自然の仕組み

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2017年 10月 16日

45.事状身状の助かり方

誰でも問題にぶつかり、今までに体験、経験しないことに出くわします。そこでどうしたらよいかということになり考え込みます。そしてまわりにいる人や相談できる人に相談しながら解決をしようとしております。

しかし、本質的な答えを誰もしていません。何故この問題があるのか、どうしてこの時期にあるのか誰もわかっていません。

それには、この大自然界の親体系の意味がわからないと解決できません。占いや宗教では、どうしても納得のいく本質的な解決とはなりません。判ったような判らない説明しかしてもらえません。

そこで大自然界の親体系の存在は、この大自然界そのものを生命の大親が造られた親世界であります。宗教宗派では造られていません。このことは、誰にでもあてはまる共通普遍のことであります。

その証拠に、この地球が出来てから今日まで四十数億年たっております。人類がこの地球に現れたのは、凡そ四、五百万年前ぐらい前であるといわれております。この地球が出来た時を1月1日として現在が12月31日としたならば、人類は、12月31日の午後8時位に、この地球に現れていることになります。それから各人種・民族が宗教宗派をつくり、宗教宗派によって神様が皆違っているというおかしなことになっているわけです。その結果、宗教宗派・民族同士の対立になっているわけであります。

この「生命の大親」が生命の御子である私達に、生命を与え活かして下さり、運命環境を、お与え下さっておられます。

しかも私達一人一人が一番苦手な問題を与えて下さっておられます。問題が、人間関係であろうとも、嫁姑の問題であろうとも、金銭、財産の問題であろうとも、仕事上のことであろうとも、会社の上司との関係であろうとも、夫婦の問題であろうとも、家庭内不和であろうとも、登校拒否の問題であろうとも、男女の問題であろうとも、その問題を通じて親の意識に成長する為に、その問題はあります。いつか、何処かで通らなければならなくなっています。

ちょうど先生が生徒に試験問題を出したり宿題を出すのは、生徒をいじめる為ではなく、実力を付かせる為であります。同じように生命の大親私達を親の意識へ成長させるため問題を出しておられます。親が子をいじめるために問題を出すはずはありません。より良く生きて活けるようにあるのであります。

しかし、宗教では、因縁があるとか、先祖が浮かばれていないとか、業が深いとか、悪の世界に住んでいるだとかと言い、方位が悪いとか、家相が悪いとか、名前の画数が悪いとか、常に悪い悪いと言っています。

大自然の親創造主が、悪い世界を造る訳はありません。

そして助けてくれ助けてくれと、マイナスの引き算のように、おもちゃを買って下さいとまるで子供の様にしてくれ、してくれと要求ばかりしています。マイナスの借金づくりの生き方であります。これでは助けてくれと、言った分だけ助かりません。助けてくれと言うのは、自分が助かっていないからいうのであります。子供の生き方であります。助かっている人は、有難うございますと言うはずです。

問題になることが起きた時には、その問題は、そのままにして、いじらないことです。それをどうのこうのといって、いじくり回して自己中心の考え方の渦の中に入ってしまい悩み続けてしまいます。

問題を解決する為には、今の持っている徳という運命貯金が足りません。その徳という運命貯金を増やしますと解決しますその為に徳を増やせばよいのです。しかし、どうしてそれが解決するのかということは、その様に行った事が無いから説明してもわかりません。とにかく、徳を増やす生き方をして行くと判ってきます。徳=悟りになっています。だから、徳を増やしますと、その意味を感じるし判ってきます。

そういうこともせず問題を引っ掻き回すと、がんじがらめになってどうにもならなくなってしまいます。人間の力ではどうすることも出来ません。

生命の大親」のお力お働きを頂かなくては解決いたしません。

自然界の創造主は一人分だけ努力すると、後は親であります「生命の大親」が全部背負って下さいます

植物に例えると、人間が種を蒔き、肥料をやり、除草だけ一人分だけの努力をするだけで、後は自然界の創造主の生命の大親が芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実をつけるという九割のことをして下さいます

だから一人分、つまり一割の努力で九割のことを親はしていて下さるのです。

このことから、問題はいじらず徳を増やすという努力、言葉でも、お金でも、体を使ってでも、他の役にたつ徳を増やして見ることです。

生命の大親はこのような助け合いの世界を造って下さっておられます。このような生き方をするとその様な現象が起きてまいります。

助かっている人程、更に助けようとします。だから問題があっても助けたいで通りますから、益々助かっていきます。つまりプラスの貯金の生き方であります。親の生き方であります。

この様にマイナスの要求ばかりしている生き方は、借金作りの生き方で、マイナスの不徳の生き方であり、段々沈んでいきます。

しかし他の為にとプラスの生き方は、貯金作りの生き方で、プラスの徳のある生き方になって行きます。

マイナスの不徳の生き方をすると、類は類をもって集まると言うように「泣き面にハチ」「弱り目にたたり目」と言うことになって行きます。

しかし役にたってプラスに生きる生き方をする人は、どんどん徳が増えて、「笑うかどには福きたる」というふうになって行きます。

要するに問題があった時に、プラスの徳積の他にプラスを与える親の意識で通るのか、それともマイナスの不徳の愚痴、不足、不満の子供の意識で通るのか、それは、自分次第であります

どうしてもプラスの徳積の他にプラスを与える親の意識で通る為には、日頃から他の為の役にたつ徳を増やしていく生き方をしなければ、親の意識にはなれません。また徳を積む生き方をすると、その徳のある分だけ悟ってきます。

その結果として、必ずプラスの喜びの生き方になっていくように造ってあります。これが事状・身状の助かり方になるわけであります。


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# by shizennori1 | 2017-10-16 19:56 | 45.事状身状の助かり方
2017年 09月 27日

44.十元の理法Ⅲ

「生命の大親」のお力お働きというのは「十元の理法」という法則性を持って与えられております。あらゆる全ての存在現象が「十元の理法」によって成立しています。どんな現象も、運命も、環境も、すべて「十元の理法」によって現されています。

ですから、この法則に反した場合、例えば自分が幸せになりたいと言ってマイナスの種を蒔いたとします。かぼちゃの種蒔いて、麦を穫りたいと言っても、親理法則に逆らっていますから絶対にその現象は起きない事になります。

ですから、より良くして行くより素晴らしい現象を起こすためには、実際に大自然に働いている「生命の大親」のお力お働きであります親理法則の「十元の理法」をどうしても悟る必要があります。

宗教宗派では解決いたしません。宗教は人間が作ったものであります。人類が約4,5百万年前に、地球に現れて作り出したものです。しかし、この原理・原則は人間が作り出したものではありません。これが事実であります


十元の理法

      Ⅰ.能動変化の理法
     Ⅱ.平均調和安定の理法
     Ⅲ.出発発展の理法
     Ⅳ.種類分化の理法
     Ⅴ.強度継続の理法
     Ⅵ.循環の理法
     Ⅶ.終止限界の理法
     Ⅷ.作用総合の理法
     Ⅸ.原因結果の理法
     Ⅹ.機会・場の理法

この理法というのは実際に身につけて使いこなすのには、相当の理の拝受が必要であります。

「能動変化の理法」は、全てのものが能動変化している法則であります。地球が回っているという事自体は、親の能動的な意思の働き、その結果によって地球は回っています。あらゆるものが変化しています。月も、太陽も、地球も、原子核も、変化していないものはありません。物質でも変化していきます。生命的な発展のために、あらゆる変化が行われています。

ですから、人生問題でも、やがては必ず「能動変化の理法」で変わっていくのであります。自分の人生、お先真っ暗で、もう一生駄目だということはありえません。必ずどの様な運命でも、能動変化して行って必ず新しい発展になって行きます。

一番大事なことは親理に沿って努力する事であります。問題そのものの事を考える必要はありません。どんな問題でも気にする必要はありません。

一番大事なのは、自分がどう生きるかを気にしなければなりません。親理に沿って生きれば絶対「能動変化の理法」で変わって行っているのであります。

私達も生命を頂いています。ですから黙っていても何かをしようとしています。ところが自分の霊的観念(意識、気持ちの固まり)がマイナスなものは、暇があれば、暇な生き方として、小人閑居して不善をなすと言います。不善とは良くない事、ついつい暇な時間があればマイナスの方のことを考えてしまいます。

本当は、大人は閑居すれば益々能動的な良い仕事をしていくのであります。
プラスの事。運命的発展の事。他の生命にプラスを与える事。他の人が生きているのに対して他の生存をプラスにする。他がプラスで生きれる様にしたら、自分もプラスで生きられる徳が身につくのであります。徳とは生命の財産であります。

他の生き方をプラスにしないでおいて、自分の生き方だけをプラスにしようとしても、それは、不可能であります。

他にプラスの種蒔いたら、種を蒔くのに外に蒔きます。そうしたら収穫として生えてきます。蒔かないで、刈り取るばかりしようとしても、種まきだけは嫌いだけど、収穫だけが好きだからと言っても、収穫だけやっていきましょうといっても、そんなことは出来ません。料理作らないで、食べる事だけをやっていきたいとしても無理であります。

そうしますと、小人閑居して不善をなすと言っても、本当は閑居していても、何かをしているというのが生命の能動性であります。だから、時間があればあるほどプラスをするのであります。

実際は、能動変化しているから、能動的な意志の力をプラスに使わなければなりません。

要するに「能動変化の理法」とは、全てが能動的に変化していることであり、大いなる方向へと向上している事であります。

「平均調和安定の理法」というのは、例えば、水が流れるにしても、全てより大きな平均調和安定であります。水が流れるといって、低い方へ流れた方が安定するでしょう。雨が降るという現象もそうであります。それでは、水蒸気として上がるのは,エネルギーをもらった時は、上がった方が安定している状態であります。

より安定へ向かって全てのものが、この大宇宙の全ての現象が大調和へ向かって進んでいるという事であります。

つまり、全ては、より大きな安定調和へ向かって変化しているという事であります。

「出発発展の理法」とは、全て、常に新しい形状に向かって親化発展(新化発展)している事であります。この新化という字は、進むという字ではなく、あえて新しくなるという字を書いておきました。進むというよりも、新化している。新しい形状に向かって行っているのです。)

「種類分化の理法」とは、全ては、個有性を持った種類に分化されているという事であります。

「強度継続の理法」とは、一つのものを継続していく力を貫くという事であります。

「循環の理法」とは、全ては、循環している事。繰り返しながら発展している事であります。

「終止限界の理法」とは、全てに、ある一定の限界があり終わりがあるという事であります。

「作用総合の理法」とは,全てが総合的に作用し影響しあっている事であります。

「原因結果の理法」とは、全ての原因が種であり、全てが結果収穫であるという事であります

「機会・場の理法」とは、あらゆることが、全て向上発展の機会であり、場であるという事であります。

このように「生命の大親」のお力お働きであります親理法則の「十元の理法」というもので出来ています。人類は未だそのような観念をつかんでいません。しっかりと理の拝受を行って、その理を使いこなせるようにならなければなりません。

ただ、単に知識として得たとしても何の価値もありません。何故なら、知識は忘れてしまうからであります。御霊の世界へ帰るとき(肉体的生存を終えて霊的生存に帰る時)には、実感になっていなければ、何もなりません。
実感という自分の物(霊的意識)になっていないと、もってかえれないのであります。
気持ちの収穫をして、それだけの徳という運命財産に成っていないと霊的にもってかえれないのであります。


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# by shizennori1 | 2017-09-27 17:01 | 44.十元の理法Ⅲ
2017年 09月 21日

43.十元の理法Ⅱ

「十元の理法」とは「生命の大親」が親創造されたこの世を構成しています基本的、根本的な原理、原則であります。

この世を構成している構成法であります。これを大自然の親理法則といいます。
「生命の大親」の親理であります「生命の大親」は、親理であります「十元の理法」を持ちまして、大自然の全てを創造されたのであります。

「生命の大親」の親理であります「十元の理法によって、大自然の営みは、なされているのであります。
「十元の理法」は、大自然の構成法でありますから「十元の理法」のどれ一つを否定しても、この世は成立しなくなるのであります。それ故に「十元の理法」とは、この世の成立に絶対必要不可欠なるものであります

「十元の理法」
とは、大自然を構成している原理、原則を十の面より認識、把握したものであります。
「生命の大親」の親理のお力お働きであります「十元の理法」をしっかりと悟らなければなりません。
「生命の大親」の生命力であります親生力を、生存している全ての生命あるものは頂かなければならないし、活用しなければならないのであります。


例えば「循環の理法」ということを本当に悟ったならば、全てが循環しているという事、そして麦の種を蒔いたら麦が生えてきます。さらに麦が必ず増えて生えてくるという事を悟りますと、そうすると自分の行いがプラスの種を蒔けば、運命は絶対にプラスに成るのだという事を悟っただけでも十分に世の中を通っていけるのであります。

しかし、この理法ですら人類はつかんでいません。ましてや「生命の大親」がいて下さって、全ての事を、していて下さっておられるのに、人類は全然判っておりません。

自分は、生命の一部をもらったのは事実であります。自分は、大自然の生命の一部であります。そうしたら当然そこに「生命の大親」が存在するはずであります。そして生命があるから感じられるのであります。愛も、いろんな事も感じられるのであります。生命が無くなれば考えられないはずであります。

そうしますと「生命の大親」は、自分以上に考えたり、感じたりする存在ではないでしょうか。全知全能全感全理であることは当たり前であります。

しかし古今東西いろんな哲学者ソクラテスも、アリストテレスも、カントも、ヘイゲルも、プラトンも、孔子、老子も、デカルト,ショウペンハウエルも「生命の大親」の事を説いておりません。

つまり、親がいるという事、子供がいるという事は親がいるという事であります。親の因果が子に報いとは言っているのでありますが、どうして「生命の大親」の親御存在だけは、気がつかないのでしょうか? 人間には、そこまでの意識しか持っていないことになります。

「循環の理法」という言葉を使わなくても、循環している事実には変わりはないのであります。循環している事実が大事なのであります。循環している事実を実感としてとらえなければならないのであります。一生懸命プラスで通ろうと言って、プラスで通ったらどうでしょう? プラスの種蒔いたのだから、プラスの現象が必ず現れてきます。現象を起こす力が、大自然の親理(真理法則)であります。

この「十元の理法」は、現象を起こす力であります。この現象を起こす力が判っていれば、現象がどんなにマイナスであっても驚く事はありません。プラスを行えばよいからであります。プラスを行えば、プラスの種蒔いたのだから、プラスの現象が必ず現れてきます


例えば、お互いに好きで、結婚したくて一緒になったはずなのに、文句ばっかり言って、喧嘩ばかりして暮らしています。マイナスの意識が多い事です
プラスの行いをしたら良いのに、プラスを致しません。かぼちゃの種蒔いて、麦が欲しいといっても、そうはなりません。文句の種蒔いて、仲良く、素晴らしくなりたいと思っても、そのようには、なりません。マイナスの種蒔いて、プラスには成りません。


事実
「生命の大親」がいてくれて、絶対的な生命の愛を与えてくれています。愛が感じられないのは、人間側なのであります。親の心子知らずといいます。感じられないものにはないのであります。

一生懸命、親が、我が子を心配して、オロオロしても子供はウルサイと言っていたら子供は、親の気持ちが判らないのではないでしょうか。 子供の方は愛を感じていないだけなんです。

では、人類はどうでしょうか「生命の大親」の大きな生命的愛を全然感じないでいます。私は空しい、僕は寂しいと、一人ぼっちだと「生命の大親の生命の愛を感じないで生きていて、誰も「生命の大親」の愛をわからないでいます。生命的祝福を得て生まれてきた、特定の親の元に生まれさせて頂いたという「生命の大親」の愛を誰も知らないで生きています。誰も判っておりません。

ところが、自分が如何に知らないか、未だ如何に至らないかということが悟れたら大変な進歩であります。親理(真理)を学べば学ぶほど、至らない事が判ってまいります。

「生命の大親」の愛を感じ、感動を持って生きる事ができれば、生きる価値になります。


   十元の理法

      Ⅰ.能動変化の理法
     Ⅱ.平均調和安定の理法
     Ⅲ.出発発展の理法
     Ⅳ.種類分化の理法
     Ⅴ.強度継続の理法
     Ⅵ.循環の理法
     Ⅶ.終止限界の理法
     Ⅷ.作用総合の理法
     Ⅸ.原因結果の理法
     Ⅹ.機会・場の理法


あらゆる全ての存在現象が「十元の理法」によって成立しています。ですからどんな現象も、どんな運命も環境も、全部「十元の理法」によって現されています。このことから、この理法を悟ることにより、あらゆる現象を起こすことが出来ます。


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# by shizennori1 | 2017-09-21 12:02 | 43.十元の理法Ⅱ
2017年 09月 18日

42.十元の理法Ⅰ

この世の中はどの様に出来ているか、どういう原則で出来ているかと言いますと「生命の大親より、お与え頂いている親理で出来ております。

ここで与えられている全てのものは,天啓であります。親の実際の御親意(みこころ)であります。天啓というのは条件があります。

天啓というものは、第一番目 あらゆるものに通用しなければなりません。

あらゆるものに通用しなければ天啓とはいえないのであります。自分の宗教にだけ通用するというのは、天啓ではありません。
何時、何処にでも、誰にでも、何にでも絶対的に通用しているものでなければ、天啓とは、いえません。ですから、全てに通用すると言ったら
普遍性といえます。何時でも通用すると言いますと永遠であるといえます。

つまり、永遠普遍性が天啓の特色であります「生命の大親は、大自然の全てをお創りに、なられました。全てをおやりになっているのですから「生命の大親」の御言葉であり、全てに通用いたします。

「循環の理法」と言いますと、アンドロメダ星雲にも通用いたします。しかし、聖書も、お経も、アンドロメダ星雲には通用いたしません。

つまり第一番目は、永遠普遍性であります。このことは絶対的に通用いたします。

第二番目は、それが無くてはならないものであります。無くてはそれが出来ないと言いますと、こういうのを絶対的に必要不可欠なるものであるということであります

四十億年も、この地球上で、生命現象が行われてきました。恐竜時代には、聖書もお経もありませんでした。犬、猫も、聖書、お経は、知りません。知らなくても生きています。

しかし「循環の理法」というのは、全てが循環しています。これは「生命の大親の掟であります。人間が掟をやっている訳ではありません。人間は、地球を回すことはできません

「循環の理法」といいますと、原子核も、素粒子も、電子も循環しています。分子もそうであります。新陳代謝も、血液も、地球も、太陽も、銀河宇宙も、アンドロメダ星雲も、生まれて死んでも、あらゆるものが「循環の理法によって成り立っています。これは、絶対的に必要不可欠なものであります。こういうのを天啓といいます

「種類分化の理法」というのがあります。あらゆるものが、種類分化されています。そして存在しているという事であります。

種類分化という、個有性、自分独特の個有性で、其の人独特の顔つきをもっています。その種類分化が全然なかったら、顔つきが同じだったら、男と女という種類も無かったらどうなるでしょうか。水素、酸素、窒素、鉄、こんなものが無かったらどうなりますか。体だっても、種類分化に分かれています。手も、足も、顔も、目も、鼻も、種類分化であります。太陽も、月も、種類分化がなければ、この世は成り立ちません。

つまり、無くてはならないこの世の中を成り立たせています十の法則であります原理原則のことを「十元の理法」といいます。
第三番目 大自然界の事実そのものでなければ価値はありません。

