなくなります。

趣味で、釣り、ゴルフを長くやっていると味わいがあり、面白くなるのです。落語でも長くやっていると面白くなるのが本来の姿であります。
それなのにプラスの気持ちで結婚したのに、長く暮らせば暮らすほど感動があるはずなのに、そうならないのは、どこか狂っているのではないでしょうか。結婚した時、最初は喜びであったはずであります。これが10年、20年したらどうなるかという問題であります。ずいぶん意識が違うのではないでしょうか?

意識と言うのは,私達が、自分の能動的な意思で努力しないと、ずっと高めていく事が出来ないのであります。

本当は、小さな子供、若者達よりも、より長く生きたお年寄りになればなるほど、長く生きたベテランですから生きる喜びと感動が多い事になるのが本当の姿ではないでしょうか。

そこで自分の気持ちをいかにプラスにしていかなければならないかという事が大きな問題であります。

食べて美味しい、着物を買ってきて喜ぶ、結婚して幸せと思う、旅行もプラスを求めて、要するに幸せを求めての行動しかないのであります

結婚も、したばかりの時は、お互いに譲り合いますが、長くたちますとお互いに思いやりが無くなり、愛の精神が無くなってしまいます。だから意識が違ってくるという事になります。
私達の意識をよりプラスにする為に、自然界は私達一人一人に生命の能力として知性・理性・感性をお与え下さっています。
生命の力としてより良く、より幸せに生きて行こうとします。
「生きるとは生命活動の姿であります」つまり生命が活動している姿であります。

生命は、三つの能力を持っています。それが知性・理性・感性であります
知性・理性・感性はその人自身が持っている意識そのものです。

意識の中に知性・理性・感性を持っています。この意識を高めなくてはなりません。

意識を高めなくてはより良く生きて行けません。常に向上する気持ちが重要です。

この事が徳を増やす生き方になるのであります。


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# by shizennori1 | 2016-12-03 19:39 | 5.①知性・理性・感性について
2016年 11月 18日

4.徳積の生き方と不徳な生き方の相違

どの人も目には見えない徳と言う運命財産をもって生活をしています。この徳によって生き方が変わってきます。
例えば借金をしている人は、借金している分だけの不徳があります。
500万円の借金のある方は、500万円の不徳があります。
本来ならば、生き方がプラスの生き方をしてプラスの現象を得ることで悟るべきであります。
しかし、マイナスの生き方をして不徳を生じています。これを悟りとは言いません。あくまでプラスの行いから起きてくる事のプラスの現象を悟りといいます。

具体的に言いますと            目に見える世界                         目に見えない世界
                         形ある世界                             形ない世界
                         親物質現象界                           親命霊界
  
                         不徳の状態                             不徳の状態                     

e0319080_16593211.jpg
イ図の500万円の借金を返しても不徳の穴は埋まりません。
ロ図の不徳の穴を埋めながら借金を返済しなくては解決にはなりません。
ロ図の不徳の穴を、言葉で、体を使って、お金を使って、わずかずつの金額で徳積のプラスを行っていく事で埋めていきます。

金額の大小ではなく、真心をもって日々の徳積を「日々のおつなぎ」といって種まきを行い徳を増やしていきます。

その分不徳の穴が埋まっていきます。その行いを続けていく事で不徳の穴が埋まった分借金が減っていきます

問題が問題ではありません。その問題をどのように通るか、
プラスで通るか、マイナスで通るかが問題であります。
してもらいたいという子心で通るのか、してあげようという親心で通るのか、そこが問題であります。

このような生き方が変わらないと、つまり、意識がかわらないと、気持ちが変わらないと運命は変わりません。だから問題があることは良い事であります。体操の選手の方々も困難を克服するために一生懸命であります。このことは宗教宗派には関係ありません。人種・年齢・性別、一切関係ありません。

そういう意味で問題を問題とせず、清水の舞台から飛び降りるつもりで、実理として実行してみることが非常に大事であります。
とにかく、目に見えない運命貯金であります徳を増やしてみることです。

必ず行った分、その結果が出てまいります。

全てに徳が最優先します。

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# by shizennori1 | 2016-11-18 19:46 | 4.徳積の生き方と不徳な生き方の相違
2016年 11月 15日