大自然の事実そのもので在ることが、絶対条件であります。事実が事実をもって事実であることを立証する。これ以上の事実の証明は、ありません。大事なのは、事実であります。

例えば、酔っ払いなんかに、良くありますが、こちらから見たら、とっても酔っ払っているから、もうこれくらいで止めたら如何ですか?と言ったら「僕は、酔ってない」と、ろれつが回らない状態。これは、事実が事実であります。ただ、其の人の気持ちであります。これは、事実では、ありません。

私達は、事実を事実として摑まなくては なりません。
大切なことは、事実以外の余分なことは、信じる必要はありません。ですから、人間が今まで、天啓と言っていたことは、全部嘘であります。何故かと言いますと「生命の大親」の事を判っていなくて、どうして天啓と言うことが出来るでしょうか!
「生命の大親」のお力お働きが無かったら、この体だって動かす事は出来ません。生命というのは、生命エネルギーであります。体そのものだけでは動きません。ここへ、生命エネルギーという一つの力と働きが入らなければ動きません。
この生命が無くなったら動かなくなります。

最初は新しい肉体を与えられて、いろいろ体を使わせて頂いて、体を古くしてお返し致します。借りたものは、お返ししなければなりません。喜びと感謝でお返ししなければなりません。ましてや死ぬのは嫌だというのは、おかしい事であります。

大事なのは「生命の大親」によって生命は、与えられているのであります。
「生命の大親というのは、この世の中をお造りに成っておられますから、物を造るのには、ルールというのを決めてつくっておられるはずであります。

野球をするといっても、ルールが無かったら野球にならないでしょう。あらゆる事は、一つの掟、法則によって成り立っています。
道路交通法も、法則がなかったらめちゃくちゃになってしまいます。

この様に、この世の中を整然とお造りになっているのには、この世の中を造っている掟、ルールがあることになります。秩序があります。

その基本的な十の秩序。これを「十元の理法」といいます。この一つ一つが天啓であります。

これは絶対に無くては、この世の中が成立しないような基本的な掟であります。 人間が作った掟では無くて「生命の大親」がお造りになった「生命の大親」の親理そのものであります。ですから親理を大自然の真理法則とも言ってるわけであります。

例えば「循環の理法」と言ったら人間が決めたのでしょうか?そうではありません「生命の大親」御自親が決められたのであります。

更に全ての存在は、その個有性を持って、それぞれの種類分化してのみ存在しています。四十億人の顔を違えて作れますか? 雪の結晶を、一つ一つ違えて作れるでしょうか? 松の木でも竹でも全部違います。 いろんなものを種類分化して作れるでしょうか?このように「生命の大親」がおやりになっていて下さっています。

人類は、何に目覚めるべきでしょうか? 「生命の大親」の親御存在であります。この自然の偉大な力と働きであります。これに目覚めるべきであります。そこには、ちゃんとした掟があります。

麦を蒔いたら何でしょう? 麦であります。これを「原因結果の理法」と言います。もしこの「原因結果の理法が無かったとしたら、この世の中はどうなるでしょうか? どんな不都合が起きるでしょうか? 例えば、麦蒔いて何が生えるかわからなかったらどうしましょう

「原因結果の理法」が無かったらどうでしょうか? 当たり前だと思っていますが、これは、大変な事であります。こういう大自然界の掟というのは! 簡単なことだと言っても大変な事であります。

こうすれば、こう成るということが成り立たなかったらどうなるでしょうか?
科学ということも、こういう原因でこういう結果になるということを摑んで、そのことを応用してやって行きます。電気の法則にしても、クーロンの法則にしても、同じ事であります。

つまり「原因結果の理法」そのものは「生命の大親」がやっていて下さっておられます。

このような事を「理法」として悟っていきますと今、人生問題があったとしても、これを行うのに大事な事は、この人生問題が問題ではありません。自分がこの問題をプラスで通るのか、マイナスで通るのかが問題であります。

「原因結果の理法」に沿って、自分が解決する為のプラスをやっていけば、必ず結果として解決するのであります。

ところが、問題が起きると、大変だ、大変だ、もう駄目だ。いやだなとなってしまいます。マイナスの方ばかりして、解決のプラスの行いはしていないのであります。それでは結果的にマイナスに成ってしまうのであります。
どんな問題が来ても同じであります。

ですから、地道に先ず、真理を悟る事であります。

「十元の理法」とは、この世の中を創っている絶対的な掟であります。


それは、親の天啓によって、私達に与えられたものであります。その証拠には、人類が全然こういう法則性を、今まで知らなかったのであります。こういうことは、どの本にも、何処にも書いたものは、ありません。人間の意識でとらえられるものではありません。こういう理法は全て授けてもらわなければ判りません。
何故なら人間ひとりひとり、実際に親に食べさせてもらい、着させてもらい、教えてもらわなければ、一人で大きくなったわけではないからであります


「十元の理法」
で、指が10本あるのは誰が決めたのでしょうか。1本足りなくても困るし、1本多くても困ります「生命の大親」が決めて下さった10であります。この親物質界の地球においての決まりの数字であります。

そこで「十元の理法」というのは、この大自然というものを、ひとつの十の角度から、法則性として理解したものであります。
この様な大自然の事実を悟らなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-09-18 11:57 | 42.十元の理法Ⅰ
2017年 09月 08日

41.生命自覚証の理

私達は、この大自然の中に、大自然の力と働きによって活かされ生きています。これは、事実であります。大自然によって活かされ生きているのですから、大自然のルールによって活かされ生きていると言ってもよいでしょう。同じことであります。ですから、大自然のルールに逆らった生き方を致しますと、そこに問題が起きてまいります。


例えば、大自然のルールと言えば、生きとし生きるものを、より良く活かそうとしております。ところが、お互いに戦争で戦争の悲劇を作ったりしています。原水爆とか、ミサイルだとか、通常兵器もそうであります。

大自然の全てを行って下さっておられます「生命の大親」は生命というものをより良く活かそうとしておられるのに、そのルールに違反したのでありますから、そこに生きる事に不安を感じるはずであります。

いろんな国が、武器をもって騒げば騒ぐほど、お互いに生きる事に不安になってきます。つまり、大自然のルール違反をしたならば、大自然のルールによって活かされているのでありますから、違反すると不安になるのであります。


例えば、違反して生きていた場合、不安になるという事は、自動車を運転するのには、自動車を運転する免許証が必要ですが、無免許で運転したら違反になります。無免許で運転している時は、安心して運転は出来ません。車を運転している時は、不安であります。これがストレスと成るのであります。

ですから、現代人がストレスが溜まっていると言う事は、大自然のルール違反をしている事になります。なんとなくわからないけれどもルール違反をしているのであります。

では、大自然のルールという事は、何かと言いますと、大自然から活かされ生きているのでありますから、大自然というのは「生命の大親」であるという事がいえます。では「生命の大親」というのは、何が、誰が大親なのかということであります。

そうすると私達は、肉体的存在ではなくて、私達の本質は、いのちと言う、生命そのものであります。生命と言うのが私達ですと、大親で在ると言いますと何であるかと言いますと、今度は、大自然の大生命ということになります。

つまり、大自然の中に活かされ生きている以上は「生命の大親」のお力お働きを頂いて活かされ生きておる事になります。

ですから、一番最初に私達が、ルールとして目ざめなければならない事は、私達は、生命の子であり、私達にとっては「生命の大親がいて下さいますよということであります。いわゆる造り主がいるということです。

大自然という「大親であります大生命或いはこの事を「生命の大親」と申し上げております生命の大親」であります意味を言っているわけであります。人間ではありませんので「生命の親」と言っているわけであります。


何故ならば、人の大親だけではないのであります。植物も虫一匹にしても、やはり生命の子供であります。ここは生命の世界であります。

まずルール第一条と言いますと、自分の親が判り、自分は生命の子供であるという自覚をもつことが第一番であります。
赤ちゃんも最初に認識するのは自分の親であります。子供から親を離してしまうと、全て情緒不安定になってしまいます。ということは、親の存在というのは、大変大きいのであります。

例えば、子供が海水浴場や動物園で迷子になったら、皆、泣いています。己の存在価値がなくなるのであります。全体が親であり、子供は部分であります。いわゆる「親子の原理」であります。

更に、例えば、時計があったとします。時計の部品の一つのネジだけが、ポンと落ちたら、時計の価値がなくなります。つまり、時計全体という親の所にちゃんと役にたってこそ部分としての時計のネジの価値があります。ネジだけだったらとっておきません。ネジ一つだったら、価値はありません。

同じように考えてみますと、人類の「生命の大親大自然という「生命の大親」を認識しないで生きたら情緒不安に成ります「生命の大親」に繫がってこそ安定します。


しかし、人類は「生命の大親」を認識しておりません。全てのものが大自然の「生命の大親」から生命を与えられ活かされ生きているのであります。生きとし生きる全てのものは、生命の兄弟であります。だから、国と国同士で喧嘩する必要はありません。殺しあう必要は無いはずであります。

皆、生命というものが、お互いの生命を大事にしあって、活かされ生きているのであります。この世界は、生命でもって生命を支えあっている素晴らしい生命の世界であります。
この事を誰も認識しておりません。
いつ、どこで、どのように生まれてくるのか?
いつ、どこで、どんな風な人と出会うのか?
いつ、どこで、どのようにして死ぬのか?
こういう事も、人間の力でやっているわけではありません。誰がやっていて下さっているかと言う事であります。

それは「生命の大親」がやっていて下さっているのであります。大自然の力と働きをもって行っていて下さっておられます。本当の事であります。

だったら、私達が一番最初しなくてはいけない事は、親を認識しなければなりません。動物ですら、先ず親を認識しています。
人間だったら当然、肉体というものを越えた、もっと大きな普遍的な「親」。最大の次元の高い「親」、つまり「生命の大親」を認識するのが当然ではないのでしょうか。

そして「自分は生命の子である」ということから出発するのであります。少なくとも、最低限「生命の大親」に活かされ生きているということを認識しなければなりません。生命を与えられて、生まれさせて貰っています。自分で特定の両親を決めて生まれてきたわけではありません。


こういうことから「生命の大親」に対して「ああ、おかげさまで、私はこの様に、生命の子として生命を与えられ「生命の大親」のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きて有難うございますと。どうか生命ある全てが、生命の兄弟として、どうか、皆、素晴らしく発展しますようにと。

「生命自覚証」という、これくらいの事が行えないならば、生きる喜びと感動はありません。生きている以上は、生きる喜びと感動を持つことが一番大事であります。

映画を見たら「映画を見た。ああ良かったな!」というふうな事だったら、見た甲斐があります。
旅行へ行って「ああ、良かったな!」と言ったら、旅行に行った甲斐があります。同じ様に、この世に生きて「ああ、この世に生きて良かったな!」と言ったら、今日一日生きる価値があります。
夫婦で、共に通って「ああ、お互いに共に通って良かったな!」と言ったら、通った甲斐があります。
仕事として、会社に働いた「ああ、良かった、自分はこういう仕事を持って、こういう会社に働けた」と言ったら「こういう仕事につけた」と言ったら、それは、甲斐があります。「自分は、これだけの良い仕事をさせてもらえた!」と言ったら甲斐があります。

ところが、生きがいを持たないで生きています。
「つまらない所へ勤めているだとか、働いているだとか」「つまらない相手と一緒になっているだとか」「ちっとも面白くないとか」「生きるのは苦しいだとか」皆、否定的な、マイナス、マイナス、ネガティブな意識でばかりで生きているのではないのでしょうか。それで苦しいからお助けくださいと言っています。そして人間が作った仏像に願っています。

大事なのは「生命の大親」より生命を頂いた私達自身のこの生命の方が大事であるということなのであります。

そうすると一番大事なのは、この世の中を生きていくのには、生きていくルールがあります。体の中でも人間の決めたルールではありません。血液が循環して生きていくようにしてあるのも人間の決めたルールではありません「生命の大親」がお決めになったルールであります。心臓が血液を循環させるポンプの役目であることも「生命の大親」がお決めになったことであります。

全て「生命の大親」がお決めになっているルールであります。医学でも医学が人間の肉体を作り出した訳ではありません。そのルールを私達は、知性的に調べていっています。

人間がやっている事ではなく「生命の大親」がおやりになっている事を認識して行っているわけであります。

人間のやっている政治活動、芸術活動、宗教活動ではなく、大自然の造り主であります「生命の大親」がやって下さっている事であります。

宗教宗派を超えて、人間、動物、植物の全ての生命あるものは、大自然の「生命の大親」のお力お働きによって活かされ生きております。

全ての生命は、自分の生命の兄弟であります。全ての生命があって、生命が生命を支えあって、肉体的生存が成り立っております。
生命の子として生命を与えられ「生命の大親」のこの大いなる生命の力と働きを頂いて、この世の中に活かされ生きている事に真感謝と喜びの真感動をもって、全ての生命あるものが、生命の兄弟として素晴らしく生きていきますようにと、その為の「生命自覚証」でなければなりません。

こういった自らの生命の自覚であります「生命自覚証」の宣誓を行わなければなりません。


これは、第一番目のルールであります。


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# by shizennori1 | 2017-09-08 13:25 | 41.生命自覚証の理
2017年 09月 04日

40.創設設定の原理

如何なる存在も、即ち、形而上・形而下の存在を問わず、法則的・物理的存在を問わず、その存在の前提、或いは背後には、その存在を存在させしめる意図の力と働きがあります。


つまり、如何なる存在も現象も、何らかの意志の力と働きによってのみ創設設定されたものであり、その背後あるいは前提には、その如くにさせしめる意思・意図の力と働きがあります。

大宇宙・大自然の全ては「生命の大親」の御親意(みこころ)によって創設設定されたものであります

「生命の大親」の御親意によって創設設定されざるものはありません


大自然のすべての存在・現象の背後にはすべて「生命の大親」の御親意のお力お働きにあります

「生命の大親」の貴き御親意のお力お働きによって、大生命の一部を頂いた事により生物には意志の力と働きがあるのであります

この事が悟れていない伝統的過古人は、意志があるのは人間や高等な動物だけだと思い、全生物に生命を与え活かして下さっている偉大なる大自然の大生命の意志、即ち「生命の大親」の貴き御親意の存在を全く気付かずにいるのであります


伝統的過古人
「生命の大親」の生命の御親愛や親業を全く真実感できないどころか「生命の大親」の御存在すら気付いていないのであります

親性意識とは、貴き「生命の大親」の御存在を真実感をもって悟り、大いなる生命の真感動をもって日々の実生活を行い、人生を通るものを言います。


「生命の大親」の貴き親理は「生命の大親」御自親の貴き御親意によって創設設定された大自然の掟であり、命霊界・物質界(大宇宙)のすべてを親創造する為に親創設設定された「生命の大親」御自親の永遠普遍なる絶対の法則であります


この事を今まで人間は、大自然の親理(真理法則)・大自然の摂理・天然自然の理法・道理など色々な言葉をもって表現していました。今日まで人間は、貴き
「生命の大親」の御存在を判らずにいました。それ故に単に大自然の掟としてしか理解することができなかったわけです。

こういうことから、私達は「生命の大親」の貴き御親意に沿った「親創設設定の理」による生き方をしなければなりません


物事を始める時には、決してマイナスの創設設定をしてはなりません。例えば、老後に問題が起きた時に間に合うようにと預金をしたとしますと、その目的で行ったことは必ずその理の通りになります。つまり、老後に問題が起きた時に使うための預金として準備しますと老後にその預金を使わなくてはならない事が必ず起きてまいります。
何故ならその様にしたからその様になったわけであります。だから、最初の創設設定が大事になるのであります。

「その様な理で行うとその様な理が働きます」と言う原理・原則があります。この事は、宗教宗派・人種・民族・年齢・性別にかかわらず、必ず働く理法であります。


しかし、理法とは有難いものであります。プラスの、喜びの、生きる味わいとしての創設設定を致しますと、必ずプラスの、喜びの、生きる味わいの素晴らしい結果となります。

この「親創設設定の理」に沿った素晴らしい生き方をすべきであります


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# by shizennori1 | 2017-09-04 18:10 | 40.創設設定の原理
2017年 09月 01日

39.価値の段階

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私達は、生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。

第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求であります。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階であります。この段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てであります。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからであります。

第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であります。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずであります。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階であります。

しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉は、辞世の句で「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」と詠んだ。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけであります。単なるはかない生き方になるだけです。

我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのであります。

第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求であります。一つの宗教に入り、その中に価値を見いだして心の満足と生存の安らぎを得ることも第三次的欲求であります。

ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。更に、勢力争いや権力闘争に明けくれている宗教人や宗派のより高い地位に着くことが目的で修業に励む僧侶、神官、牧師などの信仰は第二次的欲求であって、決して第三次的欲求とはいえないものであります。

とにかく、第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものであります。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求であります。

第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界があります。

確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのでありますが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすい。

何十年間も山の中にこもり、人目を避け、一般社会から遊離してひとり修業しているインドのヨガの行者などは、この典型といえます。だがこのような段階の者同士の接近は大変危険であります。

同じ生命を持ち、同じ地球に生存しているもの同志が、たがいに唯我独尊的な考えで他の人種や宗教、イデオロギーを否定し合うからであります。これは第三次的欲求の限界であります

現にこの世界は宗教、人種、国家、イデオロギーの相違でこの限界線に来ているのであります

第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態であります。

現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。

何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからであります

第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階であります。


自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります
他に与えて通る段階、を増やしていく段階であります。助け合いの、生命の愛の段階であります。

生命とは、もともと物質界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在であります。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもあります。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展であります。

第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことであります。

この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものであります。

つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が直ちに其の人自身の霊魂の成長段階を示していることになります


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# by shizennori1 | 2017-09-01 12:18 | 39.価値の段階
2017年 08月 26日

38.食物連鎖の理

この親世界を親創造された「生命の大親」は全ての生命に、生命を与え活かしてくださっています。
他の生命である魚、野菜、果物、肉類も生命を与えられて、生命活動の結果、自分の体を作っています。

例えば、イワシも大きな魚に食べられて他の生命を活かすために役に立っています。生命あるもの同士が、生命の理をもって支えあっています。いわゆるイワシの一生は他の生命を活かすための一生であったということになります。

しかし、現在、人間は金儲けの為に山林を伐採したりして砂漠化しています。人間の我の為に自然破壊をしても何も価値はありません。更に毎日、日本で捨てている食料、レストランでの食べ残しのものすごい量・・・・・今世界の人口の五十、六十億の三分の二は飢えています。飽食の時代の日本人なんかは食べ過ぎています。

自分達だけが勝手に、その様な栄耀栄華して、徳の取りすぎになって運命的にマイナスが働いてきます。 「生命の大親」が「食物連鎖の理」を生命が生命を支えあう素晴らしい生命のシステムとして造って下さっています。

しかし人間は弱肉強食といいマイナスにとらえています。本当はプラスの親世界であります。 イワシ一匹食べられて、他の生命をプラスにしたということで、イワシの魂は、今度は他の生命をプラスにしたことで、もっと高い段階の肉体をもって生まれてきます。要するに生命を呈して他の為に役に立って生きています。これがイワシの徳積となる訳であります。


これに反して人間は何の役に立って生きているのでしょうか。
どういう役に立つ生き方をしているのでしょうか。どういう徳積をしているのでしょうか。 他の事ではなく、商売繁盛、家内安全、どうか合格しますように、病気が治りますようにと全部、自分、自分と他のことは何も考慮しておりません。

これでは、二宮尊徳翁が言われたお風呂の中でお湯をかき寄せるようなものでお湯は逃げていくと、お湯を相手に出していくとお湯は逆に寄ってくるということが全然わかっていません。


他の生物は、体を使って徳積をしているのに、人間も速くこの世界の
「生命の大親の御親意(みこころ)に沿って徳積を行い、助け合う生き方をした一生であることに気が付いて頂きたいと思います


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# by shizennori1 | 2017-08-26 18:29 | 38.食物連鎖の理
2017年 08月 19日

37.親目的について

私達が住んでいる世界は、人間が造った世界ではありません。この世界は「生命の大親がお造りになられた親世界であります。私達の運命も環境も全て「生命の大親」が造って下さった親世界であります。

生命の大親」ですから私達が、素晴らしく生きていく為に造られているはずであります。私達が何かを行うのには、全てプラスを求めて行う筈であります。決してマイナスを求めて行うことはありえません。料理を作るのにもおいしさを求めて作ります。旅行に行くのにも楽しさを求めて行きます。何かを行うのも、全てプラスの目的をもってであります。

私達がプラスを求めて生きていくということは、この世の創造主である生命の大親がプラスに生きるように親創造して下さっているからであります。 しかも、いろいろな原則、原理をもって造っていて下さっています
このような原理を知識として、いろいろ認識しても生命の大親のみこころが判らないで、いくら認識したとしても、何にも価値がありません。


例えば、母親が、お腹すいたとしてカレーライスを子供に作ってくれたとします。そのカレーライスの作り方や味がどうだこうだと知ったとしても、母親の作ってくれた気持ちを感じることの方が大変大事であります

どういう気持ちで作ってくれたのか、そこに母親に対する感謝の気持ちが大変大事なことになるわけであります。

同じ事で生命の大親が私達が素晴らしく生きていくように親創造して下さっておられます。
そしてその親創造して下さっている「生命の大親」に対する親感謝をどれだけ感じられるかということであります。親の愛を感じられるものは、大変幸せであります
親がわからないと不安となります。何故なら親がわからないと迷い子ということになるからであります。

私達が生きていくということは、生命の活動であります。この生命が、それぞれの性格、精神を形成していきます。要するに、其の人自身の魂、精神(気持ちの固まり)を造って行きます。


その目的は、何の為であるかということになります。そして何の為に生きるかということです。その目的も「生命の大親」
が造っておられます

その親目的は、生命が素晴らしく成長していくように「生命の法則」として「親の意識」へ成長していくことであります。その為に、この親世界に誕生させて頂いた事になります。決して苦しみの為ではありません


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# by shizennori1 | 2017-08-19 20:33 | 37.親目的について
2017年 08月 16日

36.親子の原理

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私達は「健全な魂は健全な肉体に宿る」といわれる如く、精神と肉体である物質からできております。私達の肉体は物質であり、その元というのは、地球であります。地球が無ければ私達の肉体はありません。 地球は根元であり、私達の肉体は部分であります。米も麦も土の変形したものです。これら植物を食料として草食動物の肉体は成り立っています。更に草食動物の肉体を食料として肉食動物の肉体は出来ております。人間はあらゆるものを食料として肉体を構成しています。この様に如何なる生物の体も、その根元は、地球という大地から出発して、やがて大地に帰ることになります。

絶対的な自然の掟として地球としてのこの大地は、全生物の体の大親であります。土から派生した肉体は、やがて絶対的に土に帰る。このサイクルを肉体の法則」といいます。


地球という全体である大地とそこから派生した部分である肉体との関係は、親子の関係ということが出来ます。このような関係を親子の原理」といいます。 派生的部分である子がいることは、その前提として親が存在している証拠であります。親が根元的全体として存在しているから派生的な子が存在することになります。


同じように私達は、物質としての体と共に生命があります。この生命が存在するということは、私達に生命を与えている大自然の「大親である大生命」という「生命の大親」が存在する証拠であります。大宇宙に満ち満ちている「大親である大生」という「生命の大親」から派生している私達の生命は、やがて大生命へ帰っていく。このサイクルが「生命の法則」であります。


親子の原理」の一つの原則には、子は親と同じ理を本質的には受け継ぐのであります。

この原則から母なる大地が物質ならば私達の肉体もまた物質であります。生命についても「大親である大生命」という「生命の大親」から派生した我々の生命は、親が時間、空間を超越し、形を越えた存在であるから、本質的に目に見えない存在なのであります。

ここで最も重要な点は物質は受動的な存在でありますから、じっとそのまま努力しなくても受動的に土に帰りますが、しかし、能動的である生命が「永遠普遍なる大生命」へ到達するのには、個々の生命体が能動的に積極的に努力しなければならないということです。
受動的に土へ帰る肉体については問題がないが、認識する本体としての我々の生命は能動的、積極的に努力して欲求の段階を高めていかねばならない。

そのために「大親である大生命という「生命の大親命の子である私達個々の生物にいろいろの生涯とさまざまな生存の味わいを与えることにより、私達の意識が成長発展することを望んでおられるのであります


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# by shizennori1 | 2017-08-16 17:09 | 36.親子の原理
2017年 08月 14日

35.存在の原理

私達の住んでいるこの親物質界は生命の大親が創造された親の世界であります。「生命の大親は全生物に生命を与え活かして下さっています。それぞれの存在は、役に立つために存在しております。

私達のまわりに存在するものは、全て役に立つものを私達は作っています。まわりにある鉛筆、ノート、机など皆、他の役に立つ為に存在しております。鉛筆は、鉛筆の為に存在するのではなく、鉛筆が他の為に役に立つ存在として作られています。

存在の原理をもって生命の大親は、この世界を親創造して下さっています。親創造の、親と言う字は、人間の創造していくことと区別して、あえて親創造と言っております。

存在の原理」は

Ⅰ.存在するもの全ては、役割機能をもって生成されます。

Ⅱ.存在するもの全ては、他の為に役にたつ役割機能を持っています。

Ⅲ.存在するもの全ては、他の為に役に立たないと自然淘汰されます。

この三つで説明できます。


私達の生存が「
存在の原理」に逆らった生き方をすると自然淘汰されることになってしまいます。私達も役に立たないものは捨ててしまいます。この事から政治にしても、経済にしても、宗教にしても、全体の為にならないことをしていますと自然界において自然淘汰されることになります。特に自己中心の生き方は、自分の事だけしか考えていません。こういう生き方は、他の為に役に立ちません。 そうすると自己の存在を失ってしまいます。物も生命も同じであります。これが自然界の法則、原理であるからであります。速く目覚めなければなりません。どの人の運命も皆、同じであります。

つまり、今まで地下核実験をして、地球の地下のプレートにひびがはいってしまっています。いつでも、どこでも地震が起きてもおかしくありません。更に、皆のためになる食物も、農薬を使用して農薬づけの野菜などを販売したり、遺伝子組み換えをした大豆など経済ベースでやっています。
どこにも他の為に、まごころをもってやっているとは思われません。非常に悲しいことです。


こういう生き方をしていると地球が「存在の原理」に反した存在になる事になり、自然淘汰の惑星になってしまいます。 このように、皆の為になる生き方をしないでいますと、この地球も存在を失う事になります。いわゆる自然淘汰されることになります。


このような地球にならないように一人一人が存在の原理」に沿った生き方をしていかなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-08-14 17:39 | 35.存在の原理
2017年 08月 12日

34.親性と人間性

生きることは、何の為に生きるか。生きて何を得ようとしているのだろうか。どんなにいろんなものを食べても、肉体はやがて、土に帰ります。これは事実です。しかし今日一日生きると生きた実感があるはずであります。

今日一日このような「生命の大親」の大きな生命の愛を頂いて、生命の愛の力によって崇高な生命の御子として活かされている真実感を持ったらどうでしょう。やがて肉体を土に返した時、自分には何が残るでしょうか。日が、どんなに暑い日であろうと、どんなに寒い日であろうとも、そこには、生きた喜びと感動があるはずです

つまり、生きた日々の味わいがあると、生きた価値があるといえないでしょうか


旅行に行きました。行って良かったと思えば、行った価値があります。何処かに行って、美味しいものを食べてきたとします。食べておいしいという喜びと感動が残ったら食べた価値があります。

私達は肉体をもっていると同時に、精神であります御霊霊的観念・命霊観念をもっています。肉体をもっていますが、やがて肉体は土に返します。その間に私達は、何を得るかと言いますと意識の問題であります。

何をやって何処でどう生きようとも、この意識が素晴らしいものであったら、これを自己の霊的観念・命霊観念収穫といいます。

要するに、自己の霊的観念・命霊観念に何を収穫するかであります


逆に執着はマイナスとなります。執着の方は、どういうものかと言いますと食べたのに、食べられたらいいなと、毎日思ったら苦しみとなります。例えば、麻薬の注射をしたときは、いいかもしれませんが、後は、麻薬が切れたら苦しむのであります。執着になると苦しみになります。


ところが、
収穫になると感動になるのであります。失恋した時、相手がいないのに、もう会えないと、苦しい苦しいと執着がなくなるまで苦しむのであります。何年という長さではなく、自分がどれだけ執着しているかであります。


今度は、現世に執着した魂というのがあります。一生懸命、金を貯めたのに、これだけの金を残していく。つらいなつらいなと言って。

命霊界(意識の世界)には、お金ない、体ない、電気料なんて心配はありません。一番困るのは、例えば胃がんで、この世を去った人が、肉体が無いのに、苦しい苦しいと思っています。肉体が無いのに苦しい苦しいという感じをもっています。

恐怖を持っている人は、何を見ても恐怖を感じるのであれば、恐怖の運命・環境を通ります。

ムンクは、女性を見たら恐怖に感じました。ルイスウェインは猫を見たら、恐怖となりました。あらゆることが苦しみであり、恐怖であります。己自身が、そのように思っているからであります。猫を見たらかわいいと感じてる人は、正常です。

生命はもともと本来、素晴らしい感動をもって通るのが本来の姿です。肉体は健康で通るのが本来の姿であり、病気で通るのが本来の姿ではありません

夫婦は仲良く通ってこそ本来の姿であり、親子、夫婦、兄弟が喧嘩して通るのは異常な姿であります。

同じ原則を自分の御霊や生き方に当てはめてみますと、プラスであることが正常であって、マイナスは異常であります。親から与えられた素晴らしい運命といえば正常であります。


それでは、この世の中を生きるのは素晴らしいと言ったらプラスであり正常であります。この世の中を生きるのは苦しいと言うのはマイナスであり異常者であります。

夫婦の相性が悪いと言うのはマイナスです。異常者であります。そういうことになります。


「生命の大親」
の大生命の生命の一部を頂いた、生命ある全ての全生物が生命の愛によって活かされています。
生命ある全ては生命の本質的兄弟であります。生命の世界には動物も、人間も、植物も、生命に対する差別はありません。これはプラスであり正常であります


ところが、自分は、因縁たかりだ、罪の子だ、相性が悪い。そのように考えたら、マイナスであり、異常者であります。罪をお許しくださいというのは、マイナスであり異常者であります。


何も不幸で通る必要は無い。何もわざわざマイナスで通る必要はありません。


何でも無い人がわざわざ宗教へ行って、罪をお許しくださいとか、どうか哀れんでくださいと言っています。親は憐れみはいたしません
「生命の親」は生命の御子に対して、哀れみはいたしません。親は子に対して哀れんで食事は作りません。これは異常です。


「生命の親」
は生命的絶対愛をもっておられます。にもかかわらず我々の方が、罪の子だと言って、憐れんで下さいといっています


この地球は人間の力では造っていないし、仏像の力でもありません。釈迦も歴史的事実として、仏像を拝んでいないし、キリストも十字架を拝んだ事実もありません。それは、釈迦、キリストの死後人間が造っているからであります。


生命から出たものは形無いのであります。感じる能力は生命があるから感じる力があります。感じる力があることは、感性があると言う事になります。生命があるから感じるのであります。生命無くなったら感じません。


霊的観念・命霊観念
の収穫と言うのは、今日一日、どういう風に感じて生きたのかが御霊の収穫となります
行動を伴った実感こそ霊的観念・命霊観念収穫となります。


「生命の大親」
が親創造された、素晴らしい親の世界であります。自分の親が造った生命ではありません「生命の大親」から授かったものであります。ここでいう親は「生命の大親」であります
親の本質とは、人間が作り出した神仏、つまり宗教宗派の神仏ではなく、何時でも何処でも誰にでも、何にでも、あらゆるものをより良く生かそうとしておられる大自然の力と働きであります。この力と働きの事を「生命の大親」と申し上げております

「生命の大親」のお力お働きを頂いて活かされ生きているという意識、このような意識のことを親性意識と言います。

「生命の大親」の生命の御子であるという親性なる感動と喜び、誇りをもって生きるのであります。

宗教は人間がやっている一つの精神的な活動集団であり、親御自親がおやりになっている事ではありません。人間社会の中の経済活動、政治活動、芸術活動と同じ宗教活動であります。しかし、生命は人間社会を超えたものであります。

宗教は宗教争いをしています。これは人間がしているのであります

「生命の大親」が生命を与え活かしておられるのに、生命の御子である我が子が、苦しい苦しいと生きたら、親は、非常に残念であります。

子供たちが幸せだと生きたら喜びであるのに、怨み、つらみ、殺しあって生きるのは本来の姿ではありません。

宗教宗派で、人間ごとで争っています。宗教に入って争って、却ってマイナスになっています。

親性意識というのは「生命の大親」の生命の御子であり、親性なる感動と喜びをもって生きる意識のことであります。これに反して人間意識は、苦しみ、不足不満、大変だと生きていく意識の事を人間意識と言います。

今までのことや過古にとらわれて生きているのを伝統的過古人といい、昔のことを言っています。夫婦喧嘩の時も以前のことを持ち出します。

親の意識に通じるには性意識で不足不満を言ったら通じません。人間の方が変わるのであります。不足不満は、人間意識であります。マイナスであります。

不足不満は人間意識であります。マイナスであり異常であります。夫婦でも喧嘩して異常に言ったら聞きません。本当に活かされ生きているのであります。生きることに素晴らしく感動をもって生きたら良いのに!!

長く御夫婦として生きれば生きるほど増々生きる喜びと感動が湧いてきたり、如何なる運命・環境が与えられようとも、与えられた全てが生命の喜びと感動に変わればよいでしょう。こういう意識を持っているものを性意識のあるものと言います

親御自親、マイナスは与えておりません。そのことを通ることによって却って大きな発展になっていきます。人生にマイナスはありません。

算数の苦手な子供たちに、先生は算数をさせます。ところが子供たちは、苦手な事をさせるから、それを愛と感じないのであります。大きな愛がわからないのであります。


「生命の大親」は色々な運命や、いろんな人生を与えてくれます。しかし、それは決してマイナスではありません。マイナスに感じるのは異常者です。プラスに感じる方は正常であります。ここが問題であります。人間の気持ちの方がひねくれています。マイナスのことが多すぎます。


この世は苦の娑婆だとか、結婚式でも人生はそんな、なまやさしいものじゃない等といったりしています
人間は、悲劇を求め霊的観念・命霊観念の癖があります。異常であります

人間は、今までのマイナスの観念から、人間意識から親性意識へと脱皮しなければなりません親性意識とは、生命の感動をもって生きる意識のことであります。真性なる親の愛を感じたら性意識があるのであります

これに反して、マイナスを感じて生きる人が大勢います。大事な事は努力して大きな愛を感じる努力をする必要があります「有意味行為の原則」により、同じ生きるのにも、自分が意味する内容によって価値が違ってきます。


今日
「生命の大親」から与えられた一日を活かさせて頂きます。そういう気持ちで生きたら、そのような親性なる霊的観念・命霊観念の収穫になります。それが其の人の癖、性格になっていきます。

「生命の大親」は誠を受け取って下さいます。徳積の生き方をしなければなりません。現代人は、こんなにものがあってもより良く生きられないのであります。運命財産と言う徳が無いのであります。

「生命の大親」は、生命を与え、生きる力を与え、全てを与えて下さっています。「生命の大親」の親御存在に誰も気が付いておりません。気が付かないばかりでなく何もしておりませんし、しかも、ああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりしています。これで「生命の大親」に通じるはずはございません。それで親通力が欲しいと言っても無理であります。

本当に与えあう、プラスを出す事が出来たならば、それが運命貯金になっていきます。これが性人であり、今世、生きたことが素晴らしいプラスになってきます。


蒔いた種は土をかけて見えないように蒔きます。隠れたる善行は、必ず生えてきます。お百姓さんは、種を蒔きますが、必ず増えて生えてきます。これが自然界の法則なのであります


土に種を蒔く事は知っていても、行いの種を蒔く事を知らなければ、それは親理を悟った事にはなりません

この世で、いいことを思い切ってすれば絶対にプラスが出てくるのであります。運命環境や生きることに最大のプラスが来ます。

御霊の救い以外に本当の救いは、有りえません。最低限の御霊の救いとは、つまり其の人が救われたいのなら、自分の意識を親性なる霊的観念・命霊観念の意識収穫をしなければ、永遠に救いはありえません

人類は今まで性なる霊的観念・命霊観念の救いを受けていないから、2,3千年経っても、未だに、お救い下さいという欲求しかもっていません。

生きる本質は、目が見える事、汗が出る事、新陳代謝をして頂いている事、こうやって感謝して通ることであり、マイナスのものは、夏は暑い暑いといい、冬は寒い寒いと不足をいい、ちょうどいいときは、秋は長く続かないと不足をいい、どちらにしても不足を言っています。

人間意識で生きるのではなく親性なる霊的観念・命霊観念で生きていくべきであります。


「生命の大親」大親の絶対的生命愛を親感謝して生命の感動をもって生きるべきであります。


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# by shizennori1 | 2017-08-12 16:10 | 34.親性と人間性
2017年 08月 03日

33.内在的な心の世界と外在的世界

         
夕焼けという大自然の事実は同じであっても、それを感じてどの様に自らの心の世界、観念の世界に映すかは、各人各様種々に異なります。

ある人は夕暮れの光景の美しさを感じ、ある人は恐怖を感じ、ある人はわびしさを感じます。人は皆全ての物事を自分の心の世界に映して見ているのであります。

一般意味論ではこの事を「自分が思っている通りにしか見ていない」(what you see is what you believe !)と言っております。確かにその通りなのです。

自分が相手をへんな人と思っていれば、へんな人としか見ていないのであります。いやな仕事だ、いやな職場だと思って見れば、自分の心の世界にはいやな実感しか映ってこないのです。

なまこを美味しいものと思っている人には、美味しそうに映ります。西洋人の様に、なまこをグロテスクで気味の悪いものと思っている人には不気味さしか自分の心の世界に映っていないのであります。

心は常に自分の心の世界、観念の世界にしか住んでいないのであります。自分の心が住んでいる観念の世界を「内在的観念の世界」と言います。

これに対して、自分の肉体が住んでいる物理的事実の世界を「外在的物質の世界」と言います。上の三枚の写真は内在の世界(自分の心に映した観念の世界)と外在的世界の関係を大変判りやすく説明したものであります。

外在的世界の赤い玉は同一であっても、見る人の角度や遠近によって、内在の世界に映る赤い玉は、ゆがんで見えたり、小さく見えたり、大きく見えたりします。赤い玉は常に同一の大きさと形であっても、いったん心の内在の世界にゆがんだ玉が映ると、私達はゆがんだ赤い玉だと思い込み、そう信じてしまいます。(写真左