3.徳はどうして増やせるのか

どうしたら、よりよく生きて徳を増やせるのでしょうか。それは他に対して役に立つことですそういう行いをしていくと生命に目には見えませんが徳と言う運命財産が増えていきます。
しかし、逆の行いをして他に迷惑をかけたり悪口を言ったりしてマイナスの行いをしますと徳と言う運命財産が減っていきます。徳が減った分、物事がうまくいきません
すべて徳・不徳によります。

徳のあるものは徳のあるもの同士、徳の無いものは徳の無いもの同士、集まることになっています。
これが、つまり似たものが集まることになっています。
1日1日プラスの生き方してみますと、それが種となります。その生き方が種となり増えていきます。それが地球の種となり増えていきます。すぐには広がりません。しかし必ず増えていきます。
プールの水の中にインクを数滴たらしても、水の色は直ぐに青くはなりません。しかし、その様なことを続けていきますと必ず青くなっていきます。
これが西郷南洲翁の言っていた徳を増やす生き方になるのです。これが親心であります。親はあくまでも皆のことを考えているのです。自分というものがありません。こういう生き方が大変、大事であります。
より良く生きること、これはすべての生物が望んでいる生命的な欲求であります。

具体的には、徳を増やす方法としては日々の徳積として「日々のおつなぎ」といって種まきを行います。一番出しにくいお金を他の為に出してみることです。金額は真(まこと)で行うことで、決まっていません。このようにしてまず行ってみることです。必ず結果は出てきます。

地球の人達がより良く生きて行けますようにと願いながら種をまいていきます。

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# by shizennori1 | 2016-11-15 19:53 | 3.徳はどうして増やせるのか
2016年 11月 05日

2.徳を積む生き方

私達は素晴らしく生きる生き方を学んでいかなければならないと思います。私達の生命は自然の力と働きを頂いて活かされ生きております。自分の力で生きているわけではありません。

自分の心臓の働きは、自分の意思で動かしているわけではありません。また、食べた物を自分の力で消化しているわけではありません。血液の循環も全て自然の力と働きを頂いて動かされています。
全て自然の力と働きを頂いて活かされ生きております。

こういうことを考えていきますと生命には人種・年齢・性別・動物・植物・宗教宗派は一切、関係なく活かされ生きていることがわかります。

漢方処方を考える時に、同じ薬を使用しているにもかかわらず、その人その人によって薬の効き方が違っています。その効き方を良くするのに何が違うかであります。
それはその人自身の持っている目には見えない生命の力があるかないかであります。それが生命に備わっている財産、徳、不徳にあるという事です。
より良い生き方をすると、という運命財産が増えます。逆に悪い生き方をすればが減ります。
しかし、なかなかこのことに気が付きません

運命環境を良くする為にも、あらゆる人間関係を良くする為にも、誰にとっても絶対的に必要不可欠の生命財産であるを増やすことが大変大事であります。

良い運命環境は人間のお金では買う事は出来ません。お金があってもマイナスの生き方や不幸な生き方をしています。
お金は全ての生存行為に通用する生命の財産ではないからです。が無いとマイナスの人生や生存となります。
生命活動の全てに通用するものがと言う生命財産なのです。

徳という目には見えない生命についた生命財産を増やせばより良くなっていく事になっています。問題があつたら徳を増やしてみることです。必ず現象が起きてきます


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# by shizennori1 | 2016-11-05 19:56 | 2.徳を積む生き方
2016年 09月 23日

1.よりよく生きる生き方

今まで、漢方医学を勉強して自然界について陰陽で表していることを学んできました。
体は熱量のある、熱っぽい体の人と、逆に冷えて寒寒しい人がおります。
例えば弱い体質(漢方医学では虚証という)というと病気にかかりやすい性質であり、病気が治りにくい性質であることを意味します。要するに病気に対する抵抗力が弱く、自然治癒力が弱いという事になります。
これに対して強い体質(漢方医学では実証という)とは、病気にかかっても治りやすく病気に対して抵抗力のある体質を言います。
物理的体質もさることながら、他に精神的要因も必ず作用していることがあります。

いわゆる生きることにプラス(生命に対して喜びを感じて生きている事)か、マイナス(生命に対して苦しみを感じて生きている)かであります。

すべての事に感謝・喜び・感動であるプラスの感じをもって生きているのか、それとも愚痴・不足・不満のマイナスの感じをもって生きていくかであります。
言い換えると生きる事にポジティブの生き方をするのか、またはネガティブの生き方をするのかであります。