自分が偏見や先入観をもって物事を見、人と接した時には、丸い赤い玉がゆがんで見える如く、物事や相手の人間がゆがんで見えてしまうのであります。そして一度ゆがんで内在の世界に映ると、増々そう信じ込んでしまい、増々その様に見えていくのです。憎しみを持って人を見れば、相手の人は増々憎らしく見えてくるのであります

育児ノイローゼの母親は、子供を育てる自信がないと思って子供を扱いますから、子供を育てる事の自信を増々失い、その反面、自分はダメだという実感と信念は反比例して強まっていきます内在的な世界には育児に関して自信を失う事しか映らなくなってしまうのであります。

心の内在の世界は、育児に対しての不安と恐怖で一杯となってしまいます。写真中央の赤い玉が内在の世界一杯に大きく映っている状態です。

ノイローゼとは内在的心の世界に不安・苦しみ・悩み・恐怖などストレスが蓄積し、内在的心の世界がマイナスの観念で一杯になった状態であります

ノイローゼにまではならなくとも、正常な人達ですら、悩み・憎しみ・怒りなどで気持が一杯の時は同様の状態なのであります。競輪・競馬・ギャンブル・酒などに狂っている場合、恋愛やその他何か夢中になっている状態などの場合は全て、夢中になっている対象が内在の世界一杯に広がっている姿なのであります。

生きる喜びや感謝などのプラスの観念が内在の心の世界一杯に広がれば、悟りの世界となりますが、逆に不足・不満・恐れ・憎しみ・苦しみなどのマイナスの観念で内在の心の世界が一杯になりますと、この世は生き地獄となってしまうのであります。

地獄・極楽とは外在的世界にあるのではなく、自分の心の内在的世界にあるのであります。だからこそ悟りが必要なのであります。

上の右側の写真は、赤い玉が実物より小さく映っているものです。健康の喜びや有り難味を少ししか感じなかったり、親子・夫婦などの互いの存在価値を過小に感じたり、大自然の大いなる営みと生命力の素晴らしさ、今日一日の生きる喜びと感謝をほとんど感じる事ができなかったりしたならば、内在的に映るプラスの観念は増々小さくなり、やがて消えていってしまうのであります。

外在的世界の同一の事柄を心の内在的世界では大きくも小さくもとらえる事ができるのであります。マイナスの事は気にしなければ段々と小さく映っていき、やがては消えてしまうのであります。

私達にとって一番大切な事は、先ず自分の内在的な心の世界を悟りによってプラスにする事であります。

ナマコはナマコの味であって、それを美味しいと感じるか、まずいと感じるかは自分の内在的観念の世界の問題であります。小鳥にとって毛虫は好物の食べ物ですが、人間特に女性にとってはぞっとするものであり、毛嫌いするものです。

外在的世界の毛虫は毛虫であって、それを好物にするか、毛嫌いするかは、小鳥と人間の内在的世界の違いであります。

この事実から考えれば、元来憎らしい人もいなければ、好ましい人もいないのであります。憎らしいとか好ましいという実感は、その様な観念を持っている自分自身の内在的心の世界にあるのであって、相手の人にあるのではありません

だから、本来憎らしい嫁姑も、相性の悪い夫婦も、いがみ合うべき兄弟というものは居ないのであります。人間関係の良さ悪さは自分達が互いに持っている内在の心の世界のプラス・マイナスの実感によって決まります

本来、いやな仕事、いやな環境や運命というものはありません。いやな仕事だと感じるのは自分自身であり、いやだと感じれば感じる程、つらくなって苦しむのも自分自身であります。

マイナスの実感は自分にとっても、まわりにとっても損な事であります。自分にとって自分の気持は一番大切なものなのであります。

私達は生命力として、プラスにもマイナスにも実感できる自由選択性を持っています。この能力を使って自分の気持の世界である内在的な心の世界をプラスの世界にすべきであります。

その為には、自分の考えかたや観念をよりプラスの方へ転換していかねばなりません。物事をプラスに見なければなりません。

“自分は大自然の大いなる生命の祝福を受けてこの世に活かされ生きているのだ。そして今日一日は生きる喜びと味わいの為に与えられた日だ。”というプラスの考え方と、“自分には因縁や業があり、この世に罪の子として生まれてきたのだ。だから苦しみに耐えて今日も生きていかねばならない。”という一般宗教のマイナスの考え方とでは、まるで正反対であります。

物事のプラスの面を考えて明るい気持で努力していく事をプラス思考と言います。マイナス思考とは逆に悪い方、暗い方ばかりを考えて積極的行動や努力をしない生き方であります。

マイナス思考ばかりを行っていますと、親子・夫婦・兄弟・嫁姑・友人知人などの人間関係は悪くなり、家庭も仕事も、環境や運命も悪くなり、自分自身も苦しんで生命力を低下させ、ノイローゼや肉体的病気にもなっていきます。

プラス思考を行えば、生きる喜びと感謝の観念が自分自身の内より増々湧いてくるのであります。人は誰でもより幸せを求め向上発展を望んでいます

今日一日をプラス思考で積極的に生きることにより、自分の生命力を高め運命・環境を改善する事ができるのであります。

プラス思考で生きる毎日の積み重ねが結果として自分の人生となるのであります。

「天は自ら助くるものを助く」「汝の信仰汝を救えり」などの言葉にある如く、私達は誰でもプラス思考を積極的に行い、価値ある充実した人生を送るべきであります。



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# by shizennori1 | 2017-08-03 20:06 | 33.内在的な心の世界と外在的世界
2017年 08月 02日

32.観念のフイルム

自分の観念、気持の固まりである意識のことを霊的観念・命霊観念と言いますつまり、霊的観念・命霊観念は自分自身という個有性の本質であります。
自己の根源的本質は生命でありますが、生命は普遍共通の存在であるが故に、自分と言う独特の個有性をもっていません。

生命とは如何なる霊的観念波動でもつくる事ができる力と働きであります。

自己の霊的観念波動は自分独特なものでありますから、自分という個有性をもっています。全宇宙にたった自分一人だけしかいない存在であります。


自己の霊的観念波動こそ自分自身の御霊(命霊観念)であります。御霊(命霊観念)とは自己の生命力がつくり出した自分自身の霊的観念波動であります。


霊的観念波動
の事を霊的観念のフイルムといいます。


自分の運命・環境は自分の「霊的観念のフイルム通りに現れてきます。


霊的観念のフイルム
通りに時間・空間に映写されるのが運命・環境であります


映画のフイルムは映写幕(スクリーン)に映写されます。フイルム通りにしかスクリーンには映りません。同じ様に「霊的観念のフイルム」は時間・空間という物質界に、自分の運命・環境として投影されます。


物質界とは、それぞれの御霊(命霊観念)が自己の「霊的観念のフイルム」を投影する世界なのであります。

御霊(命霊観念)は自分の霊的観念のフイルムを時空間に投影して自己の霊的観念波動を認識し、改善して成長発展を行います。


自分の霊的観念波動がくよくよするものであったなら、その様な運命・環境を通り自己の性格を認識し改善しなければなりません。

固い性格・すぐに悲観的になる性格・すねる性格・怨みに思う性格・癪にさわる性格・すぐに争う性格・カッカする性格・短気・呑気・いい加減・ずぼらの性格・攻撃的性格・四角四帳面できまり通りにしないと納まらない性格・何でも相手のせいにする性格・決して自分の非を認めない性格・すぐむきになる性格・虚栄プライドの高い性格・かっこだけをつける性格・自己中心の性格・世間体ばかりを気にする性格・常に不足不満しか感じない性格・単純思考の性格・自分にこうしてくれない、ああしてくれないといって欲求だけを行う性格等々の種々様々なる性格を、自分の霊的観念のフイルム通りの運命・環境として物質界に現して頂いております。

その結果、それぞれの改善すべき性格や御霊(命霊観念)の癖を認識して、能動的意志の努力によって親成長発展を行うのが物質界の肉体的生存の意味であります。


「生命の大親」は生命の御子らの御霊の親成長発展の為に、親理(親理=心理=真理)のお力お働きをもって、この物質界を親現して下さいまして、生命の御子らに素晴らしき生存の様々な味わいを、お与え下さっておられるのであります。


要するに、自分の霊的観念のフイルムを変える努力をしないと、そのもっている御霊(命霊観念)の癖通りの運命・環境が、この物質界に時間・空間通りに映し出されていることになり、少しも素晴らしい生き方とはなりません。


自分のいやな霊的観念・命霊観念を変えない限り、自分の運命・環境は変わりません。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、全て自分のせいであるという位に思って努力しなければなりません。それほど自分のせいであると思わなければなりません。


速やかに霊的観念のフイルムをプラスの、生命の愛に満ちた、徳のある素晴らしい霊的観念・命霊観念造りをして、素晴らしい味わいのある生き方をすべきであります。

このような意識を持つと段々自分の持っている意識が高まっていきます。しかしこの様な生き方が分からずに、どんどん意識を低下させています。その事を地震や天候で私達に指し示しているのであります。速く意識を切り替えて生きて行かねばなりません。


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# by shizennori1 | 2017-08-02 17:13 | 32.観念のフイルム
2017年 07月 28日

31.より良く生きること②

「生命の大親」の誠に貴き親理を悟って、より良く生きる為の「生命の愛」の実際の行いなくしては、如何に宗教行事をれいれいしく行ってみても本当の、事実の「生命の大親」には受け取ってもらことはできません。

下記の写真の子供は、ユニセフが支給する栄養食品を受け取るとよろよろと歩いてテントに向かった姿であります。

         痩せ衰えた男の子

今、アフリカ大陸では飢えが広がっています。アフリカの飢餓状況のレポートの発表によりますと西アフリカ六ケ国だけで1900万人が、アフリカ全体では現在約5000万人(実数はその倍)の人々が飢餓に苦しんでおり、この状況は戦争、干ばつ、内戦、人口増加などにより更に一段と悪化するであろうと述べています。この中には抵抗力の無い子供達が飢えて、幼い生命を奪いつつあります。

片方で聖職者たちが金銀で飾りたてた立派な衣をまとい、おごそかに神への集まりを行っている間に、一方難民の子供たちは、寒さにうち震えながら身をよせあって、食糧の配給を待っています。砂漠の夜は冷えて零度近くにも気温がさがり、衣料品を持たない裸の子供たちには、苛酷な生存の日々となっています。

下記の写真は、寒さのために身を寄せ合いながら食糧の配給を待つ子供たち。カラモジャ地方で。

      寒さに震える子供達

人が宗教を作り上げると、自分たちの自己満足のための権威を創作してしまうのであります。社会における自分たちの地位と権力と富を誇示した宗教組織には、もはや「生命の愛」の精神は無いのであります。本当の実理とした実行無しに、その言葉を唱えるだけの「生命の愛」は、生きることには何も役に立たないのであります。凍えている子供たちに毛布一枚を実際に渡す行いこそ、真の「生命の大親」の御親意に沿ったものの行いでは無いのでしょうか?

下記の写真は、干ばつ地帯の飲料水確保の為に毎日何時間もかけて飲み水を運んでいる少女の姿です。スーダン 

          バケツのかんむりの少女 

家族の生命をまもる為のバケツの冠を頭にのせているこの少女のほうが「生命の愛」の精神に叶っているのでは無いでしょうか。権威の象徴の三重冠は頭にのせなくても、生きる為の水を入れたバケツをのせた少女の方がずーっと生命本来の価値ある行いなのであります「生命の大親」の生命愛に叶った行いとは、宗教的儀式ではなく、より良く生きる為の実質的な行いであります。

下記の写真は、難民キャンプに避難した女性たちの姿です。水を得るために乾いた川床を更に13メートル掘らなければなりません。それでもほんのちょっぴり水が得られるだけなのです。

         水に苦しむ難民たち

アフリカや南米の干ばつは、数年来続いており、その深刻さは年々ひどくなっています。干ばつで水がなく、乾きのために人も動物も沢山死んでいます。一方、聖職者たちは、聖杯を傾け、ブドウ酒を飲み、自分たちこそ神に通じると思って自己満足しています。

下記の写真は、サバッダ難民キャンプにようやくたどりついた男の子。へなへなと、くずれるように座り込んでしまった。

      難民キャンプにたどりついた男の子

現代の宗教宗派は、何百、何千億円という金をかけて立派な聖堂と称する宗教的建物を建てて、宗教的自己顕示欲求を現しています。他の生命を救うより、自己の宗教宗派の拡大の方をはるかに大切にする生き方が、今日の宗教人たちであります。宗教は、立派な大企業になってしまっています。

しかし、多くの難民たちが食物が無くて苦しんでいます。世界の三分の二は、まともに 食べられず飢えております。これが地球の現状なのであります。

口先ばかりの事を言って、自己の宗教宗派の中に埋没しているのではなく、宗教宗派の殻を脱ぎ捨てて、大自然の全てに通用する「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿った「生命の愛」に生きるべきであります

下記の写真は、配給用ナベの底にくっついた食糧の残りカスをむさぼるように食べている子供たちの姿です。

        生命あるものに食糧を!

肥満にふくれた金箔の仏像の前には、果物などの食糧がお供えされて豊富にあります。しかし、仏像は何も食べません。ふんだんに純金を使い、金の仏像を貴いものとして拝んでいますが、釈迦の教えは、偶像を作って拝むことを戒めた教えでありました。釈迦は一回も仏像を拝まなかったのであります。何故なら、歴史的事実として仏像が出来たのは、釈迦の死後、4,5百年たった後であるからです。

日本の仏像の前には、食糧が豊富にあります。実際に生きて必要としている子供たちの前には食糧がありません。この事を宗教人たちはどう考えているのでしょうか? 釈迦の教えとは、金箔の如来像を作ることであったのでしょうか? 

日本人よ、おごってはいけない。生命あるもの同士がより良く生きるために、助け合う実際の行いを直ぐにでも始めるべきであります。日本人の誰もが生命的助け合いを実行すべきであります。この事が「生命の大親」にお受け取り頂く事になるのであります。

下の写真は、ユニセフ配給センターで、骨と皮だけになった男の子が立ったままで、何時間も食糧の配給を待っていた姿であります。

               骨と皮だけの男の子

上記の写真の子供が、食べ物も無く、薬もなく苦しんでいるのに、宗教を信仰する信者たちは自己満足と自分たちの現世御利益を願って立派な宗教儀式を行っています。己の幸せのみを願っている宗教人に「生命の大親」生命的愛の本質が悟れよう筈がありません。

人類は目覚めるべきであります。何が本当の信仰なのかを! 生命の尊厳性とは何なのかを! 

下記の写真は、父親が歩けなくなった子供を抱えて数日間歩き、サバッダ難民キャンプにたどりついた姿であります。

歩けなくなった子供を抱え数日間歩き続けた父親

仏像には生命がありません。だから食べ物も水もいらないのであります。疲れる事も寝る事もありません。生命ない物には力と働きがありません。仏像自体は人間が作った物にすぎません。バックを金で飾り立ててはありますが、人間によって作られた物は物にすぎないのであります。作った人間が、作られたものを拝むことは本末転倒であります。だから、釈迦は偶像崇拝を否定したのであります。

仏像や偶像よりはるかに尊いのが生命であります。この写真の父親は、「生命の愛」ゆえに、我が子を抱え数日間も、飲まず食わずに歩き続け難民キャンプにたどり着きました。仏像や偶像に、この「生命の愛」はありませんこの父親の行為こそ、如何なる仏像や偶像の存在よりも尊いものであります。如何なる仏像にも、この父親のまねは出来ません。

この父親の方が仏像よりも、はるかに尊い「生命の愛」の姿ではないのでしょうか!

   宗教戦争の犠牲と悲劇                                            

   「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語 

宗教や宗派の違いが原因となって、民族的対立や戦争が、世界の各地で起きています。このレバノンにおける戦争の場合も、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教が入り交じった宗教戦争であります「サラーム」とは、平和をというアラビヤ語であります。宗教戦争の犠牲と悲劇は常に一般の人々であります。とりわけ女性や老人・子供たちの非力な人達の犠牲は痛ましいものであります。

イラン・イラクの争いや北アイルランドの内戦にしても、キプロスの争いにしても、その本質的原因は宗教宗派の違いにあります。人類は、宗教や神仏の名において、如何に多くの対立や殺し合いを続けてきた事でしょうか。

助け合うべき宗教や信仰が争いと対立の原因になっている事を反省し、人類生存の為にこれを止めなければなりません。その為には「生命の大親」の大自然の親理を悟らなければならないのであります。

「生命の大親」の親御存在・御親愛・御親意を悟る事により、地球が素晴らしい親惑星となる事が出来るよう、生きなければなりません。                                                                                                                                                                 



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# by shizennori1 | 2017-07-28 16:20 | 31.より良く生きること②
2017年 07月 27日

30.より良く生きること①

より良く生きること、これは全ての生物が望んでいる生命的な欲求であります。大自然の「生命の大親」は、全ての生物に生命を与えて活かして下さっています。生きとし活ける全てのものがより良く生きようとすることには、宗教宗派も人種差別も、国の違いもないのであります。より良く生きようとすることには人間、動物、植物の差別すら無いのであります。

より良く生きる為に「生命あるものが互いに助け合うこと」は、生命への愛であります。その本質は「生きることの大切さと素晴らしさ」であり宗教宗派ではありません。即ち「生命の尊厳性そのもの」であります。

後世の人々は「生命の尊厳性であります愛や慈悲の精神」を悟れずに宗教宗派を作り、宗教的行事をきらびやかに行う事が神仏にかなった事だと錯覚してしまっている。そして宗教宗派の違いによって人間同士が対立し、争っている。助け合う筈の宗教が原因で、殺し合いにまで発展しています。これが現代の人類の姿であります。

「生きること」には宗教宗派はありません「生きること自体」は宗教宗派の問題ではないのであります。

自然の大生命力によってのみ、全ての生物は、この地球に生命を与えられ活かされ生きているのです。この地球における四十億年にわたる生物進化と生存の歴史は、実に大自然の偉大なる大生命の力と働きによってのみ行われてきたのであります。だから、大自然の大生命こそ全ての「生命の大親」なのであります

大親であります大生命こそ大自然の本質であり、神仏の本質なのであります。つまり、生きていくのに絶対になくてはならない存在が神仏の本質であります。即ち、生きるもの総てにとっていつでも何処でも絶対に必要不可欠なる存在が親の本質なのであります。

親の本質とは「生命の大親」であります「生命の大親」とは、大自然の全ての大親であります大生命の意味であります。大自然の「生命の大親」の意味であります。

現代人が誰でもすべき第一のことは、先ず、生命の尊厳性に目覚めて「生きること」を大切にする事であります。「生きること」の大切さは人も自分も変わらないのであります「生きること」を大切にする、生命の尊厳性とは「他が生きることを助けること」なのであります。

生命あるすべては「生命の大親」の生命的兄弟・姉妹なのであります

「生命の大親」の生命の子、親の子なのであります。互いの生命性に目覚めることこそ、親性の開発なのであります。

だから「生命の大親」より生命を頂いた生命の子同士が「より良く生きる」ために「互いに助け合うこと」「生きること」を大切にすることになるのであります。


「循環の理法」とは、己の蒔いた種が必ず種どおりに生えて循環してくる事であります。この世の全ては「循環の理法」によって成り立っています。全てが循環しているのであります

だから、「他の生きること」に役に立ってこそ「自分の生きること」もより良くなるのであります「他の生きること」には役に立たないで、自分だけがより良く生きようとして如何に神仏に願ったとしても、己だけの我欲を満たしてくれる神仏などはいません。如何に金銀宝石で飾り立てゝ立派な仏像や神社・仏閣を作ったとしても、他の生命あるものを助けずにいたのでは、生命の尊厳性も何もありはしません

「他が生きること」にプラスの行いをせずに、自分の運命環境だけが良くなって欲しいと願っても、それを叶えてくれる神仏は実際にいません。何故なら、神の本質は「生命の大親」以外には存在し得ないからであります。

他の生命を救ってこそ、自分の生命も救われます。他がより良く生きることに役立ってこそ、自分もより良く生きられるのであります。これが「循環の理法」なのであります「循環の理法」とは、大自然の親理法則(真理法則)であり、摂理なのであります。


この絶対なる大自然の掟・法則に背いて、より良き自分の生存はあり得ません。

人間が如何に立派な神仏を金銀で作ろうとも、それは単なる人間の作品であり、神仏と思う人間の思い込みに過ぎません。第一、人間が『神仏を作る』などとは人間の驕り高ぶりであり、出来る事ではない筈であります。それは「生命の大親」への冒瀆であります。

神仏は己の体を仏像や偶像として人間に作ってもらわねばならぬほど無能な存在なのでしょうか?