しかし、プラスで生きて行くことが理想的な生き方となるわけなのであります。
しかしながら、なかなかプラスには感じて生きて行くことは難しいのであります。

では、どのように生きたらよいのでしょうか。
そこでプラスの生き方をする為には、他の役に立つための助けたい助けたいと思うプラスの貯金の生き方をしなければなりません
この事を先人は徳という言葉を使って表現しています。
そのような生き方をすれば徳という目には見えない運命の財産・運命の貯金が増えていきます。

しかし、助けてくれ助けてくれとマイナスの借金の生き方をすれば借金がますます増えて、徳という目には見えない運命財産・運命の借金となっていきます。

要するに、徳という貯金を増やしていくか、不徳の借金を作っていくかであります。

しかし、現実の生活の中で、このことが意識して分からず、生きる意味も分からず、つまり、生きること自体もホームレスのように、ただ生きてるから生きてるといったような生き方をしています。

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# by shizennori1 | 2016-09-23 18:46 | 1.よりよく生きる生き方
2016年 09月 03日

ⅩⅧ.正しい食物の「気味」の取り方

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それでは、五臓に関連した気味の正しい摂取の仕方について、まとめてみましょう。
古書には次のように記されています。

「すべて飲食から栄養を摂取して、生命を養っている。しかし、食物の中にはこれを食すると体に良くないものがあり、知らずに食べると、かえって害にとなるものもある。近頃の人(漢の時代)をよく見てみると、節制、養生に心を傾けようとせずに、病気にかかることが非常に多い。飲食によって病を生じない者はないのである。かりそめにも、その生命を全うしようとするならば、食べてはいけない物を知ることが大切である。
食物の味には体に良い物があり、身に害を及ぼす物もある。体に合った食物を飲食すれば、体力を益し健康になることができる。害する物を飲食すれば、それで病を起こし、このために危険を招くことになる。そのようなものは、みな治療し難いものである」

現在の美食、飽食の時代にもあてはまる警鐘で、耳を傾ける必要があるでしょう。

それでは、五臓の虚実による食物の五味の取り方についてまとめておきます。
肝臓」が弱く疲れやすい人は、酸味の物と甘い物を体に合っただけ食べるようにし、辛味の物を食べ過ぎてはいけません。
心臓」が弱く疲れやすい人は、苦味とか辛味の物をなるべく多く取るようにし、鹹味の食物を食べ過ぎないようにします。心臓が病的に強過ぎる場合には、鹹味の物を余分に取るように心掛ける必要があります。
脾胃」が虚弱で疲れやすい人は、甘味か鹹味の物をなるべく食べれば良く、酸味のものを食べ過ぎてはいけません。
脾胃が強過ぎる人は、酸味の物を摂取して、脾胃の働きを抑える必要があります。それを知らないで摂取し過ぎると胃を悪くすることがあります。自然酢を服用する場合でも、必要量をきめ、脾胃の弱い人は、酢の中に甘味を加える必要があります。
肺」が弱く疲れやすい人は、辛味とか酸味の食べ物を多く取るようにし、苦味の物を食べ過ぎないようにしましょう。肺が病的に強過ぎるときは、苦味の物を食べて、肺の働きを抑えることです。
「腎臓」が虚弱で疲れやすい人は、鹹味とか苦味のものを体に合っただけ食べるようにし、甘味の物を食べ過ぎてはいけません。
腎臓の機能が強すぎて体に変調を起こした場合には、甘味の物を少し余分に食べてください。

また、古書によると、「食による中毒を治そうとする場合には、急いで病を救おうとして、熱いままで湯薬(煎じ薬)を服用してはならない。中毒の薬は、熱を得るとますます病毒がひどくなるから、当然、湯薬がさめてから服用させなさい。中毒の場合を除いては、湯薬で服用するのが望ましい」とあります。
漢方薬には煎じ薬や散薬、丸薬などがありますが、どの形で服用するにしても、このように、体温より少し高めの温度を目安にし、白湯で服用することが、効きめが的確に現れ理想的なのです。
食中毒のような中毒症状が現れた場合は例外で、煎じ薬を冷たくして、あるいは冷たい水で服用することが、正しい手当となります。なぜならば、毒物が体内に入ると、その刺激によって熱が生じるため、冷やして鎮静させることが必要だからです。
このように、生活の中で食事ではどうしても間に合わないほどに体調を崩したり、病気になってしまったときは、安全性が高く、効き目の良い、そして自然の中からつくられた薬を服用するように心掛けてください。病勢を抑え、体力を回復させることが、健康を保持する最も大切な方法だからです。


漢方においては、このように自然の輪廻、自然との調和を中心にして、人体そのもの、あるいは生活方法を考えるのが、大きな特徴です。自然に即応し、同調した毎日を送ることが、健康生活への近道になると信じます.

                           わかりやすい漢方の食養生 元日本薬剤師会漢方委員会・委員長 藤本 肇著
                                                                 救心製薬株式会社


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# by shizennori1 | 2016-09-03 18:16 | ⅩⅧ.正しい食物の「気味」の取り方
2016年 09月 03日

ⅩⅦ.四季で変わる五臓の働き

五臓の働きは、一年一律のように思われがちですが、四季によって強弱があるのです。
古書に「春には動物の肝臓、胆嚢を食べてはいけない。夏には動物の心臓、小腸を食べてはいけない。秋には動物の肺臓、大腸を食べてはいけない。冬には動物の腎臓や膀胱を食べてはいけない。土用には動物の脾臓、胃を食べてはいけない」とあります。

その理由については、「春には人間も動物も肝臓、胆嚢の機能が高まるときで、脾胃の働きは抑えられるようになる。このときにさらに肝臓を補うと肝臓の働きが強くなり過ぎて、脾胃の働きを一層抑える結果となってしまい救いようのないひどい状態になることがあるからである。

季節が春でなければ、肝臓は一般的に虚弱になりやすいので、肝臓を食して「虚」の状態を補うのも良い方法である。他の臓もこの考え方に準じるべきである。」と記しています。

この考え方は、本草学(漢方での薬物学)の実際的経験を基本にして理論づけられたものであり、食養生の上では大切なことなのです。

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# by shizennori1 | 2016-09-03 11:31 | ⅩⅦ.季節で変わる五臓の働き
2016年 09月 02日

ⅩⅥ.四季にうまく「気」を取りこむ

自然界の動植物も人と同じように「天の気」、「地の気」の恩恵を受けて生育し、特有の気を作り上げながら、生命活動を続けています。
つまり、それぞれに気が充実する時期があり、四季によって気の充実する部分も異なってくるというわけです。
春には芽の物(たけのこ・うどの若芽)を、夏には葉の物(キャベツ・ほうれんそう)を、秋は実の物(カキ・くり)を、冬には根の物(さつまいも・かぶ)を中心に食べれば良いのです。

なぜならば、春は気温が昇り、植物が芽生え成長するときで、芽に気が集中しているからです。

葉は夏に、太陽エネルギーをいっぱいに受けて生長して行きます。

秋は収穫のときで、「天の気」が収まる時期です。植物は実に栄養を集めようとするわけです。

冬に根の物を食べると良いのは、蔵する時期に入るからです。動物も一部は冬眠に入り、万物はすべて枯れてしまい根しか残りませんが、「地の気」は根に集中します。また、根の物は、地に埋めて貯蔵ができますから、自然界に順応した食資源でもあったわけです。

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# by shizennori1 | 2016-09-02 11:36 | ⅩⅥ.四季にうまく「気」を取りこむ
2016年 09月 01日

ⅩⅤ.「食物の気」の働き

五味のほかに、漢方では「食物の気」を大切に考えます。「食物の気」は、「薬性」とも呼ばれており、その食物の持っている特有な性質でこれを「寒」、「温」、「平」の三つに大別します。

「寒」というのは、食物や生薬が体内に入ったときの冷やす働きをいい、「温」は、温める作用をさします。また、寒にも温にもかたよらないで、味の働きが主となるものを「平」といいます。

このほかに、軽く冷やす「涼」、軽く温める「微温」、強く温める「熱」などに細かく分類する場合もあります。
具体的に例をあげてみますと、柿や梨には冷やす働きがあり、酒には温める働きがあります。ですから、酒を飲み過ぎて酔ったときの早い酔い覚ましに、柿や梨は良いわけです。