神仏は、己が居る処を神社・仏閣として人間に作ってもらわねばならぬほど落ちぶれた存在だろうか?

人は神仏を作れる筈はないし、人を神仏として祭る事も間違いであります。

人間を含め、全生物を活かしている絶対の親は「生命の大親」御自親以外には、絶対にあり得ない。つまり、大自然の大生命のお力・お働き以外にはありえません。

「生命の大親」は、全生物をより良く活かそうとしている大自然の力と働きなのであります。だから、互いにより良く生きる為に、互いに助け合うことが大切なのであります。これは大自然の「生命の大親」の絶対の掟(真理法則)なのであります。これをとも言います。

実質的に他の生命を救う事が、実質的に自分の生存の価値を高める結果になります。実際に地球で苦しんでいる人達に、米一粒でも、パン一切れでも、水一杯でも、毛布一枚でも援助すること、このことが互いの生存をより良くすることであります。だから、実際に「徳積おつなぎ」をしなければならない必要性はここにあるのであります

立派な神社・仏閣を何百億円というお金をかけて作らなくてもよいのであります。それより実際に苦しんでいる人達の生きることを少しでも助けるべきなのであります。莫大なお金をかけ、盛大な宗教行事を行っていることではありません。

金を持って仏像・神社仏閣などの物を作るのと、金を持って苦しんでいる人や他の生物の生命を助けるのと、どちらが大切で理に叶った行いであるのかを人類、特に宗教人たちは考えるべきではないのでしょうか?

宗教宗派が大切か、生命が大切かを良く判断すべきであります。宗教宗派の信仰を行っている総ての人々は、自分がより良く生きるための幸せを願っているはずであります。自分の不幸を願って信仰する者は誰もいません。

しかし、自分の幸せを本当に願うのなら、宗教に入って人間の作った神仏を拝み、お経を唱えるよりも、他の生命を救うことを実質的にすべきであります

この事の方が「生命の大親」の親理に叶った行いであります。人間の作った神仏や宗教は、全生物に生命を与える事も、活かす事もしてくれません。実質的には何も出来ないからであります。

生命ある全ての生物を、より良く活かそうとしておられるのは「生命の大親」だけであります。だから、他をより良く活かそうとする努力は「生命の大親」の大自然の理に叶ったことなのであります。

他が生きる事にプラスを与えたものに「生命の大親」はプラスの運命と環境をお与えくださいます。つまり「循環の理法」であります。他にプラスの種を蒔くものが、自らもプラスの収穫を得る、これが「循環の理法」なのであります。

「他がより良く生きる為の種を蒔かずして自分の生きることだけがより良くなる」という事は絶対に無いのであります。

「生命の大親」の大自然の親理(真理法則)をよく悟り「徳積おつなぎの理」の種を十分に蒔いて他の生命を救い、他の生命と共に自分もより良く生きて行く事は、誰にとっても大切なことであり、是非ともしなければならない事なのであります。

生命あるものが、助け合わなければ,二十一世紀の地球の人類の未来は無いのであります。


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# by shizennori1 | 2017-07-27 18:26 | 30.より良く生きること①
2017年 07月 26日

29.真生命霊財産(徳)

この大自然界に生存させて頂いて、どのように生きれば良いか求めてきました。この世界は、人間が造った世界ではありません。この様な生き方を「生命の大親」に教えて頂きました。自分の力では悟ることは絶対出来ません。何一つ自分ではできません。全部、全てして頂いております。この様な事が全然分からないでおりました。

人間の力で、海、山、川を造ることはできません。どこかの建設業者が造れるでしょうか。造れるわけはありません。この世界は、人間を越えた自然の創造主が造り出したのであります。到底、考えも及びません。全て生きとし生きるものをより良く活かそうとしています。この創造主である
「生命の大親」は、私達生きとし生きるものに生命を与えて下さっています。それぞれの生命は、より良く生きるために生命霊財産という徳という眼に見えない運命貯金を持っています。

問題は、この運命財産である徳を増やして生きているか、もしくは徳と言う運命貯金を減らして生きているかということです。とにかく、どちらかで生きております。生命霊財産=運命貯金=徳ということになります「生命の大親」は、一人一人に、その徳を持たせてあります。そのことに気が付いて、皆の為に生きるということが、徳を増やす生き方であります。しかし人類は、この事がわかっていません。


マイナスの種を蒔いてプラスの収穫にはなりません。

マイナスの種を蒔いたらマイナスの結果しか出ません。誰がやろうとも、何時やろうとも、どこでやろうとも、必ずその様になることに決定しています。


生命の大親は、一番皆の為に役にたって居られます。親は、生命の子が、より良く生きて、助け合って生きることを望んでおられます。しかし、人類は、親の気持ちがわかっておりません。ちょうど人間社会でも、親の心子知らずといいますが全く同じで生命の大親心人間知らずということになります。

親が子供を思うように、一人一人が、他の為に役にたつ生き方をすれば、より良く生きていくことができるのに、自己中心で生きております。自己中心で生きると悩むことになってしまいます。何故なら、悩みの本質は、自分の事を考えているからであります他のことを思いやると悩みはありません。そこに自分が無いからであります

生命の大親が全ての為にしていて下さっておられます。私達が皆の為にと行っているとその行いが、体を使ってやろうとも、お金を使ってやろうとも、言葉を使ってやろうとも、全て徳と言運命貯金になることになります。そうすると「生命の大親」に受け取ってもらうことになります。受け取って頂ければその様な現象が起きてまいります。何故なら「生命の大親」が親創造して下さった親の世界であるからです。

現在の地球人は、この徳を減らすことばかりしています。それなのに幸せに暮らそうとしています。しかし、マイナスをしていてプラスになることはありません。他の役にたつことをしていません。地球温暖化、大気汚染、土壌汚染、地下核実験など例を挙げれば沢山あります。このような徳減らしをしていて良くなるはずはありません。誰かが他の為の生き方に気が付いて行って行かなければなりません。

運命財産である徳という運命貯金がありますと、この世界の通行手形の様なもので、より良く生きて活けるのであります。

問題があったときには「生命の大親に願って徳積をして、事にあたれば、必ずその様な現象が起きてまいります。現象が起きると益々「生命の大親」に願い、益々徳を積んでいきます。
しかし徳の無いものは、事が起きると、益々徳を減らしていく生き方をしてしまいます。
日頃より他の為の徳を積んで「生命の大親」
に願って生きていくべきであります


地球に住んでいる人達が、理に沿った生き方が出来ないのは「徳」という生命の財産の事が判っていないからであります。

「徳」とは「生命の大親」が認めて下さった生命霊財産であります。「おつなぎ徳積の理」とは、毎日毎日、日々をつないでいますから「おつなぎ」という「徳積」ということになります。

おつなぎ徳積の理は、真生命霊財産の蓄積した「理」であります。
「理」とは「生命の大親が、お造り下さった、この世をより良く生きていく為の原則・法則・筋道・掟であります。


Ⅰ. 真生命霊財産とは、自己の本質である生命そのものの財産であります。

親生命霊財産=「徳」は、生命そのものに備わっている財産=「徳」でありますから、自分の生命が生命活動を行う場合、より良く生きる為に生命力として働く自分自身の生命の力と働きであります。

「徳」という生命霊財産が無くなると、この物質界をはじめ、命霊界・生命界においてもより良く生きることはできなくなります。

「生存するということは生命活動の姿であります」から「徳」というものが無くなると、より良い生命活動、つまりより良い生存が出来なくなります。

現代の地球人は科学知識の発達によって物質的に豊かになりましたが「徳」が無い為により良く生きる事が出来ていません。「徳が無いと争いや戦争などに無駄なお金やエネルギーをかけて殺しあう為の戦争兵器を作っています。国家予算を赤字にしてまでも軍隊をもち軍事兵器開発競争をしています。また、経済摩擦などの経済競争を世界中で行い、金の変動相場制や株式の売買によってマネーゲームを行い、無駄なエネルギーと資源を消費して生きています。

この地球上で、現在、人類がお互いに殺しあう為の軍隊や戦争兵器を持ち、爆弾テロを行い、更に人間が勝手に作った金を奪い合うための経済戦争を行うようなマイナスの生命活動をして、何か価値があるでしょうか。

国民の為の福祉予算を削り、人間同士の殺し合いの軍事費は何兆円も使って、それで幸せに生きることが出来るでしょうか。

マイナスの種を蒔いてプラスの結果は出てまいりません。どうしてこのようなことが判らないのでしょうか。 それは、たった一つ「徳」という親生命霊財産が無いからであります。

昔のことでいうのなら、こちらは刀を研いで、向こうは薙刀を研いでいて、お互いに仲良くしましょうといっているようなものです。仲良くしたいのならお互いの武器はなくして、助け合う為の予算として使うべきだと思います。このようなことが、全然判っていません。

もし、「徳」という親生命霊財産が人類にあれば、お互いに助け合うための生命活動を行い、より良く生きていく事ができる筈であります。

Ⅱ. 「徳」とは「生命の大親」が生命の御子たちの生命そのものにつけて下さっている生命霊財産であります

金は、本来人間がより良く生きる為に便宜上作った人間の財産であります。

「生命の大親が認めた生命の真生命霊財産は「徳」であり、生存の本質的価値であり、人間が認めた金は、人間が認めている時にだけ通用する物質的・表面的・刹那的価値であります。これは、この世にのみ通用する価値であります。

Ⅲ. 「徳」であります真生命霊財産は、永遠普遍なる価値であり、生命界(生命そのものの世界) 、命霊界(自分の心、意識の世界)、物質界(形ある世界)の全てに通用いたします。

真生命霊財産はより良く生きる為の全てに通用する価値であります。運命・環境を良くする為にも、あらゆる人間関係を良くする為にも、人や物との関係を良くする為にも、才能や能力の開発発展の為にも、よりプラスの観念や感情を保って生きる為にも、誰にとっても絶対的な必要不可欠の生命の真生命霊財産であります。

より良い運命・環境は人間のお金で買うことは出来ません。お金があってもマイナスの生き方や不幸な生き方を人間はしています。お金は全てに通用する生命の財産では無いからであります。

お金は「生命の大親」が認めて下さった生命の財産では無いからであります

運命・環境は「生命の大親」が、それぞれの生命の御子らにお与え下さるものであります。

「徳」がないとマイナスの人生や生存となります。生命活動の全てに通用するもの、それが「徳」という真生命霊財産である事をどうしても悟らなければなりません

「徳」という真生命霊財産は何時・何処でも何にでも通用する「生命の大親」の親生命霊財産であることから、今生だけではなく来世にも来来世にも通用することになります

「徳」という真生命霊財産を選ぶかそれとも現世的な金を選ぶかは各人の悟り次第であります。

Ⅳ. 「おつなぎ徳積の理「生命の大親に対して行うべきものであります。何故なら「生命の大親」御自親だけが生命の御子らの生命に生命霊財産であります「徳」をつけて下さるからであります。


如何なる宗教・宗派の神仏でも、生命の財産として「徳」を増やすことは絶対に出来ません。何故なら生命には、宗教・宗派はありません。生命は誰にでも共通普遍のものであるからであります。

物質界の生存の目的はおつなぎ徳積のを行うことにあります


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# by shizennori1 | 2017-07-26 14:09 | 29.真生命霊財産(徳)
2017年 07月 22日

28.「大自然界」の生き方

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「大自然界」
の生き方は、今までに無い全く新しい人類の生き方であります。ですから新しい考え方を身につける為には、先ず素直に理解して見る事が大切であります。理解した上で実生活に役立てゝ見る事が大事であります。自分の人生や実生活の役に立ってこそ、新しい教えや考え方は価値があるのであります。その為には今までの観念や感覚はそのままにして素直に新しい考え方を吸収して見る事が必要であります。

Ⅰ)より良く生きる為の欲求の段階

誰でもより良く生きていこうとしております。より良く生きていこうとするのは生命あるものゝ本質的欲求であります。ではより良く生きるという事は、どの様に生きて行く事でしょうか? より良いとは何にとって良いのでしょうか? 物質的・経済的にだけ恵まれていれば生きる価値があるのでしょうか?                                                その為に先ず「欲求の段階」を表して見ます。上記が欲求の段階ですが、どの段階を満たせばより良く生きる事になるのでしょうか? 

Ⅱ)自己の本質

自分自身の本質は肉体ではありません。肉体は時々刻々と変化していくものであります。赤ちゃんとしてこの世、物質界に肉体的誕生をして以来、今日まで変化し続けているのが肉体であります。やがて肉体は母なる大地へと還元されるのであります。

肉体は母なる大地の土より出でしものです。ですから、必ず土へ帰るのであります。 (塵なれば塵に帰る)の諺どおりです。                             肉体や物質は死んであの世へもっていけません。
物質界を越えた生命界・命霊界へ行くのは、肉体ではなくて、自己の本質である自己の生命・霊魂なのです。

生命や霊魂こそ自己の本質なのであります。

自分の生命力が自分自身の霊的観念を作っていきます。生命の力と働きが霊的観念波動を作り、その霊的観念波動が綜合して自己の霊魂を形成しているのであります。

ですから最終的に自己の本質とは、生命そのものであります。自己の本質とは生命そのものであります。

Ⅲ)生きる事の意味(生存の本質と次元)生命活動と霊的生存・肉体的生存

生きると言う事は、どういう事でしょうか? 生きるとは自己の生命が活動している姿であります。生命が活動しなくなったら一般には肉体的に死んだと言います。

ですから「生存とは生命活動の姿なりと言えるのであります。

※ 肉体的生存

自己の生命が肉体をもって生命活動を行っている場合を肉体的生存と言います。つまり肉体的に生きている事を意味します。生命活動とは、生命の力と働きをもって自己形成を行うことであります。

麦は麦の生命力をもって麦としての植物の体を作ります。魚は魚の生命力をもって魚の体を作ります。牛は牛の生命力をもって牛の肉体を作ります。この様に生命活動とは自己形成なのであります。

換言すれば、肉体的生存とは肉体を作っていく為の生命活動なのであります。これが物質界で肉体的に生きるという意味です。

※ 霊的生存

霊的生存とは、生命が自己の霊的観念を作っていく事であります。自分の性質や観念・感情などを形成して行く事です肉体的生存の体験・経験を通して全ての生命は自己の霊的観念=霊魂を作っていくのです。霊的生存とは肉体的に生きる事を意味しておりません。生命が霊的観念を作る事ですから、生命は肉体的生存を行なっていると同時に霊的生存をもしているのです。 

肉体を土に返して肉体の生命活動を止める事を肉体的死と言います。しかし生命は霊的生命活動を続けます。肉体的死によって命霊界(霊界のこと)に帰るという事は、旅行から家に帰ったと同じことであります。家に帰れば旅行の思い出話をしたり、旅行で撮ってきた写真を整理したり、旅行の思い出を味わいます。命霊界も同じことです。

肉体的誕生とは、自己の霊魂が命霊界から物質界に旅行に出発して来たことなのです。肉体的死とは自己の霊魂が命霊界に帰ることであります。 命霊界に帰ってから霊魂は肉体的生存によって色々収穫した霊的観念を味わい、又次の肉体的旅行に備えて思い出を整理したり致します。命霊界におけるこの様な生命活動を霊的生存というのであります

霊的生存によって自己の本質であります生命は自分の霊的形成を行います。

つまり霊的成長発展をおこなうのであります。生命は常に自己形成の仕事をするのですから肉体的生存の場合も、霊的生存の場合も同じことなのであります。

生命は霊的生存をすることによって自己の霊的観念を広げ、霊魂の成長発展を行うのであります。 ですから、肉体的生死にかかわらず生命は霊的生存を常に行っているのであります。

※ 生命的生存

生命が生命活動を行っている事を生命的生存と言います。しかし、生命は本質的に能動的意志の力と働きですから、生命は常に生命活動を行っております。生命活動自体が生命的生存です。

生命的生存とは、霊的生存肉体的生存の生命活動を行うことを意味します。

生命は本来、常に能動変化する力と働きであり、永遠普遍なる存在であります。

ですから自己の本質であります生命は永遠普遍なのであります。

つまり、自己は本質的に永遠普遍なる存在である、ということです。

Ⅳ)生きる為の価値

より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのであります

より良く生きるという事は、自己の生命・霊魂の成長発展に役に立つ人生を送る事であります。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・霊魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのであります。

今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・霊魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのであります

生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があるのであります。

生きる為の価値

より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのであります

第一段階の肉体的価値というのは、表にあるように、物質的価値であります。いわゆる動物的な本能を満たす為だけの欲求であり価値であります。物質的な段階ですので、物中心の生き方です。

第二段階の社会的価値というのは、この世的な価値を求める段階であります。例えば、魚を収穫したとします。しかし魚を沢山もっていたとしたら、そのままでは腐ってしまいます。だから第二段階の通用範囲の広いお金に変えていきます。お金をもっていても、それでは幸せかというと、必ずしもそうではありません。

第三段階の精神的価値といいますのは、こんどは、お金という段階を、もっと通用範囲の広い信用とか、運命とか、環境などに変える事のできる霊的価値の段階であります。

第四段階の生命的価値と言う事になりますと、永遠普遍なる価値であり、全てに通用するところの価値であります。つまり、与えて与えての、他の為の生き方になり、決して、してもらう段階の価値ではありません。要するに、徳と悟りの親生命霊財産の段階であります。

より良く生きるという事は、自己の生命・霊魂の成長発展に役に立つ人生を送る事であります。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・霊魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのであります。

今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・霊魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのであります。

生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があるのであります。


その為には、どうしても親生命霊財産であります徳と悟りを高める生き方をしなければなりません。




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# by shizennori1 | 2017-07-22 16:36 | 28.「大自然界」の生き方
2017年 06月 24日

27.生命的役割

私達を活かして下さっています「生命の大親」がお与え下さっています生命あるものの全ては、気付こうと、気付かざるとに関わらず、全て生命的役割を与えられています。


生命的役割
とは、生命的次元における役割であります。即ち、自分の生命が果たさなければならない生命の役割であります。この物質界における肉体的生命活動を通して、全ての生物は自己の生命的役割を果たすことが最も大切であります

生命とは本来、能動的力と働きがある存在であります。従って、常に何らかの仕事を行っています。生命とは生命力・生命エネルギーのことであります。

この世における肉体的生存とは、自己の生命の役割機能を果たす為の生命活動であります。

そして、生命活動をして作り上げた自分の体であります魚、肉、野菜、果物なども他の為の生命の役割機能を果たしております。

例えば、秋刀魚、イワシなども大きな魚に食べられて、肉、野菜、果物なども人間に食べられて生命の役割機能を果たしております。

他の生命は、皆食物連鎖の理によって、体を呈して役にたって、徳積を行っています。本当に誠で行っております。ニワトリはフライドチキンになり、卵は食べられて純粋に、人間のお役に立って生命活動を行っているのに、人間は何を考えて殺戮を繰り返したり、戦争兵器を造り、殺し合い、宗教争いをし、怨み、つらみで生きているのでしょうか。どうして「生命の大親」の御親意(みこころ)が判らないのでしょうか。これで果たして、自分達だけが幸せに暮らすことが出来ると思っているのでしょうか。どうして、他の為の役に立つ素晴らしい生き方をしようと思わないのでしょうか


この様に「生命の大親」は、生命が生命を支えあう、助け合いの親世界を親創造して下さっておられます。その事を人間は、弱肉強食と間違った考え方をしています。これでは、他の生物に対しての感謝は生まれません。

生命が生命を支えあう、生命に対する感謝が、大変大事であります

私達を活かして下さっています「生命の大親」御自親は、親生命活動を全ての生命の御子らの為になさっておられます。

「生命の大親」の親生命活動とは、大自然界(生命界・命霊界・物質界)の全ての現象・事柄を行っていてくださる役割機能であります。

「生命の大親」御自親が大親としての役割機能を全ての生命の御子に対して行っていて下さるが故に「親子の原理」により、派生的部分であります全ての生命の御子らも、それぞれの自己の生命的役割を果たさなければなりません。

「生命の大親」が行っていて下さる生命的役割役割といいます。

「生命の大親」の親生命活動のお役に立つ為の生命活動を行う場合は、特に真役割といいます。

私達が、自己の生命的役割機能を果たさない場合は、自己の本質であります「徳」という親生命霊財産を失うことになります。物質界の肉体的生存の目的・意味は「徳」という親生命霊財産を増やして行くためであります


「役割機能の原則」
とは、全ての存在価値は自己の内部に向かって役割機能があるのではなく、他に役立つ為に存在しているという事であります

他に役立つという役割機能を失った場合、自己の存在価値は失われて、後は自然淘汰されて消滅するだけであります。これが「自然淘汰の原則」であります。


更に、自己の生命的役割・真役割を果たす為には、能動的意志をもって、積極的に「おつなぎ徳積みの理」を行う事であります。

「徳」とは、言葉を使い、お金を使い、体を使い、「徳」という運命貯金を増やし、この素晴らしい世界(生命界・命霊界・物質現象界)を生きていく事の出来る各々の生命そのものにつけて下さっている親生命霊財産の事であります。

この様に、親生命霊財産をうんと増やして、自己の生命的役割・真役割を果たさなければなりません

最終的には「生命の大親」の親生命活動のお役に立つ為の生命活動を行う生命的真役割を果たすまでにならなくてはなりません。


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# by shizennori1 | 2017-06-24 14:55 | 27.生命的役割
2017年 06月 24日

26.生命の役割と機能

私達をこの世に活かして下さっておられます「生命の大親」は、御自親の「大生命力」の全てをかけて親の子の全ての親育成に使っておられるのであります。即ち、生きとし活けるあらゆる動物・植物の全てのものに「親の子」として生命を与え、生命的・霊的・肉体的により良く活かそうとして親育成をしていて下さっているのであります。

生命的生存とは、生命が「生命の本質」であります自己自身の力と働き〔エネルギー〕をもって生命活動を行う事を意味しているのであります

現代の人類は、エネルギーが不生・不滅〔生まれもしない死にもしない〕ものであり、永遠普遍に存在するものであることを「エネルギー保存の法則」として、物理の科学的知識で学んで判っています。

「エネルギー保存の法則」とは、生命の本質を物質的側面から、科学的知識として把握したものです。即ち、生命自体が生命活動を行っているからこそ、物質界における生命活動の姿を観て、「エネルギー保存の法則」として人類は知識的に捉える事が出来たのであります。


生命とは、能動的な力と働きなのであります。自ら何かを行い続けていく力と働き〔エネルギー〕であります。常に何かをしていく力と働きそのもの〔エネルギー〕が、生命の本質です。


「生命の大親」は御自親の「大生命力」の全てを使って「生命界(生命そのものの世界)・命霊界(きもち・意識の世界)・物質界(形ある世界)」の全ての営みをなされております。そして生命の御子らの親育成の為に、全ての「大生命力」を使って下さっておられます。


霊的生存
とは霊的観念(その人の持っている意識)の親成長発展の為の生命活動であります。生命は常に生命活動を何らかの形でおこなっております。自己の霊的観念(その人の持っている意識)を、生命の本質にそって親成長発展させるために行う生命活動が霊的生存であります


霊的生存
は、物質現象界での肉体的生存によってプラスにも、マイナスにも決まります


肉体的生存
とは、色々な人生体験・経験をして霊的観念(その人の持っている意識)を収穫する為にあるのです。即ち、肉体をもって実際に体験・経験した実感こそ、自己の(その人の持っている意識)霊的観念
の収穫となります


この世での生き方が生命の本質に逆らい、物質界の刹那的・部分的な感情や我欲に囚われたなら、せっかく生きたこの世の一生は、マイナスの霊的観念(その人の持っている意識)の収穫となります。やがて霊界に帰ったなら、マイナスの霊的生存をおこなう結果となるのであります

自己のこの世での生命力を何にどう使うべきか? この事を「生命の本質」に沿って真剣に考え、実行しなければなりません

自己の生命の役割機能をしっかりと悟らなければなりません。


「生命の大親」御自親が行っておられる如く、全ての生命ある親の子は、他の全ての生命霊魂の親成長発展に役立つ肉体的生存をおこなう事が最終的絶対なる掟であります。これが「生命の役割・機能」です

「生命の大親」にお受け取り頂くよう徳積みを行い、他の全ての生命にプラスする事が、自己の生命の役割機能なのであります


生命財産である徳積を行う事が「生命の役割・機能」であります。この事により自己の生命や霊魂の親成長発展を始め、全ての生命の御子らの生命・霊魂の親成長発展になります。


しっかりと「生命の役割・機能」を悟って価値ある一生の生命活動を行うべきであります


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# by shizennori1 | 2017-06-24 14:21 | 26.生命の役割と機能
2017年 05月 17日

25.親心と子心

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問題は意識の問題であります。意識が親心であるか、子心であるかであります。

よりプラスの方へ上昇するか、よりマイナスの方へ下降するかであります。

助けてくれ、助けてくれと言えば言うほど助からなくなってしまいます。1回助けてくれと言った人と5回助けてくれと言った人と比較すると、当然5回言った人ほど助からないのであります。
要するに一つマイナスをすれば一つのマイナス現象が起きます。五つのマイナスは五つのマイナス現象を起こします。この様にバランスをとられることになるのであります。


全て自然界はバランスの法則によって成り立っております。だから真実の生き方をしなければならないのであります。

親心は常に
徳を増やす生き方になります。親の意識で考えてみますと問題が生じたときに必ず他を助ける立場をとることになります。

親心のある者は常に他に対して何かしてあげよう、してあげようと言う意識をもっています。
このような意識を持つと、自分の持っている意識が段々高くなり自己拡大につながっていきます。
つまり、親心が広いものになっていきます。そうすると精神的に安堵感が増してきます。


この他に対して行うプラスの生き方は、自分の持っている意識が段々高くなって、自分の観念がプラスの親心を持った、徳の器の大きな貯金の生き方となっていきます。

これに反して不徳の者は、常に愚痴、不足、不満不徳の生き方をしてしまっています。
常に他に対して何かしてもらいたい、してもらいたいと頼ることをしています。
子供が親に、駄々をこねてオモチャを買ってくれ買ってくれといっているようなものであります。


問題は自分の事だけに執着して、自己中心に陥っていることになります。こういう事にだけ、囚われていますと、段々ノイローゼがかってしまいます。そして徳(運命貯金)が減ってしまいます。いわゆる生き方の本質を見失っています。これが自己縮小となっていきます。
その結果自分の存在感が失われてしまう結果となります。そういう徳の無い生き方に陥ってしまいます。

これが借金を作る生き方になります。何をやってもうまくいかないで苦しんでいる境遇であります。
そうすると子心に増々なっていきます。

しかし、どこの境遇にいても、必ず脱することが出来ます。

問題は意識の問題であります。必ず解決するのだと言う強い意志をもって取り組めばそのようになります。自動車を動かすとき、最初は大きな力が必要です。走り出したら大きな力は必要ありません

西郷南洲翁遺訓の中で「生命もいらず名もいらず官位も金もいらぬという人は始末に困るものなり そういう人ならでは艱難をともにして国家の大業はなしえぬものなりと言っています。

だから、自分(自己中心の気持ち)があって行動をすることはよろしくないといっているのであります。
それは政治家だけにいえることではないのであります。

そういうことで生き方が親心でなければならないのであります。

このことから
他の為にと言う気持ちで行う事でなければなりません。

プラスの喜びの収穫とするか、マイナス苦しみの執着とするかであります

要するに、こういうことを認識してくると、この世は
徳積し放題の世界であることになります




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# by shizennori1 | 2017-05-17 19:08 | 25.親心と子心
2017年 05月 09日

24.霊的観念・命霊観念

私達は、生命の祝福を頂いて、親の造られた世界であります親物質界(形ある世界)に生まれさせて頂きました。誰によって生まれさせて頂いたかと言いますと「生命の大親」によって、特定の両親のもとへ誕生させて頂きました。

そして、この人生旅行をしております。旅行には出発と終わりがあります。では何の為の旅行でしょうか。旅行は、その素晴らしさを味わい収穫する為であります。


それに「生命の大親」は無目的に生まれさせるはずはありません。親は、生きる素晴らしさを収穫させる事と共に、親の意識へ成長することを望んでおられます。


それを人間は、マイナスの苦しみの収穫しかしておりません。問題があれば、苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、因縁があるからだとか、おもしろくないだとか、つらいだとか、くるしみだとかいい、決して素晴らしいとは言いません

それに、言葉もマイナスの言葉を使っています。因果応報だとか、自業自得だとか、残念だとか、予期せぬ出来事とか、風上にも置けないとか、必ずマイナスを帯びています。

更にストレスといいますが、その反対語はありません。素晴らしい気持ちが、たまってどうしょうもないという言葉はありません。全てマイナスの表現です。

自業自得とは、プラスの言葉なのにマイナスに使っています。もし使うのなら自業自損と表現すれば良いと思いますがその様な使い方がありませんし、辞書にも載っていません。

残念という言葉も、本来は、思いを残すという言葉であるはずなのに、悪い時にしか使いません。何かおいしいものを食べて家に帰ってきたとします。家に帰ってきてからあれはおいしかったな、残念だったなと使っても良いはずなのに、そのようには使いません。

予期せぬ出来事といっても、必ずマイナスの出来事を予想します。予期せぬ出来事といったら、何か素晴らしいことかなという思いはありません。この様に何をとっても皆、マイナスの気持ちの固まりでありま霊的観念(命霊観念)になっています。

このような意識で幸せに生きようと思っても無理であります。意識、つまり霊的観念(命霊観念がマイナスになってしまっています。

どうしてもプラスの意識でありますプラスの観念を持たなければ、幸せには通れません。問題があった時こそ、プラスの気持ちで通らなければなりません

しかし今日、色々な問題が起きた時に、どうしても自分の持っているマイナスの気持ちであります霊的観念(命霊観念)が出てきます

このようなマイナスの気持ちを収穫すると、それが自分自身の気持ちの固まりである精神、御霊、性格となっていきます。このことを霊的観念(命霊観念)といいます其の人だからその様な気持ちをもつということであります。

どうしても問題があった時にプラスの意識で通れる事が出来ますように、日頃からプラスの意識作りが大事であります。それには「生命の大親」に願って徳積を行い、徳を増やして通るべきであります

そうして、プラスの意識の収穫をして、その様な気持ちの固まりである霊的観念(命霊観念)を作り上げるべきであります。

そうするといつの間にか、そこを通れるようにして下さいます。つまり、いい事をすれば、その様に通れます。これが悟りであります

要するにプラスの意識で通るのか、それともマイナスの意識で通るのか、それが問題であり、その様に通れる徳と悟りが大変大事なことになります


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# by shizennori1 | 2017-05-09 15:58 | 24.霊的観念・命霊観念
2017年 05月 09日

23.「悟り」と「苦しみ」

ムンクの叫び

物事の良い面を観てプラスに考えるのと、悪い面を観てマイナスに考えるのとでは、全く正反対の結果が、自分の気持ちや行動に現れてくるものです。

たとえ同じ相手の人であっても、その人の良い面を観るか悪い面を観るかでは、人間関係が全く違ったものになってきます。

嫁姑の仲が悪い場合、それは当人同士の仲が悪いのであって夫婦仲が悪いのだという事ではありません。むしろ夫婦仲は良いのかも知れません。嫁の立場になれば、自分の実の親や兄弟、友人知人達とは良い人間関係を保っており、姑以外の他の人達からは好感を持って見られているのかも知れません。

この事は姑の場合にも当てはまります。姑は自分の実の娘や息子達にとっては良き母親であり、孫達にとってはやさしいおばあちゃんであり、お茶のみ友達である親友達や知人からは良い人として見られているのかも知れません。

お互いに嫁・姑としての仲だけが悪いのであって、他の人達との仲が悪いのではないのです。同じ人間に対しても、その人と見る立場が異なると違ってくるのです。この事は親子、夫婦などあらゆる人間関係にあてはまります。

物事をプラスに考えるのか、マイナスに考えるかという事は自分自身の気持ちに大きく影響してきます。自分の気持(感情)は自分自身に大きく影響してきます。と言うよりはむしろ、自分の気持こそ自分自身であり、他人がどう考え感じていようと、それはあくまで他人の気持であって、自分自身では無いのです。

自分自身とは、自分の気持(観念)そのものであるという事を良く理解しておく事が大切です。同じ事柄であってもプラスの気持を持つか、マイナスの気持を持つかは、自分自身にとって最も重大なことです

一般の人達ならば、きれいな夕焼けをながめて美しいと感じるのが普通のことです。しかし、近代表現派を確立したノルウェーの画家エドワルド・ムンクは、夕焼けの赤色を見て恐怖の「叫び」という題の有名な絵をかきました。

ムンクが5歳の時に、結核にかかっていた母親が血を吐いて死に、彼にとって日没の光景は母親の喀血を感じさせるものでした。その時の夕日に染まった雲の印象をムンクは“凝固した血液”のようであったと 言いました。彼にとって赤色は、母親の命を奪った吐血の色であり、ムンクの潜在的観念の中には強くその印象が残っておりました。

ムンクは「叫び」と題するこの絵の中で、彼の持つ恐怖のイメージを無意識のうちに表現したのでした。従って彼は、赤を恐怖・苦しみ・不安を表す色として使いました。

恐怖と苦痛に満ちた過去のイメージにとらわれていたムンクは、自分の恐怖の気持(観念)を絵に表す事によって、自分自身の中にある不安や恐怖や苦悩と戦い続けてきたのですが、ついに45歳を過ぎてからは精神病が強まり、分裂病の状態が続き、晩年には現実の世界と、自分の観念(気持)の 世界である絵の世界とが入れ替わってしまい、自分の作品の中に埋もれて生涯を終わりました。ムンクは「肉体と精神の病は、ゆりかごを守る黒い天使であった。」と語っておりました。

「自己の観念の世界」

夕焼けという大自然の同一の事実を、ある人は美しいと実感し、他の人は恐怖を実感し、又ある人は人生のたそがれとわびしさを実感いたします。

私達の心はどの様にでも同一の事実を感じる事が出来るのであります。つまり、心というものは同一の事実をどの様にでも実感できる自由選択を持っているのであります

同一の事実を私達はどの様にでも感じる事が自由選択性によってできるのですが、しかし、自分がひとたび実感してしまうとそれが自分自身の気持という事になります。

心というものは、自分が実感している世界にのみ住んでいます。自分が感じている世界が自分の気持であり、自分の心が住んでいる自分の気持の世界を自己の観念の世界と言います。

自己の観念の世界とは、自分が認識し、判断し、実感している世界の事です。

夕焼けを美しいと感じたり、恐怖に感じたり、親子・夫婦・兄弟・嫁姑でお互いに素晴らしいと感じたり、逆に憎らしいと感じたりしている自分の気持ちの世界が「自己の観念の世界」なのであります。

相手の人を憎らしいと感じた場合、その憎しみは相手の人にあるのではなく、その様に認識・判断・実感している自分自身の心の世界にあるのであります。相手の気持がどうであれ、自分が憎しみを感じなければ、自分にとって憎しみの実感は無いのであります


悟りの世界とは、自分自身の観念の世界が喜びや味わいや感謝であふれた世界なのであります。自分自身の観念の世界に不足不満・苦しみ・憎しみなどのマイナスの感情が無い世界であります。


悟りとは、苦しみを喜びと感謝に変える力であり、悟りが無ければ自己の観念の世界は、何時までたっても素晴らしくならないのであります

凡そ人の行動というものは、全て自分の欲求を満たす為であり、欲求を満たす事によって喜びと味わいのプラスの実感を持つ為であります。

旅行に行って良かった。美味しいものを食べてよかった。一緒に暮らして良かった。今日一日生きて良かった。この世に生まれて良かったという生存の喜びと味わいの実感を持つ為に、生存の全ての行為はあるのであります。

良かったというプラスの実感を得んが為に全ての努力も行動もあるのであります

もし、旅行に行ってつまらなかったら、高いお金を出して食べたものがまずかったなら、一緒に暮らしている相手がいやだったなら、今日一日生きる事が苦しみだったなら、それはこの世に生まれて生きる「生きがい」が無いのであります。

更に生きる事で、眼が見える事、耳が聞こえる事、口がきける事は、大変な喜びと感謝であるはずであります。もしも、失明したり、聴力を失ったり、声が全く出なくなったりしたなら、誰でも死ぬほど苦しみ、悩む事になるのであります。

だから、見えて聞こえて話せる事は、最大の喜びと感謝であります。

無くなれば最大に苦しむのですから、有る事に最大の喜びと感謝を持つ事が悟りのコツであります。

凡そ悟りというのは、一般の人々が見落としたり、或いは当たり前であると思っている現実の事柄の中に、生きる最大の喜びと感謝を見い出し、自己の観念の世界をプラスの実感で満たす事なのであります

見ざる聞かざる言わざる(話さざる)の三猿のたとえは、否定的に解釈されていますが、本来の意味は、見え聞こえ話せる事に対する積極的な喜びと感謝の悟りを教えているはずのものなのであります。見え聞こえ話せるからこそ、私達は生きている事の色々な喜びや味わいを体験できるのであって、見え聞こえ話しあう事ができなければ、たとえ、人生の如何なる事柄や問題があっても、生きる味わいとしての体験や経験は出来ないのであります。