更に漢方では、この気の働きと前に述べました味の働きを合わせたものを「気味」と呼び、その「気味」の組み合わせによって、食物や生薬が人体に作用する特有の働きを理論づけています。

例えば、辛温についていえば、辛は肺の機能を高めますから、温めながら肺の働きを良くすると考え、苦微温は、少し温めながら、心臓の働きを補うといった具合に、それぞれの働きに意味を持たせているわけです。

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# by shizennori1 | 2016-09-01 14:56 | ⅩⅤ.「食物の気」の働き
2016年 08月 31日

ⅩⅣ.食物・生薬の「五味」の働き

私たちに食べることの楽しさを与え、食欲を増進させるものの一つに「味」があります。食物には、「酸・苦・甘・辛・鹹」の五つの味がありますが、漢方では、この「五味」が五臓を補うという独特の考え方をとっています。これが、古典の「素問」に根ざした「医食同源」といわれている思想です。

そして、「酸は肝(胆)に入り、苦は心(小腸)に入り、甘は脾(胃)に入り、辛は肺(大腸)に入り、鹹は腎(膀胱)に入る」と、五味と各臓器との関連性を説いています。

つまり、五味が、それぞれの要素に属する五臓の「虚(働きが弱くて病的な状態)」に対して、作用することを表しているのです。

例えば、胃が悪くなると、やたらに甘い物を欲しがるようになり、欲求のままに甘い物を食べていると、必ず胸やけや胃もたれの症状を起こす結果になります。また、腎臓が悪くなる前には、やはり鹹味(しおからい)の物を食べたがります。鹹味の物を食べ過ぎると腎臓病になりやすいものです。
このように、病気と五味との因果関係には微妙なところがあります。
虚の状態から正常な状態を飛び越えて、「実(働きが強すぎて病的な状態)」の状態にならないように注意さえすれば、五味が五臓を養うという考え方には、強い説得力があるといえます。

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# by shizennori1 | 2016-08-31 18:30 | ⅩⅣ.食物・生薬の「五味」の働き
2016年 08月 31日

ⅩⅢ.「五行」思想のはじまり

古代中国の人は、生活に欠かせない基本物質として、「木・火・土・金・水」の五つを考えたのです。これが漢方での「五行」(ごぎょう)という哲学思想のはじまりで、「五行説」と呼ばれています。「五行」の行には、“めぐる″という意味があり、すべての事物や現象をこの五つに分類して、それぞれの物質が、相互に依存し合い、関係し合ってめぐっていると考えたわけです。そして人の生理現象や病理的変化を理論的に説明出来るようにし、病気の予防や治療の体系を組み立てるのに応用してきたのです。
この五行説では、人の五臓との関連を分かりやすくするために、自然の摂理を基本にして、木を肝臓、火を心臓、土を脾臓、金を肺臓、水を腎臓とみなして、理論の展開をしています。また、相互関係を表す基本的な考え方として、「相生関係」「相剋関係」とがあります。

「相生」というのは、お互いに協調し、助長し、支持し合う生理現象をさします。ちょうど母が子をいつくしむ、「生む」「生まれる」のようなつながりがあるところから、『母子関係」ということもあります。
具体的にいえば、(肝臓)は、燃えて火となり、(心臓)は、灰から後には土をつくり、(脾臓)は、ときには金となり、金(肺臓)が見つかるところには(腎臓)があり、(腎臓)は、木(肝臓)を育てるという関係になります。一方の「相剋」とは、お互いに対立し、制約し合う生理現象をさし、『支配する」「支配される」の関係にあるところから、「相勝関係」ともいいます。

表を参照しながら読んで頂くとわかりやすいのですが、水剋火というのは、水は火を消し、火剋金は、火は金をとかし、金剋木は、金属は木を切り、木剋土は、木は土中の栄養分を吸い取り、土剋水は、土は水をせき止めるという関係です。

このように、宇宙を含めた地球上のすべての事物や現象は、相互に依存し合い、相対しながら、限りなくめぐっているのです。これを「輪廻」といっていますが、漢方では自然と同調し、調和しながら生きて行くことを何よりも大切に考えます。

五行色体表

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# by shizennori1 | 2016-08-31 13:27 | ⅩⅢ.「五行」の思想のはじまり