映画や芝居やテレビ・ドラマを見聞きする場合、それが喜劇であれ、悲劇であれ、悲惨な戦争ものであれ、活劇・スリラー、お化け映画などの奇怪ものであれ、それぞれを生存の味わいとして楽しんで見ています。自分が直接体験できない人生の色々な味わいや感情を、映画やテレビによって経験し、生きているからこそ味わえる色々な感情を楽しんでいるのであります。

悟りがあれば、この地球という人生劇場に生まれてきて、自らが人生劇場の主演男優・主演女優として自分自身の人生劇を演じ、現実の人生体験を通して色々な感情の味わいを楽しむ事が出来るのであります

それは丁度、私達が映画やテレビ・ドラマを見て色々な感情を楽しむ様に、実生活における自らの生存の体験から得る種々な実感を生存の味わいあるものとして喜びと感謝をもって楽しむ事ができるのであります。

悟りとは、生きる事の味わいと価値を高める能力であり、悟りが無ければ、如何に物質や人間関係に恵まれていても、自らの観念の中に幸せの実感を持てずに一生涯を通ってしまうことになるのであります

物質的に豊かになっている現代人達に最も必要なものは、自らを不安やストレスから開放する悟りの力と働きということになります。


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# by shizennori1 | 2017-05-09 12:32 | 23.「悟り」と「苦しみ」
2017年 05月 03日

22.プラス善とマイナス悪

問題は考え方にあります。その様に考えた結果、どのような感情になるかであります。思考からーーーーー→その様な実感(感情)が出てきてーーーーー→そういった行動・行為になります。その場合善悪の価値基準は何かという事になります。

例えば、あの人は変な人だと考えている時に、その相手に出会ったとしますと、その時マイナスの感情になり、マイナスの顔つきになります。
画家であるムンクが、赤い色を見て恐怖を感じました。その実感を表現したら、その様な行動をしました。この場合は、マイナスを表現した世界であると言えます。この事から、実感をつねに表現しているという事になります。

         ムンクの「叫び」という絵

この親物質界では、何かを常に表現しています。マイナスを表現したら自分が苦しむのであります。自分自身がマイナスを感じたことにより苦しむのであります


例えば、商売はどうですかと尋ねますと、いやー大変ですよと、会社はどうですかと尋ねても、いやーうちの会社は大変ですよと、おたくの会社はいいでしょうと、何もその様に損して通る必要は無いのであります。お宅の奥さん素晴らしいですねというと、そんな風に見えますかとか、必ず否定的なマイナスを表現しております。

日本人は、本音と建前があります。マイナス思考をすると世の中それがいいとして解釈しています。
女性に貴方のご主人を褒めると、どう言うかといいますと、とんでもないという。普通はとんでもない相手と結婚するかと言いたくなります。

そうすると職場でプラスの方を言う人が何人ぐらいおりますかと言いたくなります。夫婦の褒め合い、プラス思考がなかなか出来ません。

季節の事でも暑いときは暑いと、寒い時は寒いといい現実が素晴らしいから、現実の素晴らしさを受け入れる事が大事であります。こういうのを思考といいます。


要するに、現実にある今日一日生きる現実の運命、環境を素晴らしく生きる事であります。

プラス思考というのは、理性的判断力であります理性的判断力がプラスであれば己自身に実感としてプラスの実感を持つことが出来るのであります。

行動が行いの種であります。行動は自己生存の表現であります。これは「実行実現の原則」で、行いの種となります。
そのように行えばそのような結果が出るのであります。麦まけば麦が生えてくるのであります。今日一日素晴らしく生きたら絶対その様になってきます。

人間関係でも、相手のプラスの方を見ているのか、マイナスの方を見ているのかであります。
マイナスの行いをしたら、その事が自分の運命・環境に必「循環の理法」でめぐってきます

東西陣営で、外国がお互いに対立の種を蒔いています。相手をやっつける為、核兵器を開発しています人類が毎日マイナスの種を蒔きますと地球の運命がマイナスの結果を招く結果となります。

つまり、自分がマイナスの事をしていますと、累積して地球の運命がマイナスの運命となるのであります

自分だけが、助かるだとか、浮かばれるだとか、金が儲かるとか、罪を許してもらうとか、それで助かる訳は無いのであります。

私達は、丸い宇宙船地球号に乗っていることになります。「生命の大親」が、この地球を回し、空気を飛ばないように、引力で引っ張って下さっておられます。しかし、私達は、この宇宙船の空気を汚染しています。それにもかかわらず、自然と言う名の「生命の大親」が、ジェット気流や偏西風などで換気をしていて下さっておられます。人間がしているのではありません。

今、活かされている時は、肉体的に精神的に、生きているのですから心配しても運命は変わりません。愚痴言っても変わりません。因縁があるとか、方位が悪いとかマイナス思考をやっていたらノイローゼになるだけであります。そこで理性的判断をプラスにしなければなりません。

善悪の価値基準はどうなのかと言いますと、人類は全然わかっていないのであります。一体、何をと考えるのでしょう。
そこで、肉体的生存を考えてみますと、思考という考え方、何をどう認識したか、これで実感が出てきます。認識の問題であります。

    ルイスウェインの3匹の猫

ルイスウェインという画家が描いた猫、この猫を怖いと判断した。そして恐怖となりました。自分に害を与えるのかと思い、段々怖くなって恐怖でとおりました。猫を見て、最初かわいいというふうに感じていました。それを恐怖に感じて通りましたから、ルイスウェインは不幸な一生となりました。恐怖で通りましたから増々運命・環境が恐怖になっていきました。

     ルイスウェインの猫の絵       

ここにマイナスに思考してマイナスの感情となりマイナスの行動をして、生存の表現をしています。
だから本気になってプラスを表現できるかということであります。

要するに、猫をマイナスに考えマイナスに表現したら、マイナスの生存となる結果をもたらすのをといいます。

というのは、マイナスの生存の結果をもたらします

というのは、プラスの結果をもたらします。そのような思考であり、感情であり、行いの種であります。これをプラス善と言っております。

目先で欲求を満たす事をしてしまった。この目先のマイナスの感情に流されてマイナスをした事が本当に自分の一生にプラスかどうかであります。

とは、そのときはつらいけれども、後で結果的にはプラスになる事であります。
感情は、常に刹那的であります。熱いという感情は、喉元すぎれば、実感はそのときしかありません。

例えば、おいしいお菓子を食べて、プラスの実感を持つと、食べて良かったな、ああ良かったなとなるのであります。これが、心豊かに、生きる味わいとなるのであります。そして生存がプラスとなるのであります。

生存を、より広く、より長くプラスにしていかなければなりません。
より広くとは、己だけではなく、一家だけではなく、全人類、全生物に、他のものに、よりプラスを与えていくことであります。今は、一寸つらいけれども、頑張ってもっと大きなプラスをもたらすことであります。これをといいます
種をまき、一生懸命育て、素晴らしい収穫をたくさんしました。これをといいます

目先で感情を満たしたとしても、後で結果的にもっとつらい事がきます。これをといいます。今、目先の感情で、ああだ、こうだといい、そして結果的には人間関係をその感情で駄目にする。これをといいます。

自己防衛と自分の我を満たしたいが為に、己の感情に左右されて、その感情をコントロールできない。これをといいます。そして己自身をマイナスにしてしまいます。


地球という宇宙船の中で、核兵器を造って、宇宙船をぶっこわそうとしています。

理性的判断力をプラスにして、行いの種を人生に蒔けばプラスに生きられます。
何を基準にしていくかといいますと大自然の親理法則であります。親理に沿って助けあえば、地球が平和になります。

教育改革にしても、其の人の意識であります御霊、つまり命霊観念を切り換えなければ、制度をいくら変えても人間は変わりません

己の人間性、己の中身を変えないと制度を変えても本当の改善はありえません。本当に中身から、根本から変えようとするのは、1000人に一人もいません。制度が問題ではなく、私達の実感が問題であります

しかし、その実感は理性的判断力、思考という問題に由来します

マイナスの思考は、マイナスしか考えられません。そしてマイナスの実感を持ちます。癪にさわりますとその行動しかしません。マイナスの感情の行動しかしません。感情に左右されてその様になってしまいます。それが全てになってしまっています。

感情がより広く、より長くなるのがといいます。自己の生存は他の生存に直結しています。自他一如であります。
つまり、
他のことも我が事であります。


感情がより刹那的、より短く、より自分だけ、より小さいものをといいます。猫が目先で魚を取るように、人類も長い目で見たらその様な事をしています。


生命性に目覚めた親性意識のある親性人は「生命の大親」の大きな生命によって親の子として活かされております。そして生きるのは素晴らしいと、その前提と感動にたって親理に沿って生きられるのであります。

同じ一日生きる生き方が恐怖に生きるのではなく、今日一日を感動で生きるのであります。
生存を感動で生きなければなりません


与えられている人間関係、職場や家庭、今、与えられている運命・環境のこの中で最大の、最高の、最善の喜びと感動をもって通るのが悟りであります

その為には、実際プラスの種まきをするのであります。その為には実感がプラスでなければ出来ません。感情がプラスになるのには、プラスの思考をしなければなりません。プラスで判断しなければなりません

プラス思考、プラス善、マイナス悪、一人一人がマイナスの行いをするとマイナスの蓄積となる地球となってしまいます。

今この生きている感動を真実感してみる事が大切であります。思い方一つ、感じ方一つ、判断し方一つ、プラスでもっともっと判断してみる必要があります。


その為に、プラスの思考をし、理性的判断をプラスにし、プラスの実感をもって生きていかなければなりません

「生命の大親」にお受け取り頂く事が出来ますよう、如何なる運命・環境でも、とにかく最大にプラスで生きていくことであります。
お受け取り頂かなければ、その様な現象は、起こりません。

何故なら、全てこの世を親創造し、より良く生きて活けるようにして下さっておられるのが「生命の大親」であるからであります。
自然と言う「生命の大親」は、あらゆる宗教宗派、人種、民族を越えて誰にでもあてはまる、永遠(時間を越えた、いつでもという事)なる、また普遍(空間を越えた、何処でもという事)なる存在であるからであります。

つまり、親生命界(生命の世界)も、親命霊界(御霊・意識の世界)も、親物質界(形ある物質の世界)も、全ての全てを行っていて下さっているからであります。

この御存在は、あらゆる宗教宗派、人種、民族の、その中だけで通用する神仏では無いからであります。

要するに、宗教宗派、人種、民族の問題ではなく、この事を越えた生命の問題であり、生きる問題であるからであります


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# by shizennori1 | 2017-05-03 12:17 | 22.プラス善とマイナス悪
2017年 04月 11日

21.「機会・場の理法」

「生命の大親」は御自親の永遠普遍なる親時間空間の理の一部を私達、生命の御子らの御霊(みたま)の親成長発展地球の親性親化発展のために授けていて下さっておられます。

「親時間空間の理」というのは「生命の大親」のお力・お働きにより、この物質界(形ある世界)の「時間と空間の理」を、私達、生命の御子らの為に親現(現していて下さって)お造り下さっておられます。

「生命の流れ」としての「時間の理」を、現していて下さっておられ、更に「生命の広がり」として「空間の理」を現していて下さっておられます。

地球の親性親化発展とは「生命の大親」が、この地球を素晴らしい生命の愛に満ちた、お互いに助け合う、親性という生命性に目覚めた地球に成長発展していく惑星の地球になっていくことであります

生命の御子らの生命活動であります親命霊界(みたま・こころの世界)や親物質界(形あるせかい)の全ての霊的生命活動も、物質体的生命活動も全ては「生命の大親」がお授け下さいました「親時間空間の理」機会・場であります。

「有意味行為の原則」により「生命の大親」が、どういう理由で、この親時間空間を私達にお授けして下さっているのかをしっかりと悟らなければなりません。

「生命の大親」は全ての生命の御子らに「親時間空間の理」真性地球の親性親化発展の為の「真種・真材料の理」としてお授け下さっておられる事をしっかり悟らなければなりません。

「真種・真材料の理とは、自分の行いの種が、真種として地球を良くする為の真材料で通ることであります。

「生命の大親」より、お授け頂いている運命・環境の全ての機会・場の親時間空間を、理に沿って活用しなければなりません

「生命の大親」の御親意(みこころ)に沿って、地球をより良くする為のお役に立って、親時間空間を使用させて頂かなければなりません

「生命の大親」により、お授け頂いている価値ある貴い機会・場を大事にして、無駄にしてはいけないのであります。
自個自芯の低次元の感情や観念により、親時間空間を無駄にした生き方をしてはいけないのであります

特に今生、「親時間空間の理」を最大・最高・最善に「真種・真材料の理」として真活用して生きなければなりません

「生命の大親」が親現していて下さる「親時間空間の理」の一部を、それぞれの生命の御子は、自分の運命環境の時空間としてお授け頂いております。この事が「機会・場の理法」であります


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# by shizennori1 | 2017-04-11 14:47 | 21.「機会・場の理法」
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」③

運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしているのでは、本質的に犬猫などの動物と変わらないのです。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからであります。

交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのであります。

親がどういう子供を欲しいといっても
「生命の大親」の大自然から与えて頂くしか授かりません。親が子供をつくるのではなく、大自然から、子供を授けていただくのであります

「生命の大親」は大自然の力と働きによって、全ての生物の霊的成長に最も必要でプラスとなる運命・環境をお与え下さるのであります。

運命・環境は決して悪いものはありません。問題は、その問題をどの様に通るかであります。

必ず通れる問題であります。問題そのものをマイナスにとらえてはいけません。問題があるから努力して伸びていくのであります。何もなかったらおもしろくありません。問題があるのはプラスのことであり、やりがいがあることであります。しかし、なかなかプラスに思えずにマイナスに思ってしまいます。ではマイナスに思ってそのようになってもいいのですかというと、そうなりたくないと言います。それだったらプラスに素直に思えばよいことになっていることになります。

マイナスの否定的な、ネガティブな、悲壮感な考え方に陥りやすいのです。このような観念、意識を、プラスの方へ切り替えなければなりません。このことを意識の真転換と言います。


「生命の大親」より大自然を通して与えられる運命・環境は、全生物にとって、実に重大なものであります。

「生命の大親」は全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのであります。

全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることであります。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのであります。


「生命の大親」は、全生物の生存にとって、そして全ての生物の霊的成長発展にとって必要な事を大自然を通して与えて下さっているのであります。

肉体的生存にとって必要な事、例えば大宇宙を創造して太陽や月、地球をつくり、海山川等の環境を整え、生物の物質的体をつくる等、この物質界で生存する事に必要なすべての行為を「生命の大親」が大自然を通して行っていて下さるのであります。

人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え耳が聞こえ口がきけて、手足を動かせるような人間としての物質体的な体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのであります。

「生命の大親」は全生物の肉体的生存に必要な物質的全てのことを行っていて下さる一方で、霊的成長発展に必要な運命的な事柄も与えて下さっているのであります。


大自然より活かされ生きている人間の親だけが、人間の子に精神的・肉体的に必要な事を与えて、元の
「生命の大親」が運命的・霊的に必要なことを与えないということはあり得ません。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。

「生命の大親」が最も根本的に望んでおられる事は、生命の御子であります全生物の霊的成長発展であり、肉体的生存はそのために必要な経験と味わいを霊魂に与える方法手段なのです。

従って「生命の大親」は、生命をもった御子であります全生物がそれぞれに必要な経験を味わえるようにこの世における様々な運命・環境をお与え下さっておられるのです。


各霊魂(たましい・精神)にとってどの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのであります。


「生命の大親」は親の子であります人間に自由意志を与えてくれています。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのであります。

だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境に生えてくる為の「行いの種」なのであります。

自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのであります。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。

自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのであります。

「原因・結果の理法とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して真理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからであります。

原因・結果とは、正に厳しくて有難い絶対なる理法であります。プラスにもマイナスにも原因どおりに結果が現れなければ、絶対的な大自然の親理(真理法則)とはいえません。

原因・結果永遠普遍なる絶対的な、大自然の親理(真理法則)なのであります。
「生命の大親」
の絶対的掟であり、永遠普遍の決まりなのであります。

運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからであります。

「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切であります。

人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのであります。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と徳と力を残してあげる事が最大の宝物であります。

大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方がずっと大きな価値なのであります。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからであります。

人類の生命的な質と力が高まるためには、人類が生命的絶対の「生命の大親」の御存在に目覚め「生命の大親」の大自然の力と働きに対してもっともっと素直になるべきであります。

生命も肉体的生存も人間が根源的に創造し営んでいるのではありません。


要するに徳を増やす生き方をしなくてなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:12 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」②

医学が大自然の親理(真理法則)と対立するという考えは明らかな間違いであり、親理(真理法則)を悟っていない非科学者的発想であります。

大自然の全ての営みは総合されております。人間を含め全生物の生存とは肉体的要因だけで生きているのではありません精神的・霊的・運命的・生命的、更に環境的な要因などが全て綜合されて活かされ生きているのであります

病気が治ることを一例として取り上げてみても、医学的な肉体の治療だけがすべてではありません。治るだけの生命力が高まり、治るだけの運命・環境が整い、治るだけの観念となることが必要であります。

たとえ、医学的な治療がうまくいったとしても、そのような治療がたまたま受けられるかどうかは運命的要因が影響してきます。同じ治療や手術でもある人は助かり、ある人は治らないのであります。医学者は治そうとして最大・最善の努力をしますが、それでも結果は違ってくるのであります。

医者の立場にも運命的力は働いています。治り易い患者を多く扱う医者もいれば、幾ら技量が優れていても、間の悪い患者ばかりを扱う医者もおります。問題を起こす患者ばかりを扱っている医者は不運ということになります。

運・不運とは何も医者という職業だけのことではありません。全ての職業・仕事にあてはまります。人間の生存行為だけではなく、全ての生物の生存に事実としてあることなのであります。

大自然が運・不運という運命的現象を現実に起こしている以上は、そこに「原因・結果の理法が厳然として働いている証拠であります。何故なら、大自然の全ての現象や営みに「原因・結果の理法」が働いていて、運命現象にだけは働いていないということはありえないからであります。

運命現象にだけは「原因・結果の理法」がはたらかない、という事になれば、大自然の親理(真理法則)は、もはや大自然の永遠普遍の親理(真理法則)ではなくなります。

大自然の「原因・結果の理法」を否定したならば、一切の科学も学問も、人間の社会生活も成り立たなくなります。第一、この大自然自体の存在と現象が成り立たなくなるのであります。

成り立っている以上は、そこに永遠普遍に働く「原因・結果の理法」を認めざるを得ないのであります。

大自然の力と働きは全て綜合的であるのですから、一部的・部分的・刹那的な見方や感情的・感覚的とらえ方は間違いのもとになります。

特に親子は、体質的、性格的、霊的、運命的などいろいろな要因がつながり、共通しております。人格的、観念的に子が親の影響を受けない筈はありません。むしろ、子に一番影響を与えているのが親なのです。だから、昔から諺に「親の因果が子に報い」と言っているのであります。

親の人格、価値観、行動、観念、情緒など全てが子に影響します。子は親の全てを吸収して自己の人格、観念、性質などの人間性を形成していくのであります。だから、親の念波は九割であると言われているのであります。

子にとって親とは、父母を意味します。親という概念は子にとっては一体性のものであります。従って、両親の仲が悪かったり、価値観が異なっていたりした場合、子供は情緒が不安定になります。父母の意見の対立は、子にとって自己分裂を起こすのです。職業が何であれ、運命・環境がどうであれ、子供にとっては両親が一致していてくれることが大切であります

最近の傾向として、父が仕事だけに一生懸命となり、母が子供の事だけにかまけて、子供を過保護に育ててしまうことがあります。この結果、子供の情緒は不安定となり、子は欠損人格となります。子供自身にストレスがたまってやりきれなくなるのであります。そして遂に家庭内暴力・校内暴力と発展していくのであります。暴走族や非行化していくことも同じ原因です。ただ程度の差と方向性の違いであります。

子供を立派に育てあげるためには、お金や物質を与えることも必要ですが、それだけでは不十分であります。肉体的に子を育てるだけならば、他の動物ですらしていることです。人間の親ならば、両親が一致して人間としてこの世を素晴らしく通る観念や精神を子供に与えるべきなのです。親が自己の人格や観念を子に与えてこそ、人間の親であります。

現在、ほとんどの親達が子に物質的なものを与える事だけに関心をもち、自分達が持っている大切な心を与えることを忘れてしまっています。

大人達が、次の時代を担う子供たちの心を育て、人格を高めることを、家庭でも、学校でも怠っているのです。

その為には、まず自らが人格を高め、感謝と喜びを持った豊かな心を開発発展させなければならないのであります。自らが心の豊かさをもたずして、子に素晴らしい心や情感を与える事は出来ません。

自らが豊かな心と感動をもってこそ、子に与えることが出来るのです。

大自然の「生命の大親」に対して、自らが「生存の感謝と喜び」をもってこそ、その感謝と感動の心を子に与える事ができるのです。

「生命の大親」の生命の祝福を受け、子供を授けて戴いた人間の親達にとって最大・最高・最善の仕事は、次の時代の人類である子供たちに精神的財産を与えていく事です。

精神的財産とは、悟りと徳のことです。つまり、子供達が良い運命・環境で通れるような良い行いの種をしっかりと蒔いて行くことです。

親が蒔いた行いの種が原因となり、その結果が子供の運命・環境に確実に生えてくるのであります。

親が人格的に崇高であり、親の行いが大自然の親理(真理法則)に叶ったものであるならば、親が子に残してあげる運命的財産は素晴らしいものであります。

人間の親が残す最大のものは運命的・精神的財産です。「子孫へ美田を残すな」という諺があります。たとえ子孫に物質的財産を残しても、その財産を維持してゆけるだけの力と徳が子供になければ、子供は財産を全て失う結果となってしまいます。

子供自身の手で財産を立派にきずく事が出来るだけの運命的財産を残してあげるのが、親が子に与える最大の財産であります。

親の作った物質的財産に執着する子供よりも、自らの力でこの世を立派に生きていける力と徳を持った子供に育てあげる事が、人間の親としての最大の義務であります。

子供にとって親からの最大の精神的遺産とは、親が行った人生の事実と、親の人格そのものなのであります。親の行いは事実の種として、子供の人生に必ず運命的に生えてきます。

親のプラスの行いの種もマイナスの行いの種も、必ず子供達の人生にめぐり巡って生えてくるのであります。これが「循環の理法」であります。もし、麦という行いの種を蒔けば、好むと好まざるとにかかわらず、気付こうと気付かざるとにかかわらず、絶対に麦という運命の結果がやがて生えてくるのであります。

原因を行っておいて、運命・環境にだけは結果が現れない、という考え方は最も非科学的であり、矛盾しております。

大自然が与える運命的要因だけには、原因・結果を認めようとしないのは、大自然の「生命の大親」に対する冒瀆であります。大自然に逆らう事になるのであります。

「生命の大親」の大自然の力と働きによって生命を与えられて活かされ生きている人間が大自然に逆らっては良い運命・環境になる理由がありません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:11 | 20.「原因・結果の理法」③
2017年 04月 11日

20.「原因・結果の理法」①

科学は大自然の事実を事実としてとらえて、その原因・結果を探求していくものです。例えば医学は肉体的なことの原因・結果を究明していくものです。しかし、肉体的なことが精神や情緒に影響されるという事の事実が判明すれば、医学は肉体的な物質面からだけの原因・結果を調べるだけではすまされないのです。


生命あるもの、感情あるものは、総てその心の状態が肉体に影響します。これは当然の事ですが、最も大切で絶対に犯すことができない大自然の原理原則です。

もし心配事があれば、ぐっすりと安眠は出来ません。常に不安でいらいらしていれば、心臓にも良くないし、胃にも悪いのは当たり前のことです。ストレスが体に悪いことは当然です。

情緒が不安定であれば、心を紛らす為に酒を飲んだりすることは自己保存の本能による精神安定を求めた姿ですが、却って酒で肉体的健康を害したりして何の徳にもならないのです。しかし、こんな事はよく判っていながら感情にながされて酒を飲み体を悪くするケースが多いのです。だが、心を紛らわそうとして酒に逃げて肉体を悪くしても、心身ともになんのプラスも解決もないのです。
「原因・結果の理法」は、大自然の総てにあてはまります。物質的現象にも、肉体的ことがらにも、心や感情の面にもあてはまるのです。そして大切なことは、運命的な原因・結果もあるのです。

大自然がそのような現象を起こす以上は、そこに運命的原因・結果が厳然として働いているのです。

今迄、人間は運命的原因・結果を白蛇・悪霊・方位方角・易・家相・墓相・印鑑・お経・仏像・お札・手相・人相等々の所為だとしてきました。これらのものは人間が勝手に観念の産物として創造したものです。人間自身の勝手な錯覚なのであります。


運命的原因・結果
は大自然の「生命の大親」の親理法則の力と働きによってなされるものであり、それぞれの運命・環境を与えられて、全生物の生存が40億年にも亘りこの惑星地球で続いて居るのであります。

何時・何処でどの様な親の許にどんな状態でこの世に生まれてくるのか、いつ誰と出会いどのような事を行うか、何歳の時にどんな病気をするか、事故にあうのか等は全て運命・環境として大自然の「原因・結果の理法」のお力と働きによって与えられるものであります。
大自然の全ての現象にはそれぞれの原因・結果が厳然としてあるのであります。
ただ、今まで人間がこの運命的原因・結果の事実を認識していなかっただけの事なのです。

人間が科学として行っていることは、大自然の色々な事実を「原因・結果の理法」によって認識・理解することなのであります。

原因・結果を肉体面にあてはめて認識・理解をおこなっているのが医学であり、認識・理解の対象を天体にした場合は天文学となるのであります。心理学でも、原子物理学でも、あらゆる学問・科学とは「原因・結果の法則」にあてはめて認識・理解を行うことなのであります。

しかし、人間は未だ運命現象を対象とした原因・結果の研究も、認識・理解もしていないのであります。

大自然が行っている総ての現象に「原因・結果の理法」が働いている事を人間は認識・理解しているのにもかかわらず、大自然が与えてくれている運命的現象にだけは原因・結果がないと考えるのは、大変な矛盾であります。

「生命の大親」が大自然をとおして行って下さっている運命現象の原因・結果を人間が未だ認識・理解していないが故に、運命・環境に働く「原因・結果の理法」が信じられないのです。

しかし、大自然の親理(真理法則)とは、何人が気付こうと気付かざるとにかかわらず、好むと好まざるとにかかわらず、何時・何処でも、誰にでも、何にでも事実として絶対に働いている原則であります。


人間の認識・理解を越えて事実その原因通りに結果が現れるのであります。

人間に自由意志を与え、知性・理性・感性を与えて科学、芸術、哲学、宗教 などを発達させるようにしている根源的力と働きは大自然にあるのであります。即ち、人間のあらゆる生存行為すらその根源は大自然の「生命の大親」にあるのだ、ということであります。


人間は
「生命の大親」によってこのように発達する運命・環境を本質的に与えられているのであるということであります。


従って、科学も、医学も,全ての学問は大自然のそれぞれの部分を対象として、大自然の親理(真理法則)を認識・理解する人間の生存行為であるといえるのであります。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 12:10 | 20.「原因・結果の理法」①
2017年 04月 11日

19.「作用総合の理法」

「生命の大親」の親創造された「親理」という無形なるものがあります。この事が一般的に言われる掟、決まりということであります。

「生命の大親生命的段階から捉えると――親理という事になります。

霊的な段階から捉えますと――――真理・摂理という事であります

物質的段階から捉えますと――――法則という事です。

例えば、道路交通法は、人間が作った掟であり、自然界に最初からあったものではありません。

この世の掟として、地球が回るとか、麦を蒔いたら麦が生えるとか、という掟は「生命の大親」が造られたものであります。

大自然の中に活かされている限り、この「生命の大親の決まりによって造られ存在させて頂いています。だから、大自然の掟に従わざる負えないのであります。それが「親理」であります。

しかし私達は、物質的に知識、学問や科学として探求してくると、物理法則として今、捉えているだけであります。

「親理」は、何時、如何なる時も、如何なることにも通用するのであります。これは、永遠普遍性であり、全てに通用するのであります

「生命の大親」は大自然の全て、大宇宙の全てを「親理」によって構成して下さっておられます。全てがそれで出来ている普遍法則であります。それを宗教では部分的に捉えています。万有引力の法則が、特定のところだけに働いている事はありえません

「親理」は誰にでも永遠普遍に働いているのであります。又「親理」を知識として捉えるのではなく、実感として捉えなければなりません。実感にするには、自ら努力して能動的に生命の力を出していかないとそうはなりません。何かを行う力を出さないとそうなりません。

物質としての米とか秋刀魚を取ったら、通用範囲の広いお金に換金します。そのお金を運命環境を良くする「徳」に換えなければなりません。この「徳」は盗むことも、貸すことも、あげる事も出来ません。

この運命財産であります「徳」があれば素晴らしく生きていけるのであります。

しかし、人間は、この世界を創造して下さった「生命の大親」に対して、この世は苦の娑婆だとか、因縁があるとか、先祖が浮かばれていないとか、悪の世界だとか言って、決して素晴らしい世界であるとは言っていません。だから、現代人は、物はありますが、より良く生きていける「徳」という運命貯金がありません。

「徳」のないものは、知識で捉えてしまいます。

「徳」のあるものは、実際の生活で役に立つように身につけるのであります。

素晴らしく生きて行けるよう「生命の大親」の造られた「理法」「作用総合の理法」というのがあります

「作用総合の理法」とは、「あらゆる存在は、全部が総合され何らかの作用性をもってのみ存在している」ということで作用性のないものはありえませんということです。

つまり、何らかの影響がないということはあり得ないということであります

例えば、着物一枚でも、作った人もいれば、販売する人もいます。更にその人達の食料を作った人もいれば、その食料を作った人の農家の家を作った人もいます。この様に考えていきますと全部が関連していますし、影響しない人はありえません。

このような考え方に立つと、自分一人がマイナスで通ると地球をマイナスにする事になります。今日一日、頭にきたと人生で思っても影響します。

現在があるのは過去が全部総合してあったからであります。家庭の中でも一人のひとが機嫌が悪いと家族全部に影響します。

しかし、そこで相手が変な顔をしても、こちらは、にこっとして絶対親念で接する事が大事であります。問題はその時がチャンスであります

私達がプラスで生きるか生きないか、私達が一銭一厘も、お金の使い方が生命にとって、プラスになるように使うか使わないかによって、地球全体の「徳」という事についての作用性ももっています。全ては作用されて総合的になっています。

大宇宙の全て(物質界)も、命霊界(霊界のこと、意識の世界)の全ても、生命界(いのちの世界のこと)の全ても、生命の世界は元々全てが総合された作用の中に存在している世界であります。これが生命の自他一体の世界であります。一即多、多即一であります。一つが全体、全体が一つであります。

時計もいろんな部品で成り立っていますが、でも一つの時計としての総合された時計であります。いわゆる部品が総合されたものであります。

大自然、大宇宙の全ての存在、全ての生命は「作用総合の理法」によってつながっているのであります。

全人類の全生物のアリ一匹でも、アリの生命も全体としての存在であります。

元々、全てがつながっているのが「生命の大親」だけであります。全て「生命の大親」につながっています。基本的に繋がらなければならないのは「生命の大親」であります

物質も生命の一つの生命の形であります。物質も生命の理が働いています。

全部「生命の大親」は総合して下さっておられます。

時間的に総合しているのが永遠性であります。

空間的に総合しているのが普遍性であります。全部ひとつのもので関係ないものはありません

素晴らしい生命の感謝をもって感動をもって生きたら全てに影響していきます。全部に本当に影響いたします。

時間的にも、今のこの一瞬を生命の感謝で通ったら、自分の全体の運命や環境にも影響するのであります。

「親理」は、全てに通用するのであります。こういうことから、親理を悟る為に生きているといっても過言ではありません。

より素晴らしく「生命の大親」につながるべきです。

「作用総合の理法」は、あらゆる個の存在、全体としての存在が作用総合されてのみ存在しうるということであります。個々があるということは、全体としてまとまらなければならないということであります。

この世界を造られたのは「作用総合の理法」と表裏一体のことであります。

これからは、あらゆることに関連があるということから、一瞬一瞬、今日の気持ち一つ、個々のこと、全体として全部影響があるという事で「親理」に沿って、プラス、プラスの気持ちで大いなる親発展を遂げなければなりません。


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:59 | 19.「作用総合の理法」
2017年 04月 11日

18.「終止限界の理法」

人間の世界にだけ法律・秩序があって、大自然界の営みの中に絶対的な掟がないことはありえません。むしろ、大自然界の中に掟があるからこそ、全ての営みがなされています。掟・秩序は、一つの決まりがあるからこそ存在している。

体の中にも秩序があります。一つのきちんとした働きがあります。私達も口から食べています。口以外から食べてはいません。

つまり、秩序がなければ、この世界は混沌としている世界であります。例えば、電子がまわっているとか、生まれて死ぬとか、野球をやっているとき掟がなかったら成り立ちません。要するに、ルールを壊したら存在できないという事であります。

大自然の存在があり、地球も太陽を中心に回っています。銀河系も1回転するのに2億4000万年かかって回っています。

大自然の掟を否定したら成り立たなくなります
「生命の大親の親創造された「終止限界の理法」という基本的ルールがあります。これは、必ず、全てに区切りがありますよという事であります。

前世に死んだから今生、生まれたのであります。昼ごはんが終わったから夕食が食べられるのであります。テレビも一つのシーンが終わるから次のシーンになります。

終わりがなかったら、どういう事になるのでしょうか。野球も終わりがなかったらどういうことになるかというと成り立ちません。

「終止限界の理法」は自然現象を現わすのに必要な理法であります。私達がこの物質界へ生まれてきて終わりがあるという事は素晴らしい事であります。最後は「生命の大親」がお造り下さいました「終止限界の理法」へ到達するのであります。

地球にも、私達の体も区切りがあります。従って、春夏秋冬の四季にしても、一日の区切りにしても、一時間、一年という区切りにしても、全「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」がなければ自然界の全ては成り立ちません

元々は生命的な世界には区切りがないのに物質界の為にわざわざ「終止限界の理法」「生命の大親」はお造りになったのであります。

普通の細胞には区切りがあります。しかし、がん細胞には区切りがありません。細胞増殖が続いていき、区切りがありません。ですから区切りがあるから有り難いのであります

区切りがないと大自然界は成り立たないのであります。区切りがあるからこそ有り難いのです。

物質界の区切りがあるという事で、いろんな物質現象が行われる事の素晴らしさがあります。区切りがあるという事が判りますと、区切りの無いことがわかります。

区切りがないというのは何かといいますと、形のない生命の方で、目に見えない生命の本質であります。

生命の本質は、永遠性であり、永遠なる生命の生きる感動をわざわざ区切りのある物質界で味わせてもらっているのであります。

出会いがあれば別れがあります。出会いが素晴らしければ別れも素晴らしいのであります。始めがあれば、終わりがあります「終止限界の理法」があるから全てのものが味わいがあります

全ての現象は「終止限界の理法」で成り立っております。

「終止限界の理法」を悟りますと

①死に対する恐怖がなくなります

②あらゆるマイナスのことを切ることが出来ます。

③自分のマイナスの観念をプラスに切り換える事が出来ますしかし、頑固に自分の観念を主張して切り換えようとしない人は、別であります。

態度、言葉もよりプラスに積極的に行わなければなりません。

こういうことから、人生の終わりの時、喜びと親感謝で迎える方がよいか、それとも恐怖と不安といらだたしさと苦しみで迎えた方がよいかという事になります。つまり、終わりがあるという事、終わりが無いと生まれても死なない事になります。映画が始まっても終わらない事になりますし、御飯を食べだしたら終わらない事になります。終わらないと苦しみになります。だから、終わる事は有り難いのであります。何故なら死んでも又生まれてくるからであります。生命エネルギーは無くなりません。

私達が生きているのは、この物質界であります地球に旅行に来ているのであります。だから、人生劇場といっているのであります。つまり、一人一人が役をもらって劇をしているのであります。

「終止限界の理法」は時々刻々と働いております。赤ちゃんも時々刻々と過去の姿に、お別れして現在の体に変化しております。結婚も「終止限界の理法」で独身時代の過去に終わりを告げております。

自分の過去と「終止限界の理法」で別れ、けじめをつけるのであります。小学生から中学生になったら区切りをつけます。

しかし、困った事に最近、区切りがなくなってきているのが問題であります「終止限界の理法」に逆らった生き方をしています。男性でも、自分が夫や父親である区切りをつけないものがあります。

夫婦喧嘩でも、関係の無い、過去のことを持ち出して喧嘩しております。その時には「終止限界の理法」を使って終わりにしなければなりません。過去の事を持ち出しますと際限がありません。自分のマイナスの性格には、さよならして思い切ってプラスの方へ向かわなければなりません。面白い事に、夫婦のほめあいが続いているという事は聞いたことがありません。いい事には、思い切ってやらないのに、悪い事は、一生懸命やっています。

「終止限界の理法」で切れ目が良い人は発展性があります。4,5歳の子供の愚痴をあまり聞いたことがありません。今泣いたカラスが、もう笑ったといいます。しかし、年を取ってきますと、愚痴が始まると長いです。なかなか、スパッと切り換えられません。

「問題にしている人に、問題にしている分だけの、問題があります」ということで、切り換えが難しいです。

切り換える時は、思い切ってやらなければなりません「清水の舞台から飛び降りる」という諺どおりの気持ちで行わなければなりません

なかなか、決断の付かない人は「終止限界の理法」の弱い人であります。ぐずぐず悩んだ時に「終止限界の理法」を活用しなければなりません。理を活用するのは、実際の生活に当てはめて見ますと一つの発展があります。

要するに、其の人の運命的な「徳」の力しか働きません

一番大事なことは、私達は「生命の大親」に祝福を頂いて、この親物質界に生まれさせて頂いております。私達は「生命の大親」につながり「生命の大親」にお受け取り頂く事ができますよう、生きる生命の感動で生きなければなりません。

生きる生命の感動なしに生きても価値はありません。生きる生命の感動の為にあらゆる生存行為は行われております。

あえて困難な事に挑戦して「終止限界の理法」を活用し、運命財産であります「徳」を高めて、地球が良くなる為の生き方を絶対なる親念(信じる、信じないの信念ではありません)をもって行わなければなりません


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# by shizennori1 | 2017-04-11 11:51 | 18.「終止限界の理法」